・それにつけても、
則光のことを思わずにいられない
則光も、
妙にやさしいところがあったけれど、
これほど広い包容力は、
ないのであった
純粋だけれど自己本位だった
津の国へ下る前日、
ひょっこりと兄の致信が来た
このごろは羽振りもいいのか、
供の男たちを多く従え、
品がないながらに、
貫禄もついて来ている
兄は珍しい顔をもう一人、
私に見せてくれた
若い僧だった
絵に描いたように、
うるわしい美僧である
静かに胸で合掌し、
おもむろに顔をあげてほほえむ
「母上、
お久しぶりでございます」
それは則光の子で、
私が赤ん坊のとき世話した、
吉祥だった
いやいまは、
光朝法師とよぶべきであろう
「まあ、
りっぱなお坊さんになって・・・」
私は涙で目がかすむ
説教するお坊さんは美男がいい、
と私は思っているのだけれど、
この光朝なら、
どんな聴聞者をもくぎ付けにして、
しまえそうであった
「いまも比叡のお山で修行中だが、
今日はどこやらの寺の法事に、
お山を下りてきたそうだ
偶然会うたので、
この近くにお前がいるというと、
久しぶりのことゆえ、
会いたいというから連れて来た」
と兄はいう
これも仏縁かもしれない
私は中宮が亡くなられてから、
奥の一間を仏間にして、
仏の絵像をお掛けし、
花や水を供えて、
私なりにお供養をしている
「どうか亡き中宮さまのために、
ご回向をお願いできないかしら」
「回向は一切衆生のためのもの、
もちろん喜んでさせて頂きます」
吉祥は、
いや光朝はいい声で誦経をはじめた
首すじから肩にかけての線を、
うしろから見ると則光そっくりだった
阿弥陀如来の御像に向かい、
一心に誦経しつづけてくれる
(中宮さま、
これは私がほんのいっとき、
世話したことのある、
子供でございます
それがこんなに立派に成人して、
中宮さまのおんために、
お経をあげてくれるように、
なりました・・・)
私は涙が止まらない
かたわらの兄は私をふり返り、
「お前も涙もろくなったな
鬼の目に涙だ」
と笑った
摂津は京からひとまたぎとは、
いうものの何もかも珍しかった
棟世は紀伊の国との国境まで、
仕事で出かけていたが、
私が来たというので、
すぐ館までもどってくれた
気軽な騎馬姿だったので、
中門で馬を捨てて、
あがってきた
「よく来た・・・」
棟世は日に焼け、
白髪が増えていて、
やや太ったようだったが、
顔つきは以前より明るいくらいで、
表情は豊かだった
そのとき私は、
安良木と仲良く話し込んでいた
それも棟世には嬉しいらしかった
彼は娘に向かって、
「そんなに明るい顔のお前は、
はじめて見たぞ
毎日、おばさまの噂ばかり、
していたじゃないか」
とたわむれた
「また暑いときに来たものだ
京ははやり病がぶりかえしている、
というがこちらは峠を越した
しかし秋口が心配だな、
大宰府の船が着くのと、
同じころになるからな
悪いものも良いものも、
南から一緒に来る」
棟世は私が見ても、
満足そうだった
もしかして彼は、
もういつまでも私が彼のそばに、
いると思っているのかもしれない
「そのつもりでいるなら、
そのほうがおれはうんと安定する」
棟世は夜になってから、
言葉をつづける
「しかし、
すべてお前の思うように、
生きたらいい、
おれはお前を家の中に、
とじこめておくつもりはない
家の用事など、
誰にさせても同じだ
しかしお前でないとできない仕事、
というのもあるのだから」
棟世の腕は私の枕になっている
そうして彼は片方の手で、
私の髪にふれる
もはや中宮の前に、
出ることもないので、
かもじを入れてつくろうことも、
しなくなった、
貧相な薄い髪を・・・
「お前はあたまのいい、
面白い女だ
何かしら面白い魅力的なものがある
そういうものは見る人が見ればわかる
いまに多くの人々が、
お前を愛さずにいられなくなる
やりたいことをおやり」
私はその言葉を、
昔、どこかで聞いたような気がする
おお、ほんとうにそうだった、
少女の私に父がいって、
きかせたのだった
いま私は少女になった
私が求めていたのは棟世だった
私の書くあの「春はあけぼの草子」
人間にとって幸福の何たるか、
以外のことは書きたくない
それには書き手が幸福でいなくては、
ならないのだもの
私は幸福だった
「あたし、
あなたとこうなってよかった」
と私がいったとき、
私には中宮と主上の至上の愛が、
重ね合されるのだった
安良木と海辺を歩くのは、
楽しかった
津の国の海辺の景色ほど、
おもしろいものはない
見わたすかぎりの葦原の彼方に、
水脈(みお)によって、
汐の色のちがう海面が、
ぎらぎらしていた
舟は水脈を示す水串の間を縫ってただよい、
蘆のあいだに見え隠れする
安良木は、
津の国へ来てから、
美しい貝やおもしろい石を、
どっさりと拾いあつめていた
「おばさまがいらしたら、
お目にかけようと思って
貝合わせにお持ちくださいまし」
というのだった
外海ではないけれど、
それでも嵐のあくる日は、
珍しい貝も拾えるという
桜色をした貝や、
雪白の大きな貝を、
私ははじめて見た
貝も海辺の風景も、
潮風の磯くさい匂いも、
すべて自然は好もしかった
津の国には野も山もあり、
産物はゆたかで、
人々の表情もよかった
その中で、
居心地よいと感じている、
棟世とその娘も、
私にはいっそう好もしかった
(次回へ)