1.バブルの時代というのは1980年代後半から1990年にかけての4~5年の期間を指すのだそうで、私などは改めてそう指摘されると「ああそんなに短かったのか!」と逆に驚いてしまう程である。
バブル経済の基調はインフレで、貨幣は過剰なまでにぐるぐるぐるぐると果てしなく循環した。今とは逆で「小銭を眠らせておいては損だ!」という風潮が闊歩する時代だったのである。(←とは言ってもそれはある程度資力財力のある人たちに限った話で、私のような貧乏人は当時も今もすっからかんの金欠状態なのである。w)
中でも《土地投機》に向けられた資金力というものは凄まじく、買占め・地上げ・転売の目くるめく繰り返しが日夜執拗に繰り返された挙句は「東京の全部の土地を売ればカナダ一国が買える」とか「日本全土を売ればアメリカ全土が何回も買える」・・などという試算が公表されたこともあった。無論これらは地価だけを当時のレートで集計してみただけの、「やけくそ・お手上げの自嘲的《机上の空論》」に過ぎなかったことは言うまでもない。
ところで「平成不況」という言葉があるくらいで、今の二十歳以下の人たちというのは生まれたときからこの国は不況で、仕事を選んでいたら就職出来ず、仕事に就けてもいつ解雇されるかわからないという「不況経済」しか体験したことのない人たちなのである。これも私には驚きというか、常々お気の毒とご同情申し上げているが、人間生まれる時期は自分では選べないので仕方ない。所詮人間生まれてからでは遅過ぎるのである。w
では私はというと、逆算するとバブルの時代は40歳前後で通過しており、その頃の生活はどうだったか思い出すと、トヨタの某大手下請けの工場で「初品」という、まだ量産に入る前の試作品関連の仕事に就いていた。
当時トヨタを始めとする車関連の会社は軒並み強気で、実際車は作るそばから売れていたようである。ラインを走らせる正社員たちなどは組合と会社の取り決めがあって残業は制限されていたが、派遣社員たちは所属が異なるので月100時間を越える残業(←「早出残業」や「休日出勤」を含む)はざらだった。本社所属の技師たちも現場に張り付いて「残業代が1円も付かない無給の残業」に追われていた。やるべき仕事が山積していて、家に帰る時間も惜しまれたのである。彼らは仕事しながら「今度生まれて来るときは技師にだけはなりたくないな」「そうは言ってもあんただけはまた技師になるよ」などと軽口を飛ばしていた。
私らは現場だったから営業とは本来無関係だが、普段新幹線で品物を持って東京と往復している営業の若手から、或る晩近所の寿司屋で食い放題のご馳走を振舞われたことがあった。トヨタではなく日産の某車前輪の摺動部品の試作を作っていたときだった。会社が「トヨタオンリー」から脱却することを目論んでいた時期だったから、バブルも先が見えていたのだろう、なんだか「物凄く大事な仕事」なので上司から「現場にも一献差し上げて置け」という指令が降りたという様子なのであった。
ここに「試作品」と言ってもあくまでラインでの量産が前提だから、休日出勤して数十個手作りで作れば用が足りる状態からラインを組んで数百個~数千個作る段階まではほんの1~2週間である。
私はこの時期2回りも若い仕事仲間から2つのことを教わった。彼は「図面を引かせて貰える♪」と喜んで出向して来たら、図面どころか最初から「現場の応援」に回されて工員に混じっての生産業務が日々の日課になったという不平不満だらけの派遣社員だった。当時は「ブツが足りなくて事務職もへったくれもあるものか!」という時代だったのである。生産が需要に追いつかない時代だった。
①教わったことの第一は吉野家牛丼の食べ方である。当時並盛が400円だったと思う。私は彼と付合うまで吉野家へ恒常的に行く習慣はなかったが、週末になると彼がゲーム仲間を連れてすぐ吉野家へ立ち寄るのである。
それで食べ方というのは別に難しいことではなかったが、最初に紅生姜をこてこてに乗せてから唐辛子を思い切り振り掛けるのである。そうしないと「甘過ぎるから」というのが彼の主張だった。確かに言われてみればその通りで、私はこの教えは20年経った今でも忠実に守っている。
