
*以下『千字寄席』1分でわかる落語のあらすじ 第23話《たがや》 から全文引用します。
安永年間、五月二十八日は両国の川開き。
両国橋の上は見物人でごったがえす。
花火をめでると「玉屋」の声しきり。
本所方向から旗本の一行。
前には二人の供侍、中間は槍を持っている。
「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。
反対側の広小路方向から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。
「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。
もっと早く気がつきゃァよかったなあ。
といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。
しかたがねえ。通してもらおう。すみません」
もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。
恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」
たがやはあやまるが、侍は容赦しない。
開き直ったたがや、「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一(さんぴん)てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」
必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。
最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。
突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。
まわりにいた見物人が「上がった上がったィ。たァがやァい」
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◆うんちく
原話は不詳。
これこそは、数少ない江戸の落語です。
両国の川開きで花火が年中行事化したのは享保2(1717)年なので、それ以後の作といわれています。
ここでいう花火は、7月の最終土曜日に催される隅田川の、あれ。
当時は、旧暦の5月にあったんですね。
安永年間(1772-1781)というのは、十代将軍家治の時代です。
たがやとは、大道で桶を修理したり、たがを取り替えたりする職人のこと。
たがとは、桶や樽などの回りを巻いて外れないように締める竹の輪のことです。
玉屋は、両国にあった花火屋。
横山町の鍵屋の番頭がのれん分けしましたが、天保14(1843)年出火したため、廃業処分になってしまいました。
両国橋というのは、隅田川をまたいで東の本所(下総国)と西の吉川町(武蔵国)を結ぶのでこの名があります。
ふたつの国にまたがる都市は、当時としては相当珍しかったのですね。
「手は見せぬ」というのは、刀を抜く手を見せずすばやく斬ってしまうこと。
今は使う場面もない言葉ですね。
柱暦は縦長の暦で柱に付けるもの。
暦の類いは、表向きは町人が所持することを禁じられていましたが、生活が不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。
千段巻きとは、槍の柄で籐で巻き漆を塗った部分。
この噺は、もちろん志ん生もやってましたが、三代目三遊亭金馬、三代目桂三木助などが、夏になると高座にかけていました。
立川談志は、たがやの首を飛ばすサゲでやっています。
これがもともとの演出で、侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった職人たちが寄席に大勢来るようになったので、彼らを喜ばせるためというのが定説です。
落語とはいいかげんなもので噺を聴いてくれる層に合わせててきとうに筋を曲げてしまうものなのです。
安政の大地震は江戸の人々に大きな衝撃を与えたものでこれ以前と以後とでは、人の心のうつろいに大きな変化があったといわれています。
大工や棟梁なんかをもてはやす噺が、たくさんつくられているんですね。
落語とは、たしかに庶民の声を反映させてもいるのですが、噺の筋を、単純に鵜呑みにできない面もあるのです。
ご注意。
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*以上引用終わり。







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安永年間、五月二十八日は両国の川開き。
両国橋の上は見物人でごったがえす。
花火をめでると「玉屋」の声しきり。
本所方向から旗本の一行。
前には二人の供侍、中間は槍を持っている。
「寄れ、寄れいッ」
と、強引に渡ろうとする。
反対側の広小路方向から通りかかったのが、商売物の桶のたばをかついだ、たがや。
「いけねえ、川開きだ。えれえことしちゃったなあ。
もっと早く気がつきゃァよかったなあ。
といって、永代橋を回っちゃしょうがねえし、吾妻橋へ引き返すのもドジだし、どうにもしょうがねえ。
しかたがねえ。通してもらおう。すみません」
もみ合う中、後ろから押されたはずみに、かついでいたたががはずれ、向こうからやって来た侍の笠の縁をはがしてしまった。
恥をかかされた侍は、カンカンになって怒り「たわけ者め、屋敷へまいれ」
「腰の抜けたおやじと目の悪いおふくろがあっしの帰りを首を長くして待っています。助けてください」
たがやはあやまるが、侍は容赦しない。
開き直ったたがや、「血も涙もねえ、眼も鼻も口もねえ、のっぺらぼうの丸太ん棒野郎ッ。四六の裏め」
「なにッ」
「三一(さんぴん)てえんだ」
「無礼なことを申すと、手は見せんぞ」
「見せねえ手ならしまっとけ」
「大小がこわくないか」
「大小がこわかった日にゃ、柱暦の下ァ、通れねえ」
必死のたがやは侍の刀を奪って、次々と供を斬り殺していく。
最後に残った旗本が馬から下りて槍をしごく。
突いてくる槍の千段巻きを、たがやはグッとつかみ、横一文字に刀をはらうと、勢い余って武士の首が宙天に。
まわりにいた見物人が「上がった上がったィ。たァがやァい」
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◆うんちく
原話は不詳。
これこそは、数少ない江戸の落語です。
両国の川開きで花火が年中行事化したのは享保2(1717)年なので、それ以後の作といわれています。
ここでいう花火は、7月の最終土曜日に催される隅田川の、あれ。
当時は、旧暦の5月にあったんですね。
安永年間(1772-1781)というのは、十代将軍家治の時代です。
たがやとは、大道で桶を修理したり、たがを取り替えたりする職人のこと。
たがとは、桶や樽などの回りを巻いて外れないように締める竹の輪のことです。
玉屋は、両国にあった花火屋。
横山町の鍵屋の番頭がのれん分けしましたが、天保14(1843)年出火したため、廃業処分になってしまいました。
両国橋というのは、隅田川をまたいで東の本所(下総国)と西の吉川町(武蔵国)を結ぶのでこの名があります。
ふたつの国にまたがる都市は、当時としては相当珍しかったのですね。
「手は見せぬ」というのは、刀を抜く手を見せずすばやく斬ってしまうこと。
今は使う場面もない言葉ですね。
柱暦は縦長の暦で柱に付けるもの。
暦の類いは、表向きは町人が所持することを禁じられていましたが、生活が不便なので、簡単なものを寺社などからもらってきていました。
千段巻きとは、槍の柄で籐で巻き漆を塗った部分。
この噺は、もちろん志ん生もやってましたが、三代目三遊亭金馬、三代目桂三木助などが、夏になると高座にかけていました。
立川談志は、たがやの首を飛ばすサゲでやっています。
これがもともとの演出で、侍の首が飛ぶようになったのは、幕末に安政大地震(1855)の復興景気で、職人の手間賃が跳ね上がり、景気のよくなった職人たちが寄席に大勢来るようになったので、彼らを喜ばせるためというのが定説です。
落語とはいいかげんなもので噺を聴いてくれる層に合わせててきとうに筋を曲げてしまうものなのです。
安政の大地震は江戸の人々に大きな衝撃を与えたものでこれ以前と以後とでは、人の心のうつろいに大きな変化があったといわれています。
大工や棟梁なんかをもてはやす噺が、たくさんつくられているんですね。
落語とは、たしかに庶民の声を反映させてもいるのですが、噺の筋を、単純に鵜呑みにできない面もあるのです。
ご注意。
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*以上引用終わり。







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