むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

99番、後鳥羽院

2023年07月09日 07時40分06秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思ふゆゑに 物思ふ身は>


(あじきないこの世だ
物思いにふけるわが身に
人はあるときはいとしく
また あるときは憎らしく
思われる
おお
うつうつと楽しまぬ人生に
愛憎こもごも
身のまわりに点滅する人たち)






・この「人もをし」は「愛(を)し」である。

憂うつな口ぶりの歌であるから、
鎌倉幕府との抗争に、
敗れたあとの感懐のようであるが、
これはそれよりずっと前のお作。

後鳥羽院三十代の「述懐」で、
承久の乱はこれより九年後である。

後鳥羽院は治承四年(1180)のお生まれ、
高倉天皇の第四皇子、
かの安徳天皇の異母弟に当られる。

寿永二年(1183)、
平家が木曽義仲軍に追われて、
六歳の安徳天皇を奉じ、
西海へ逃げたあと、
祖父の後白河法皇は、
四歳の第四皇子を帝位に即けられた。

それが後鳥羽天皇である。

しかし、帝位にあったのは十九歳までで、
幼い皇子に譲位して土御門天皇とされ、
ご自分は院政を執られる。

鎌倉幕府に掣肘せられるとはいえ、
堰を切ったように豪勇生活がはじまる。

型破りにエネルギュッシュで、
多芸多才の芸術家で、
豪宕な好事家はいられなかった。

歌や蹴鞠、囲碁、双六などというのは、
古来から王侯貴顕の教養であるから、
代々の帝もたしなまれるが、
後鳥羽院はその上にスポーツも万能で、
力持ちで武辺好みの帝王で、
ギャンブル好き、
色ごとにかけてもひけは取らぬ粋人。

それも身分低い遊女もはばからず召されて、
白拍子亀菊をご寵愛になったのは有名な話である。

剣にも凝られ、
コレクションなさるだけではなく、
みずから刀を鍛えられて、
今に「菊一文字」というお作が伝えられている。

旅行好きという点でもめざましく、
熊野御幸は三十回に及ぶ。

おびただしい人々を連れ、
泊り泊りで酒宴を重ねつつの歓楽行であるから、
豪奢をきわめた。

その上、善美を尽くした、
水無瀬離宮を造営されたりする。

二十歳前後から、
院の情熱は突如和歌に噴出する。

定家と後鳥羽院はこのとき蜜月状態であった。

後鳥羽院を中心に、
歌のルネサンス時代が出現した。

院の仰せで撰進された『新古今集』は、
その結実である。

やがて院の情熱は、
歌から政治へと向かう。

天皇親政を夢みて後鳥羽院は、
討幕の志を抱かれるようになる。

承久の乱のとき、
院は四十二歳であった。

あえなく敗退して、
隠岐に流される。

院はこの辺陬の小島に十八年、
この地で崩じられた。

延応元年(1239)おん年六十歳。

その間、
『新古今集』の手入れやら、
都からの交信にこたえて、
はるばる手紙により歌合わせをしたり、
歌の評論をものされたりした。

<われこそは 新島守よ おきの海の
荒き波風 心して吹け>

定家は後堀河天皇の貞栄元年(1232)
勅命を受けて『新勅撰和歌集』を撰進することになる。

これは彼一人が撰者となるもので、
歌人としては大きい名誉である。

定家はそこへ、
すぐれた歌よみのとして、
後鳥羽院のお作をぜひ入れたい、
と思った。

しかし、院は隠岐にあり、
幕府は院のご帰京を許さぬ厳しい態度。

政治的思惑がからんで、
定家は院やその関係者の作を、
勅撰集に入れることが出来なかった。

そのかわりに、
彼は百人一首に、
後鳥羽院と順徳院のお作を入れた。

この歌を作られたのは、
院が三十三歳のとき、
若き日の歌への熱中もさめ、
人生を内省していられる。

この歌の物憂い暗さ、
それでいてちょっとしゃれた味のただよう気分、
何だか陰気なシャンソンを聞くようである。






          


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98、従二位家隆

2023年07月08日 08時21分16秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<風そよぐ ならの小川の 夕暮は
みそぎぞ夏の しるしなりける>