②教わったことの第二は最初期のニンテンドーのファミコンである。私はこれがきっかけで「ドラクエⅢ」「FFⅡ」「信長の野望」「三国志」などに次々手を染めて行った。ドラクエのⅠとⅡも彼から貰ったがこれらはクリア出来ないうちに誰かに譲った。ⅠとⅡはセーブの仕方が古くて「イロハ」を組合わせた呪文を記憶しておく必要があった。教会で簡単にセーブ出来るようになったのはⅢからである。
「ドラゴンクエスト=ドラクエ」は主人公を自分で育てて行く「ロールプレイングゲーム」の草分けであるが、フィールドで遭遇する魔物たちを片っ端から問答無用で打倒していかなくては経験値もゴールドも増えない仕組になっているから、大航海時代の我々非・西欧人が「バイロイト」であり「魔物」であった時代を嫌でも想起させられるが、それはさておいて、とりわけ40才過ぎの私にはあのゲームは驚愕で、世の中にこんなに面白いものがあるのかと嵌りに嵌ったものである。当時25才だった私の教師に言わせると「二十歳過ぎてまだファミコンをやっているとちょっと恥ずかしい」ということだったが、それを言われては私の立場というものがないのだった。w
私が20代から40代にかけては基本的に求人者が求職者を常に上回っており、盛り場や工場街へ行けば「面談即決」の貼り紙はいくらもあった。
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cf.バブル景気
============
プロレタリアは通常「無産市民」と訳される「有産市民」(ブルジョア)の対立概念で、カール・マルクスの造語である。古代ローマで資産・資力のない人間が徴税の対象から外され「オラ子供を作ること以外なぁもお国のためのお役に立てねえだよ♪」と言ったという故事に由来している。これが階級を形成すると「プロレタリアート」と呼ばれる。
マルクスの予言するところによれば「資本主義」が爛熟するに連れ「身分制社会」から解き放たれた諸国民は、生産財(生産手段)を持つ「有産市民(ブルジョアジー)」と、本来「商品」たり得ない自らの「労働力」を売り続けることによってしか社会参加出来ない「プロレタリア(ート)」へとますます二極分解の度合いを強めざるを得ない。従って多数派を占めるプロレタリアが階級形成に成功するならば彼らの主導する社会革命即ちプロレタリア革命は必須というものであった。
この二極分解の矢面に立たされるのがいわゆる「プチ・ブルジョア(小産市民)」であって、農漁民、中小の商工業者、家賃・地代生活者などがこれに該当し、彼らはいずれ財を成してブルジョアに昇格するか、または零落して全てを失いプロレタリアに転落するしかないものとされた。歴史は無論そのようには進展しなかったのであるが・・。
cf.プロレタリアート
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ブルジョアにプチ・ブルジョアがぶら下がっているように、プロレタリアの下層にはルンペン・プロレタリアートの階層が充満しているというのが、マルクスら「階級形成」に熱心な社会運動家たちのいささか乱暴で悪意ある見解だった。これは言ってしまえば「組織された労働運動」の指針に従わない最下層の労働者などは、いつ金で買われて資本の走狗にならないとも限らないから革命にとっては害悪であるという、路上生活者などを蔑視し排斥する思考法であって、これは今の日本でも充分通用している先入観である。
cf.ルンペンプロレタリアート
============
「万国の労働者団結せよ!」で始まった社会運動としての労働運動だったが、実際の歴史を見れば、団結したのはむしろ全世界の総資本であり、逆に敵対しいがみ合い、果ては殺し合いまでをも飽くことなく続けているのが万国の労働者たちなのである。まさにこの世界では「分割せよ。而して統治せよ」という人民支配の大原則が貫かれているわけである。
cf.共産党宣言
cf.ウィキペディアによれば⇒『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(ドイツ語: Der achtzehnte Brumaire des Louis Bonaparteは、カール・マルクスの著書。フランス皇帝ナポレオン三世について書かれた評伝で、「ボナパルティズム」という言葉を世の中に定着させた。
概要 [編集]
