本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

テレビは今「芸人文化」を執拗に伝播する媒体に成り下がっている。

2011-08-29 00:23:15 | 社会
1.ウィキペディア「芸人」によると: ↓

 芸人(げいにん)とは、なんらかの技芸や芸能の道に通じている人、または身に備わった技芸や芸能をもって職業とする人のことを指す。また、分野に関わらず、特に優れた技術を持っている場合に、その技術を褒め称える意味において芸人と呼ぶことがある。

近年はテレビ番組などの影響により、芸人という職そのものが「お笑いタレント」のみであるという間違った使われ方が多い。

かつては俳優や舞踊家を、さらに昔は碁打ちや将棋指しを芸人と呼ぶ場合もあったが、現代においてはあまり使われなくなってきている。

江戸時代には、芸人は芸を披露することで関所を手形なしで通ることができた。

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確かに「芸人」の本来の意味は「一芸に秀でた人」という意味だったのだろうが、今は「お笑いタレント」の意味で使われる。だからと言って「昔そうだったから今もそうでなければならない」などという復古主義は意味がない。言葉は時代と共に変遷を重ねるものである。

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たけし 紳助さん引退「全然わかんない」

 タレントのビートたけし(64)は、TBS・MBS系「情報7daysニュースキャスター」に出演し、島田紳助さん(55)について「漫才ブームのときくらいしか紳助を知らない」と話すにとどまった。

 ビートたけしは紳助さんの引退について「全然わかんないんだよね」と明言を避けた。

 引退発表会見は見たと明かしたが「いろんな所で『本当はどうなんだ』と聞かれるんだけど、漫才ブームの時くらいしか紳助のことは知らないんだ」と近年の付き合いがなかったことを明かした。「全然分からないから、どちらの味方につくこともない。『味方』というものもないけど」とコメントした。

 また、自身にも以前、暴力団関係者から「会ってみたい」とアプローチがあったことを告白。仕事を理由に避けていたが避けきれなくなり、雑誌の対談として公に対面することで黒い交際に発展することを避けた“対処法”を語っていた。
(2011年8月28日)『デイリースポーツ』

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 たけしも以前「そのまんま東」ら軍団を率いて雑誌社に殴り込みをかけたり、或いはテレビスタジオで突如パンツを脱いでみたり、バイクで自殺まがいの暴走をして大怪我してみたりと、お騒がせ芸人の筆頭だった頃にはテレビ業界の鼻つまみ者だった筈だが、気がついてみると業界各社はいつの間にか競って彼を崇め奉る姿勢を取るようになっていた。

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以下はガラパゴス速報より ↓

75:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2011/08/24(水) 00:19:07.34 ID:m3wSFew80
レギュラー番組
行列のできる法律相談所 日曜日21:00 - 21:54(日本テレビ系列)
人生が変わる1分間の深イイ話 月曜日21:00 - 21:54(日本テレビ系列)
クイズ!紳助くん 月曜日23:17 - 24:17(ABC他)
紳助社長のプロデュース大作戦! 火曜日19:00 - 19:56(TBS系列)
開運!なんでも鑑定団 火曜日20:54 - 21:54(テレビ東京系列)
クイズ!ヘキサゴンII 水曜日19:00 - 19:57(フジテレビ系列)

単発・不定期番組
オールスター感謝祭(TBS系列/春・秋の年2回期首特番)
ZERO×選挙 (日本テレビ系列/衆議院選挙もしくは参議院選挙実施時に放送)
行列のできる芸能人通販王決定戦(日本テレビ系列/不定期特番)
世界1のSHOWタイム~ギャラを決めるのはアナタ~(日本テレビ系列/不定期特番)
ザ・爆笑王 2010春 激突!夢のベストテン(日本テレビ系列/2010年3月16日放送)
FNSの日(フジテレビ系列/1987年 - 1989年、2005年 - 2011年/2009年・2010年は総合司会、それ以外はゲスト出演)
THE MANZAI(フジテレビ系列/不定期特番)2011年12月放送予定
24時間テレビ 「愛は地球を救う」(日本テレビ系列/2005年・2007年・2009年・2011年/ゲスト出演)

CM
現在
三浦工業(2001年 - )
中央出版(1994年6月 - )
リーブ21(2006年12月 - ):和田アキ子と共演。
大塚食品「マンナンヒカリ」(2009年10月 - )

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 ↑ こうして見ると、私は島田紳助が仕切っていた番組は殆ど見ていないことがわかった。別に彼が嫌いというわけではない。バラエティは殆ど見ないのである。秒間を擱かずつまらぬことで必死に笑いを取ろうとする製作側の粗野で下品な思惑が性に合わないから見ないのである。さんまも見ないし、ダウンタウンもタモリも見ない。テレビが一方的に強要して来る『笑い』で癒される人は見たらいいが、私はそうではないのだ。私は外でも自室でもよく笑う人間だが、テレビのお笑い番組で笑うことはまずない。落語なら笑うが・・。

cf.お笑い芸人相関図

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2.本読みが本読みに触発されたのか宮崎哲弥著『新書365冊』松岡正剛の千夜千冊遊蕩篇では松岡はかなり宮崎を持ち上げ熱の入った評論を展開している。彼は今何歳になるのか知らないが、私が敬服する埴谷雄高にもM・フーコーにも生前直接会って会話を交わしている凄い人間なのである。その松岡が『ベタ褒め』(?)するのだから宮崎も相当な人間なのだろう。

 長文なので少しだけ部分引用してみると: ↓

・・社会の見方は一様では役に立たない。たとえば「自由」と並んで金科玉条になっている「平等」であるが、何をもって平等と見るかによって社会の様相はころころ変わる。
  石井政之『肉体不平等』(平凡社新書)は、ボディイメージという自意識の範囲がどのようになっているかという点から、平等意識の臨界点を見た。サナトロジーを駆使した生駒孝彰『私の臓器はだれのものですか』では、アメリカは臓器移植を許容して妊娠中絶に辛く、日本は臓器移植に敏感になるのに中絶問題には無関心であることに、此彼のちがいを見ている。平等ヅラで報道をしているマスコミがちっとも平等ではないのは誰だって知っているが、なぜ格差報道をするかは、ちゃんと解説されたためしはない。小林雅一『隠すマスコミ、騙されるマスコミ』(文春新書)はそこを突いた。
  自由・平等とともに「人権」というのも、はなはだあてにならない。容疑者や犯罪者を実名で報道するかどうかさえ、いまなおままならない。高山文彦『少年犯罪実名報道』(文春新書)はそのあたりを扱って、いわゆる人権派たちが実名報道を批判している根拠を批判する。似たようなことは戦火と戦果をごっちゃに扱うメディアの戦場レポートにもあらわれる。武田徹『戦争報道』(ちくま新書)や森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』(中公新書ラクレ)、井上薫『司法のしゃべりすぎ』(新潮新書)などがその問題をとりあげている。
  もともと社会というもの、格差だらけなのである。これが一様になくなるなんてことは、まずありえない。宮崎はそのへんをよく見抜いて、これらの新書の見解に端的な評釈を加えた。

・・ということである。

cf.ウィキペディア宮崎哲弥

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