(風が楢の葉をそよがせる
ここ 上賀茂のみ社の
神々しい「ならの小川」よ
風のそよぎも
川のせせらぎも
夕暮の涼しさは
さながら はやい秋
けれどならの小川で
みそぎをするのを見れば
いまはまだ夏なのだ)






・この歌も情景を知らないときは、
全く意味のわからぬ歌であった。

子供の私は「ならの小川」を、
奈良に流れている川だと思っていた。

その川で人々が水浴びでもしているように思い、
涼しげな歌だと、
気に入っていたのであった。

「ならの小川」は、
上賀茂神社の境内の奥に流れる、
浅い清らかな川である。

京都へ行かれた人は、
上賀茂神社へお詣りし、
この清らかな流れの風情を楽しまれるがよい。

昔、境内に奈良社という社があって、
その前を流れるから「ならの小川」といった。

ふさふさした木々が陽光をさえぎって、
涼しい木陰を作る。

京に田舎ありというけれど、
ほんとうに深山のおもむきである。

この川で古い昔から、
「夏越しの祓」が行われた。

陰暦六月のみそかに、
人々の罪やけがれを祓う神事である。

その神事のために水をかぶるのを、
「夏越しのみそぎ」という。

私はまだ見ていないが、
現代でも六月の終りとなれば、
ここで夏越しの神事があるという。

ただ昔は陰暦であるから、
六月終りとなれば現代の八月十日過ぎ、
そろそろ夕風にひややかさが加わる。

夏越しの祓という夏の神事だけは、
夏のものだが、という歌のこころである。

この歌は「屏風歌」である。

『新勅撰集』巻三・夏に、
「女御入内の屏風に 正三位家隆」
として出ている。

藤原家隆(1158~1237)は、
「かりゅう」とよまれることが多い、
定家と並び称される歌人で、
定家より四歳年長、俊成に歌を学んだ。

後鳥羽院に愛され、
院の隠岐配流後も音信を絶やさなかった。

彼の歌はわかりやすく品がよく、
しらべが高い。

定家と家隆、
同時代のライバルであったが、
お互いに認めあい、尊敬していた。

寛喜元年(1229)、
藤原道家のむすめ、尊子が、
後堀河天皇の女御として入内した。

その時のご婚礼道具の一つに、
屏風をお持ちになる。

屏風に絵と歌が書かれる。

その三十六首の歌は、
当代の歌人が、
それぞれのテーマを受け持ってよむが、
晴れの屏風歌の作者に選ばれることは、
大変な名誉であった。

家隆このとき、すでに七十二歳。

彼は温厚な性質の人であった。
そしてこの時代に珍しく長生きであった。

晩年、難波に移り住んだ。
大阪にゆかり深い歌人である。

嘉禎二年(1236)、
病にかかって出家した。

七十九であったが、
阿弥陀如来を信仰していた。

浄土教の教えでは、日想観といって、
彼岸の落日を拝むと、西方浄土を、
目の当たり拝むことが出来るという。

難波の上町台地からながめると、
波の上に落ちる夕日が見事だったのだろう。

家隆は小さい庵をむすんで、
「夕陽庵(せきようあん)」と名づけた。

それからその辺りは落日の美景の名所となり、
夕陽丘(ゆうひがおか)とよばれた。

いまの大阪市天王寺区夕陽丘町、
伶人町、四天王寺のあたり。

家隆の塚がある。






          


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97番、権中納言定家

2023年07月07日 08時56分45秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くや藻塩の 身もこがれつつ>


(待っても来ないあの人を
わたしは待っています
松帆の浦の夕凪のなか
藻塩焼く火に
さながら わが身も
じりじりと焦がれるばかり
恋に悶えながら・・・)






・定家五十五歳のときの作。

『新勅撰集』巻十三の恋に、
「健保六年 内裏の歌合わせ、恋歌」
として見えるがこれは誤りで、
「健保四年閏 六月内裏歌合わせ」
のときの作、という。

定家はこれを自信作と見ていた。

この歌には本歌がある。
『万葉集』巻六の、笠金村の長歌である。

この歌は、松帆の浦に、
藻塩焼くあまの乙女が待っていると聞くが、
逢いにゆく方法もなくて、
男らしい心もなく自分は思い屈して、
ゆきつ戻りつ恋うている、
というような意味の歌。