冒頭部分は有名である。「世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇としてと」
フランス第二共和政に於いてルイ・ナポレオンが選挙で大統領に当選するが、彼はクーデターを起こして議会を解散させ、その上で皇帝(独裁者)と自称して第二帝政を始めるが、これも僅か17年で幕を閉じてしまう、こういう事の顛末を群集心理を含めて一つ一つ解説するという内容。ここから転じて、有力者の親戚縁者や友人がその名を借りて権力を行使する風潮は「ボナパルティズム」と呼ばれるようになった。
元外交官で作家の佐藤優は『国家論』(NHKブックス、2007年)の中で、2001年頃の小泉純一郎、田中眞紀子現象をボナパルティズム現象と呼んだ。
・・とある。
cf.共産主義というのはコミュニズム即ちコンミューン主義の訳語であるが、これはパリ・コンミューンに由来する言葉である。共産主義という言葉自体にアレルギーのある方はドキュメンタリー文学として定評のある大仏(←旧字が出て来ない)次郎の「パリ燃ゆ」でも読まれたらいいだろう。
============
『「共産主義」は「唯物史観」で「無神論」だから絶対的悪である』などという西欧キリスト教社会の妄動的・妄昧主義に、極東離れ小島の住民たる我々が粛々と習い従わねばならない理由も見つけ難いものであるが、戦前・戦中の公民ならぬ皇民教育の成果か、共産主義に対する偏見的嫌悪感と根拠無き憎悪には今尚拭い難いものがあって、1917年のロシア革命の評価は別としても、ソ連崩壊以降はますますもう一方の大国だったアメリカン・イズムへの傾斜は強まっている。
アメリカがそんなに正しい正義の塊の如き国家だなどとは誰も信じていないが、さてそれではパクス・アメリカ-ナに代わり得る世界統治の方法などこれまた示し得る者など一人もいないというのが我々の抱える現実である。「正解」などどこにもない「出口なし」である。
アメリカ中心の西欧と唯一「文明の衝突」を繰り返しているイスラム圏と北朝鮮がもし結束したら・・などと無責任な憶測を振り撒く向きも一部にあるが、そんなものでは到底力が足りず、これに中国もロシアも参画し、ついでに中南米の何ヶ国かがお膝元でアメリカを裏切ってやっとどうにか「帝国への反乱・反逆」も形を成すだろう・・という程度の絵空事に過ぎない。
アメリカ自身が世界の盟主としての地位からそろそろ降りたいと願っているという田中宇説もさることながら、東部13州の結束から始まったあの国はアメリカ原住民を殺しながらひたすら西進を続けて太平洋岸に達し、ハワイを手に入れフィリッピンを植民地とし、太平洋戦争では日本を原爆2発で屈服させ、その後は朝鮮動乱には国連軍を名乗って参加し、台湾を第7艦隊で守ったかと思えばインドシナ戦争をフランスから引き継いでヴェトナム戦争の泥沼へと身を投じた。
今はヴェトナムの戦火の記憶も日々遠のいているが、彼の国はアフガンにイラン・イラクと、驚くべきことに未だ西進を止めないのである。
我々の思考の行着く先と言えば、現状分析から始まって後は遡行に遡行を重ねる傾向・習性がある。
曰く「今こうである。それはかつてこうだったからだ。なぜこうだったのか。それはその前の歴史がこうこうだったからだ・・」と連綿と打ち続くいわゆる「歴史主義」的思考法を否定し去ったのが彼の「構造主義」であり、これは歴史の連環を輪切りにして行くと、そこには何の変哲もなく、因果応報・原因⇒結果の環が欠如した単なる「事実」の散漫なる集積・堆積があるだけではないかといった、ニヒリズムの臭気がふんぷんたる哲学なのである。
この辺のことについては吉本隆明が昔面白いことを言っていた。
それはつまりこういうことである。60年安保闘争では国会を包囲するデモの波の一員として闘った彼は、なぜ安保闘争が負けたのかという総括を進めて行くうち、闘争を指導した旧左翼・社共は当然駄目、その根っこたるソ連は駄目、ならばレーニン・スターリンは駄目、となればマルクス・エンゲルスもおかしいんじゃないか・・という推論から、自分はへーゲルまで辿り着いたのだと、ここまで遡及すればいけるんじゃないかと考えたというのである。無論ヘーゲルも駄目だという可能性もあるが、自分はともかくヘーゲルまでは戻ったんだと彼は言った。彼はいわゆるへーゲリアンなのかどうか、私にはそれはわからない。
