むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「28」 ④

2025年01月09日 08時34分20秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・「それからおばさま、
もう一つお願いがございます」

娘のほうは、
かなりうちとけてきたようである

私の好意が娘にもひびいたのか、
無警戒に親しみをみせるのも、
若い者らしいしどけなさである

「この頃『若紫』という物語が、
世間にあるというのを、
聞きますが、
お手元にお持ちですか?」

「いいえ
わたくしもまだ見ていないけれど、
噂に聞いたことはあります」

経房の君がいわれたっけ、
為時の娘で、
伊達男の宣考と結婚した女が、
物語を書いたって

「それは彰子中宮さまと、
帝の物語ですってね」

「さあ、
よく知らないのですよ」

「わたくし、読みたいのです
もしおばさまのお手に入れば、
見せて頂けます?
わたくしは字は下手ですけれど、
上手な人を知っていますから、
写してもらいます
しばらくお貸しくださいまし」

私はその本が手に入ったら、
見せる、と約束した

娘は本好きでもあり、
それ以上に世間のすべてのことに、
好奇心や興味を持っているようだった

(こういう気だての娘、
きっと中宮さまは、
お喜びになるだろうけれど・・・)

と私は思わずにいられなかった

私が中宮さまというのは、
むろん、定子中宮のことである

「『白氏文集』は父に習いました
途中まで・・・
もしおよろしければ、
いつかお教え下さいまし」

と娘はいい、
学問好きなところも、
私の気に入った

かつての則光の息子たちとよりも、
私は棟世の娘のほうが、
気があって好もしいのである

息子と娘という、
違いもあるけれど

「清水寺へお籠りするのは、
いつものことなの?」

と私は聞いた

「母の十三回忌なのです
わたくしはおぼえていませんが・・・」

娘はさっぱりした口調でいう

この子の人なつこく、
はきはきしたところ、
女臭いうじうじした、
悪遠慮のないところは、
男親育ちのせいでもあるらしい

本堂を勤行して、
そのあと宿坊へ戻り、
床をならべて一緒に寝た

几帳や帷子をひきまわして、
その向こうには乳母や女房たち、
私の侍女の小雪らが寝ている

娘は声をひそめて、

「おばさまのお仕えしていらっしゃる、
定子皇后のお話を聞かせて下さい
どんな方でいらっしゃるの?
お美しい方?
おやさしい方?」

といった

娘は次から次へと、
聞きたいことがあるようだった

いくらでも知りたいらしかった

宮中のこと

中宮や主上のおんこと

さらに人生そのものの、
喜びや悲しみのすべてについて

そして私も、
いくらでも話すことがあった

この若い、
みずみずしい心と肉体に向かって、
あれもこれも、告げ、聞かせ、教え、
共感し、感動し、
やがて生きていることのすばらしさを、
飽かず語りたかった

定子中宮という人に、
めぐりあったその大きな幸運について、
あまりの幸福がついには、
最大の不幸になってしまう、
その恐ろしさについて

というのは、
もし私が定子中宮と、
別れるようなことが起きれば、
そのあと生きてゆけるだろうかと、
ひそかにこの頃思うように、
なったからだった

考えるのもまがまがしいことで、
あるが・・・

語るべきことが、
あまりに多くて私はいつもに似ず、
口少なになってゆく

「いつかは『春はあけぼの草子』を、
完成させるわ・・・
そのときはすっかり、
何もかもわたくしの人生を、
そこに書きとどめておくわ
そのとき読んでみて
あなただけではないわ
百年、五百年、千年のちの女たちが、
それを読んでくれて、

『生きるってことは、
面白いことなのかな』

『人生って、
すばらしいものかも知れない』

『すてきな人が、
この世にはいるんだ』

と思ってくれるかもしれない
そう信じて、
それを楽しみに書くわ
だから・・・ね・・・」

私は不器用に言葉をとぎらせる

娘は唐突に、

「おばさま、
着物の色は何色がお好き?」

「薄紫かしら」

「殿方はどんな方がすてき?」

「みんなすてきよ」

すると娘は笑いながら、

「父はすてきな男?」

「もちろんでしょ、
さあ、早く寝ましょう
明日も本堂へお詣りして、
勤行に坐るんでしょう?」

「何だか昂奮してしまって、
眠れないんです
嬉しいわ、わたくし
おばさまが想像していた通りの、
方なんですもの」

話は尽きなくて、
そのうちふと娘が沈黙に落ちたので、
見ると、もう眠っているのだった

すこやかな眠りは、
あっという間に、
娘をさらってゆくらしかった

この娘にあっては、
おしゃべりまで可愛かった

私は、
「短いほうがいいもの」
というくだりに、

「急ぎの仕立てを縫う糸

下女の髪

良家の娘の受け答え

灯ともし台」

などと書いたことがあるけれど、
この娘の言葉つきが、
上品で好もしいから、
おしゃべりも饒舌という、
印象はなかったのであろう

棟世には、
下品や卑しさという部分は、
皆無だったが、
この娘もそういう風だった

快い疲れのうち、
眠りに落ちた

二、三日はいるつもりだったが、
翌日のお昼頃、
中宮からのお使者が来た

何ごとであろうかと、
いそいで開けてみれば、
唐紙の赤い紙に、
漢字の草書のおもむきで、
中宮ご直筆であった

「山近き入相の鐘の声ごとに
恋ふる心の数は知るらむ

というところよ
それなのに、
ずいぶん長い留守なのね」

・・・
おいとまを頂いたのは、
一昨日なのに

まっ先に思ったのは、

(中宮は、
お心弱りしていらっしゃる!)

という不安だった

私がいないのを、
こんなに淋しがっていられる
おそばへ戻ってさしあげなくては






          


(次回へ)

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