この金村の歌を承けて、
定家は男を待っている女の相聞に仕立てている。

定家は女の気持ちになって歌った。

松帆の浦は淡路島の北端の歌枕、
この歌では「待つ」にかけている。

藻塩を焼くと恋に焦がれる、
をダブらせるのも古来からの歌の常套句。

定家は万葉から本歌を拉っし来て、
優艶な彼一流の歌の風土を作り上げた。

定家のことは前に何度も触れた。
俊成の子で、応保二年(1162)生まれ、
仁治二年(1241)に八十歳で死んでいる。

正二位権中納言。
『新古今集』『新勅撰集』の撰者で、
和歌史の巨魁的存在である。

和歌を社交の道具から、
芸術として自立させるべく、
古典の書写や校訂にいそしんだ。

定家は『古今集』の歌風を尊重し、
その上に父の俊成の唱えた幽玄をあわせつつ、
自身はまた「有心」の美を説く。

有心は定家の作歌上の理念である。
歌に深い心があること。
高い風姿が歌にはあるべきこと。

定家は、才能も自負もありあまり、
信念に忠実な芸術家であったから、
傲然としていて、
時に人との折り合いが悪いのも、
よんどころないことであった。

一時は蜜月のごとくであった、
後鳥羽院との確執も前に述べた通り。

しかし、定家は後鳥羽院への敬慕を、
終生、心に秘めていた。






          


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96番、入道前太政大臣

2023年07月06日 08時52分04秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<花さそふ 嵐の庭の 雪ならで
ふりゆくものは わが身なりけり>


(花をさそって吹きしきる嵐
庭には 雪のような落花
降りゆくものは
雪ではない
そうだ この身なのだ
古(ふ)りゆくものは・・・)






・『新勅撰集』は、
定家が若き後堀河帝の仰せで、
撰進した歌集である。

天福二年(1234)の成立。
この歌は、その巻十六の雑に、

「落花を詠み侍りける  入道前太政大臣」

として出ている。
藤原公経(きんつね)のことである。
(1171~1244)