============
吉本の世代は中学生くらいで「終戦」を迎えている。「敗戦」と言わず「終戦」と言うところがジャパニーズ・オブスキュランティズムである。わけのわからない言葉で事実を隠蔽してしまうのである。
戦時中皇国青年だった彼は敗戦で「全てが終わった」と感じた。この虚脱感は相当なものだったろう。それまでの価値観が一遍に崩壊してしまったのであるから・・。
これが彼らより一回り上の世代となると事情は全く異なって来る。
例の治安維持法で拘束され獄中で敗戦を迎えたいわゆる「第一次戦後派」の文学者たちは「これでやっと文学が出来る」という思いで敗戦の報に接したのである。
============
この稿は本来「全共闘とは何か」から説き起こして自称元全共闘の管及び影の総理を一刀の下に切り捨てることを企図して書き始められたものであるが、前口上をはしょって大急ぎで通過して済ませようとした割に実効が現れず、PV数はともかくとしてIP数が暫減の現状ではダラダラ今後書き続ける意味も認められないので、この件はいずれ稿を改めて論じることにする。ぁそ。w(了)
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400人の正社員採用=派遣から登用―トヨタ
時事通信 1月5日(水)15時1分配信
トヨタ自動車が事務系業務を行う正社員を4月1日付で新たに400人採用することが5日、分かった。現在同社で働く派遣社員の中から優先的に採用する方針で、人数に満たなかった場合は一般からの公募も視野に入れる。
専門性の高い事務業務が増えたのが理由。派遣社員は事務作業に法的な制約があるため、正社員化を進める。派遣社員の中から優先的に採用することについて、同社では「すでに業務にあたっていることから、企業理念を理解していることが大きい」(広報部)としている。
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バブル経済の基調はインフレで、貨幣は過剰なまでにぐるぐるぐるぐると果てしなく循環した。今とは逆で「小銭を眠らせておいては損だ!」という風潮が闊歩する時代だったのである。(←とは言ってもそれはある程度資力財力のある人たちに限った話で、私のような貧乏人は当時も今もすっからかんの金欠状態なのである。w)
中でも《土地投機》に向けられた資金力というものは凄まじく、買占め・地上げ・転売の目くるめく繰り返しが日夜執拗に繰り返された挙句は「東京の全部の土地を売ればカナダ一国が買える」とか「日本全土を売ればアメリカ全土が何回も買える」・・などという試算が公表されたこともあった。無論これらは地価だけを当時のレートで集計してみただけの、「やけくそ・お手上げの自嘲的《机上の空論》」に過ぎなかったことは言うまでもない。
ところで「平成不況」という言葉があるくらいで、今の二十歳以下の人たちというのは生まれたときからこの国は不況で、仕事を選んでいたら就職出来ず、仕事に就けてもいつ解雇されるかわからないという「不況経済」しか体験したことのない人たちなのである。これも私には驚きというか、常々お気の毒とご同情申し上げているが、人間生まれる時期は自分では選べないので仕方ない。所詮人間生まれてからでは遅過ぎるのである。w
では私はというと、逆算するとバブルの時代は40歳前後で通過しており、その頃の生活はどうだったか思い出すと、トヨタの某大手下請けの工場で「初品」という、まだ量産に入る前の試作品関連の仕事に就いていた。
当時トヨタを始めとする車関連の会社は軒並み強気で、実際車は作るそばから売れていたようである。ラインを走らせる正社員たちなどは組合と会社の取り決めがあって残業は制限されていたが、派遣社員たちは所属が異なるので月100時間を越える残業(←「早出残業」や「休日出勤」を含む)はざらだった。本社所属の技師たちも現場に張り付いて「残業代が1円も付かない無給の残業」に追われていた。やるべき仕事が山積していて、家に帰る時間も惜しまれたのである。彼らは仕事しながら「今度生まれて来るときは技師にだけはなりたくないな」「そうは言ってもあんただけはまた技師になるよ」などと軽口を飛ばしていた。
