「医は以て人を活かす心なり。故に医は仁術という。疾ありて療を求めるは、唯に、焚溺水火に求めず。医は当(まさ)に仁慈の術に当たるべし。須(すべから)く髪をひらき冠を取りても行きて、これを救うべきなり」(陸宣公:唐の徳宗の時代の宰相。センの字が出て来ない!)ウィキペディアより。
日本では江戸時代貝原益軒が『養生訓』の中でこれを引用しこの言葉はブームになった。
そこでさて、医は仁術なのか、それともまたこれも算術の一種一様態に過ぎないのかという問題がある。
これと似たような立論としては「教職は聖職なのか否か」という問題も屢々議論されて来た。職業に聖なるものと賤しいものとがあるという判断は一体どんなものだろうか?
私は職業には聖職も無ければ賎業も無いという判断をする。聖職というなら全ての職業は聖なる行為であり、逆に或る職業を卑しいと呼ぶなら他の任意の職業だって同様に卑しいだろう。
同様に私は医は仁術でもあり同時に少なからず算術でもあると判断するものである。医術のみが仁術で無ければならない理由など何処にもないし、逆に医術のみが算術だなどと断定出来ないしすべきでもない。職業に貴賤はないのである。
病院も営利目的の企業である以上、病院経営の責任者だって日々金策に走って遣り繰りを付けなければ、すぐにでもその病院は経営破綻に追い込まれてしまう(かも知れない)。我々の世界は所詮「全ては金目でしょ?」という世界でしかない。取り分け安倍・黒田体制下の今の日本はそうだと言うべきだ。「構成員全員が謂わば金の亡者なのである」と言ってもさして言い過ぎだとも思われない。
日本では江戸時代貝原益軒が『養生訓』の中でこれを引用しこの言葉はブームになった。
そこでさて、医は仁術なのか、それともまたこれも算術の一種一様態に過ぎないのかという問題がある。
これと似たような立論としては「教職は聖職なのか否か」という問題も屢々議論されて来た。職業に聖なるものと賤しいものとがあるという判断は一体どんなものだろうか?
私は職業には聖職も無ければ賎業も無いという判断をする。聖職というなら全ての職業は聖なる行為であり、逆に或る職業を卑しいと呼ぶなら他の任意の職業だって同様に卑しいだろう。
同様に私は医は仁術でもあり同時に少なからず算術でもあると判断するものである。医術のみが仁術で無ければならない理由など何処にもないし、逆に医術のみが算術だなどと断定出来ないしすべきでもない。職業に貴賤はないのである。
病院も営利目的の企業である以上、病院経営の責任者だって日々金策に走って遣り繰りを付けなければ、すぐにでもその病院は経営破綻に追い込まれてしまう(かも知れない)。我々の世界は所詮「全ては金目でしょ?」という世界でしかない。取り分け安倍・黒田体制下の今の日本はそうだと言うべきだ。「構成員全員が謂わば金の亡者なのである」と言ってもさして言い過ぎだとも思われない。