庭の落花を浴び、
立ち尽くして老いを感じている、
老人の姿が浮かぶ。

そういう図柄は平凡であるが、
私は落花の雪というイメージが好きで、
この歌、わるくないと思っている。

公経の経歴は、

鎌倉期の動乱時代に生きながら、
最後の王朝の栄華を一身に具現して、
七十四歳の長寿を保ったという幸運児である。

この時代、
京都の貴族が時めくというのは、
鎌倉側の庇護と支援があるからである。

公経は鎌倉側と閨閥関係から親しかった。

彼の妻は、
頼朝の妹婿、一条能保(よしやす)の娘である。

反鎌倉派の後鳥羽院には疎まれたが、
承久の乱では鎌倉方に通じたので、
乱ののちは大いに権勢をふるうことになった。

西園寺を北山に建て、
自身、その寝殿に住んだ。

西園寺家というのは彼からはじまる。

善美をつくした寺で、
安置された仏像も見事で、
僧たちの法衣もかがやくばかり。

道長の建てた法成寺も立派だったが、
それよりこの西園寺の方が、

「都はなれて眺望そひたれば、
いはんかたなくめでたし」

とある。

太政大臣に登り、
むすめの婿の道家は関白、
孫娘は後堀河帝の中宮、
鎌倉の将軍に据えられた頼経も彼の孫。

公経は婿の九条道家と並んで、
政界の大立者となった。

承久の乱後の京都政界は、
公経によって再編成、統一された。

ただしそれは、
昔の道長のように、
全天下の富と権力を一身にあつめた、
というものではなかった。

公経の権威は、
背後の鎌倉幕府あってこそのものだった。

この時代を境に、
京の天皇と貴族は、
シンボルとしての存在になってゆく。

軍事力なき、
権威の象徴である。

だからこそ、
その後も、何百年も生き残れた。

日本の皇室のユニークなありかたは、
日本が国際的緊張の中で生き残ってゆく際の、
一つの示唆である。

さて、この西園寺だが、
いま京都の上京区高徳寺町にあるのは、
公経の建てたそれではない。

公経の創立した寺は、
衣笠山のふもとであった。

そう、いまの金閣の地である。

この寺は、
のち西園寺家の衰微とともにおとろえ、
市中へ移転した。

その跡地を、
足利義満が譲り受け、
鹿苑寺を建てたのであって、
金閣の地は由緒ある地なのである。

定家は、
妻が公経の姉だったため、
大いに西園寺家の庇護を受けた。

後鳥羽院の勘気にふれて、
逼塞窮乏していた定家が、
承久の乱後、
めきめきと家運を盛り返して、
羽振りがよくなるのも、
西園寺家や九条家という彼のパトロンが、
威勢よくなったためである。

その縁で鎌倉方とも交渉があり、
将軍実朝の歌の先生ともなったのであった。






          


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95番、前大僧正慈円

2023年07月05日 08時23分36秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<おほけなく 憂き世の民に おほふかな
わが立つ杣に すみぞめの袖>


(身のほど知らずのことであるが
わが墨染の袖を 私は
うき世の民に
おおいかけるのだ
すべての人にあまねく
みほとけの冥加あらせたまえ
比叡の開祖・伝教大師の
みこころを慕うて)






・僧職にある人にふさわしい、
堂々たる気概の歌である。

宗教家の信念や抱負が、
凛として示されているが、
この歌の背後には、
伝教大師・最澄の歌があり、
それが借景となって、
歌の姿がいっそう巨きくなり、
格調高くなっている。

伝教大師の歌というのは

「あのくたら さんみゃくさんぼだいの仏たち、
わが立つ杣に 冥加あらせたまへ」

というもの。

「あのくたらさんみゃくさんぼだい」
というのは梵語で、
最高の真理知恵ということだそうである。

大師は比叡山延暦寺の根本中道を建立するとき、
この歌を詠んだ。

大師は中堂を建立しようとして、
材木を伐りだす山に立ち、
仏の加護を念じた。

力強い情熱のみなぎる、
意志的な歌である。

慈円はそれをふまえて、
衆生を救おうという理想に燃えた。

慈円(1155~1225)
この人もまた乱世に生きた人であった。

関白、藤原忠通(76番の「わたの原」の作者)の、
晩年の子で、十歳の時父と死別、
十一歳で仏門に入った。

この歌はまだ若い頃、三十代の作。
『千載集』巻十七に「法印慈円」として見える。

彼の一族の九条家の人々は、
歌をよくする。

慈円もまた『新古今集』の代表的歌人の一人。

若い頃、西行に私淑したが、
西行は慈円に、

「密教を学ばれるなら、和歌をお習いなさい」

とさとした。

のちに大僧正となり、
天台座主の座にのぼったが、
政変に巻き込まれて辞し、
のちまた復座し、四たび座主になった。

九条家は親幕派だったので、
討幕の意志のあった後鳥羽院のもとで、
当主、兼実は失脚する。

しかし、後鳥羽院は慈円の歌才と人柄を愛された。
慈円もまた、後鳥羽院にまことを捧げた。

院の無謀な討幕の志を知って慈円は、
どんなに心を痛めたことであろう。

鎌倉幕府の情報が豊富に入手しやすく、
かつ、独自の史観と見識を持っていた慈円は、
世の流れ、人の心の動きから将来を見据え、
皇室のあるべき姿を『愚管抄』にまとめた。

その書はそれとなく、
後鳥羽院の叡覧に入れ、
討幕の企てを放棄して頂きたい、
という慈円の熱意から書かれたものであった。

慈円は源平の騒乱で、
三種の神器も安徳帝とともに、
壇の浦の海底に沈んだこと、
神鏡、神勾玉はのちに拾いあげられたが、
神剣はついに入手できなかったことを明快にしるす。

なぜ天(運命)は剣を皇室に返さなかったか、
いま武士が武力で国を治めるようになった時代、
天皇は武を放棄して文で治められるべき、
時世のまわりあわせ、

「今は宝剣も無益になりぬるなり」

剣は武の象徴であれば。

慈円は源頼朝とも親しく、
歌を贈答している。

頼朝はなかなかの歌人であったから、
実朝に歌才が伝わったのも当然であるし、
頼朝はさすが都育ちの男だったのだ。






          


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