私らは現場だったから営業とは本来無関係だが、普段新幹線で品物を持って東京と往復している営業の若手から、或る晩近所の寿司屋で食い放題のご馳走を振舞われたことがあった。トヨタではなく日産の某車前輪の摺動部品の試作を作っていたときだった。会社が「トヨタオンリー」から脱却することを目論んでいた時期だったから、バブルも先が見えていたのだろう、なんだか「物凄く大事な仕事」なので上司から「現場にも一献差し上げて置け」という指令が降りたという様子なのであった。
ここに「試作品」と言ってもあくまでラインでの量産が前提だから、休日出勤して数十個手作りで作れば用が足りる状態からラインを組んで数百個~数千個作る段階まではほんの1~2週間である。
私はこの時期2回りも若い仕事仲間から2つのことを教わった。彼は「図面を引かせて貰える♪」と喜んで出向して来たら、図面どころか最初から「現場の応援」に回されて工員に混じっての生産業務が日々の日課になったという不平不満だらけの派遣社員だった。当時は「ブツが足りなくて事務職もへったくれもあるものか!」という時代だったのである。生産が需要に追いつかない時代だった。
①教わったことの第一は吉野家牛丼の食べ方である。当時並盛が400円だったと思う。私は彼と付合うまで吉野家へ恒常的に行く習慣はなかったが、週末になると彼がゲーム仲間を連れてすぐ吉野家へ立ち寄るのである。
それで食べ方というのは別に難しいことではなかったが、最初に紅生姜をこてこてに乗せてから唐辛子を思い切り振り掛けるのである。そうしないと「甘過ぎるから」というのが彼の主張だった。確かに言われてみればその通りで、私はこの教えは20年経った今でも忠実に守っている。
②教わったことの第二は最初期のニンテンドーのファミコンである。私はこれがきっかけで「ドラクエⅢ」「FFⅡ」「信長の野望」「三国志」などに次々手を染めて行った。ドラクエのⅠとⅡも彼から貰ったがこれらはクリア出来ないうちに誰かに譲った。ⅠとⅡはセーブの仕方が古くて「イロハ」を組合わせた呪文を記憶しておく必要があった。教会で簡単にセーブ出来るようになったのはⅢからである。
「ドラゴンクエスト=ドラクエ」は主人公を自分で育てて行く「ロールプレイングゲーム」の草分けであるが、フィールドで遭遇する魔物たちを片っ端から問答無用で打倒していかなくては経験値もゴールドも増えない仕組になっているから、大航海時代の我々非・西欧人が「バイロイト」であり「魔物」であった時代を嫌でも想起させられるが、それはさておいて、とりわけ40才過ぎの私にはあのゲームは驚愕で、世の中にこんなに面白いものがあるのかと嵌りに嵌ったものである。当時25才だった私の教師に言わせると「二十歳過ぎてまだファミコンをやっているとちょっと恥ずかしい」ということだったが、それを言われては私の立場というものがないのだった。w
私が20代から40代にかけては基本的に求人者が求職者を常に上回っており、盛り場や工場街へ行けば「面談即決」の貼り紙はいくらもあった。
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cf.バブル景気
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プロレタリアは通常「無産市民」と訳される「有産市民」(ブルジョア)の対立概念で、カール・マルクスの造語である。古代ローマで資産・資力のない人間が徴税の対象から外され「オラ子供を作ること以外なぁもお国のためのお役に立てねえだよ♪」と言ったという故事に由来している。これが階級を形成すると「プロレタリアート」と呼ばれる。
マルクスの予言するところによれば「資本主義」が爛熟するに連れ「身分制社会」から解き放たれた諸国民は、生産財(生産手段)を持つ「有産市民(ブルジョアジー)」と、本来「商品」たり得ない自らの「労働力」を売り続けることによってしか社会参加出来ない「プロレタリア(ート)」へとますます二極分解の度合いを強めざるを得ない。従って多数派を占めるプロレタリアが階級形成に成功するならば彼らの主導する社会革命即ちプロレタリア革命は必須というものであった。
この二極分解の矢面に立たされるのがいわゆる「プチ・ブルジョア(小産市民)」であって、農漁民、中小の商工業者、家賃・地代生活者などがこれに該当し、彼らはいずれ財を成してブルジョアに昇格するか、または零落して全てを失いプロレタリアに転落するしかないものとされた。歴史は無論そのようには進展しなかったのであるが・・。
cf.プロレタリアート
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ブルジョアにプチ・ブルジョアがぶら下がっているように、プロレタリアの下層にはルンペン・プロレタリアートの階層が充満しているというのが、マルクスら「階級形成」に熱心な社会運動家たちのいささか乱暴で悪意ある見解だった。これは言ってしまえば「組織された労働運動」の指針に従わない最下層の労働者などは、いつ金で買われて資本の走狗にならないとも限らないから革命にとっては害悪であるという、路上生活者などを蔑視し排斥する思考法であって、これは今の日本でも充分通用している先入観である。
cf.ルンペンプロレタリアート
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「万国の労働者団結せよ!」で始まった社会運動としての労働運動だったが、実際の歴史を見れば、団結したのはむしろ全世界の総資本であり、逆に敵対しいがみ合い、果ては殺し合いまでをも飽くことなく続けているのが万国の労働者たちなのである。まさにこの世界では「分割せよ。而して統治せよ」という人民支配の大原則が貫かれているわけである。
cf.共産党宣言
cf.ウィキペディアによれば⇒『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(ドイツ語: Der achtzehnte Brumaire des Louis Bonaparteは、カール・マルクスの著書。フランス皇帝ナポレオン三世について書かれた評伝で、「ボナパルティズム」という言葉を世の中に定着させた。
概要 [編集]
冒頭部分は有名である。「世界史上の有名人物は二度現れるとヘーゲルは書いた。ヘーゲルは次の言葉を付け加える事を忘れていた。一度目は悲劇として、二度目は茶番劇としてと」
フランス第二共和政に於いてルイ・ナポレオンが選挙で大統領に当選するが、彼はクーデターを起こして議会を解散させ、その上で皇帝(独裁者)と自称して第二帝政を始めるが、これも僅か17年で幕を閉じてしまう、こういう事の顛末を群集心理を含めて一つ一つ解説するという内容。ここから転じて、有力者の親戚縁者や友人がその名を借りて権力を行使する風潮は「ボナパルティズム」と呼ばれるようになった。
元外交官で作家の佐藤優は『国家論』(NHKブックス、2007年)の中で、2001年頃の小泉純一郎、田中眞紀子現象をボナパルティズム現象と呼んだ。
・・とある。
cf.共産主義というのはコミュニズム即ちコンミューン主義の訳語であるが、これはパリ・コンミューンに由来する言葉である。共産主義という言葉自体にアレルギーのある方はドキュメンタリー文学として定評のある大仏(←旧字が出て来ない)次郎の「パリ燃ゆ」でも読まれたらいいだろう。
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『「共産主義」は「唯物史観」で「無神論」だから絶対的悪である』などという西欧キリスト教社会の妄動的・妄昧主義に、極東離れ小島の住民たる我々が粛々と習い従わねばならない理由も見つけ難いものであるが、戦前・戦中の公民ならぬ皇民教育の成果か、共産主義に対する偏見的嫌悪感と根拠無き憎悪には今尚拭い難いものがあって、1917年のロシア革命の評価は別としても、ソ連崩壊以降はますますもう一方の大国だったアメリカン・イズムへの傾斜は強まっている。
アメリカがそんなに正しい正義の塊の如き国家だなどとは誰も信じていないが、さてそれではパクス・アメリカ-ナに代わり得る世界統治の方法などこれまた示し得る者など一人もいないというのが我々の抱える現実である。「正解」などどこにもない「出口なし」である。
アメリカ中心の西欧と唯一「文明の衝突」を繰り返しているイスラム圏と北朝鮮がもし結束したら・・などと無責任な憶測を振り撒く向きも一部にあるが、そんなものでは到底力が足りず、これに中国もロシアも参画し、ついでに中南米の何ヶ国かがお膝元でアメリカを裏切ってやっとどうにか「帝国への反乱・反逆」も形を成すだろう・・という程度の絵空事に過ぎない。
アメリカ自身が世界の盟主としての地位からそろそろ降りたいと願っているという田中宇説もさることながら、東部13州の結束から始まったあの国はアメリカ原住民を殺しながらひたすら西進を続けて太平洋岸に達し、ハワイを手に入れフィリッピンを植民地とし、太平洋戦争では日本を原爆2発で屈服させ、その後は朝鮮動乱には国連軍を名乗って参加し、台湾を第7艦隊で守ったかと思えばインドシナ戦争をフランスから引き継いでヴェトナム戦争の泥沼へと身を投じた。
今はヴェトナムの戦火の記憶も日々遠のいているが、彼の国はアフガンにイラン・イラクと、驚くべきことに未だ西進を止めないのである。
我々の思考の行着く先と言えば、現状分析から始まって後は遡行に遡行を重ねる傾向・習性がある。
曰く「今こうである。それはかつてこうだったからだ。なぜこうだったのか。それはその前の歴史がこうこうだったからだ・・」と連綿と打ち続くいわゆる「歴史主義」的思考法を否定し去ったのが彼の「構造主義」であり、これは歴史の連環を輪切りにして行くと、そこには何の変哲もなく、因果応報・原因⇒結果の環が欠如した単なる「事実」の散漫なる集積・堆積があるだけではないかといった、ニヒリズムの臭気がふんぷんたる哲学なのである。
この辺のことについては吉本隆明が昔面白いことを言っていた。
それはつまりこういうことである。60年安保闘争では国会を包囲するデモの波の一員として闘った彼は、なぜ安保闘争が負けたのかという総括を進めて行くうち、闘争を指導した旧左翼・社共は当然駄目、その根っこたるソ連は駄目、ならばレーニン・スターリンは駄目、となればマルクス・エンゲルスもおかしいんじゃないか・・という推論から、自分はへーゲルまで辿り着いたのだと、ここまで遡及すればいけるんじゃないかと考えたというのである。無論ヘーゲルも駄目だという可能性もあるが、自分はともかくヘーゲルまでは戻ったんだと彼は言った。彼はいわゆるへーゲリアンなのかどうか、私にはそれはわからない。
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吉本の世代は中学生くらいで「終戦」を迎えている。「敗戦」と言わず「終戦」と言うところがジャパニーズ・オブスキュランティズムである。わけのわからない言葉で事実を隠蔽してしまうのである。
戦時中皇国青年だった彼は敗戦で「全てが終わった」と感じた。この虚脱感は相当なものだったろう。それまでの価値観が一遍に崩壊してしまったのであるから・・。
これが彼らより一回り上の世代となると事情は全く異なって来る。
例の治安維持法で拘束され獄中で敗戦を迎えたいわゆる「第一次戦後派」の文学者たちは「これでやっと文学が出来る」という思いで敗戦の報に接したのである。
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この稿は本来「全共闘とは何か」から説き起こして自称元全共闘の管及び影の総理を一刀の下に切り捨てることを企図して書き始められたものであるが、前口上をはしょって大急ぎで通過して済ませようとした割に実効が現れず、PV数はともかくとしてIP数が暫減の現状ではダラダラ今後書き続ける意味も認められないので、この件はいずれ稿を改めて論じることにする。ぁそ。w(了)
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400人の正社員採用=派遣から登用―トヨタ
時事通信 1月5日(水)15時1分配信
トヨタ自動車が事務系業務を行う正社員を4月1日付で新たに400人採用することが5日、分かった。現在同社で働く派遣社員の中から優先的に採用する方針で、人数に満たなかった場合は一般からの公募も視野に入れる。
専門性の高い事務業務が増えたのが理由。派遣社員は事務作業に法的な制約があるため、正社員化を進める。派遣社員の中から優先的に採用することについて、同社では「すでに業務にあたっていることから、企業理念を理解していることが大きい」(広報部)としている。
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