むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「31」 ①

2025年01月21日 09時28分55秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・父の遺産は、
いまも細々と生きるくらいはある

中宮のお亡くなりになったとき、
中宮の兄君、伊周の大臣と、
弟君、隆家中納言が、
女房たちにおかたみの品や、
財物をお下げわたし下すった

それも手をつけずにある

老いた女房の右近とともに、
静かに年をとっていけばいい

遠くから中宮一家を見守りつつ・・・

しかし定子中宮のお妹姫たちは、
幸薄かった

四の君は内裏で、
いつしか主上に愛されるように、
なっていられた

定子中宮にいちばん似ていらしたので、
主上のお気持ちを動かしたので、
あろうけれど、
まだ十七、八というお若さで、
身籠られたまま亡くなられた

それは中宮が亡くなられて、
二年目の夏であったが、
月を越えてその秋、
東宮妃の淑景舎の女御が、
突然亡くなられた

鼻や口から血があふれ出て、
急死なさったというので、

(毒を盛られなすったのでは?)

という噂だった

もうお一人の宣耀殿の女御のせい子方の、
人々が策動したのではないか、
というものの、
まさかそんなことがあろうはずは、
ないけれど

それにせい子女御は、
何人もの皇子皇女を産み続けていらして、
東宮御殿ではならぶ者なき勢い、
淑景舎の君は姉君と同じく、
圧されなすっていた

そんな方をいまさら、
どうこうするということなど、
あろうはずはない

かつてこの淑景舎の君が、
定子中宮の御殿、登華殿へ、
訪れられてご一族が集われた、
あのときの花やかさにくらべ、
何という悲しい最期であったことか

あれは正暦六年、
七年も昔のことになる

女御は二十二というお若さで、
姉宮、妹宮のあとを追われた

ある日、
三条の私の邸に、
男の声や馬の蹄の音が聞こえ、
中年の男が入ってくる

ふと、棟世かと思ったが、

「俺だよ
しばらくだった」

則光だった

見違えるほどたくましく、
筋骨が張って日焼けしていた

そうして老けていたが、
その老け方は私にとって、
他人じみたものに映った

彼が老けるまでの年月、
私と彼は、
他人として暮らしていたのだから

彼は簀子縁に坐り、

「なんてまあ、
こう、昔のままなんだ」

と無遠慮にあたりを見廻した

そのいい方に、
昔のままの則光が出ていた

素直さが、
悲しいほどの素直さ、
それは相手の心を傷つけることに、
無関心な酷薄な素直さだった

「家は昔のままだが、
お前は変った
ずいぶん婆さん顔になった
シミが出てるぞ、顔に
しかし顔に老人斑が出ると、
長生きするという
お前は長生きするだろう」

則光は大声で笑った

その笑い声も話し方も、
傍若無人に高かった

広大な原野や、
田舎の館でははばかるものなく、
大声を張り上げて、
暮らしてきた人の、
抑えることを知らない高調子だった

供の者たちの顔ぶれも、
半分は知らない顔だった

私と別れてからの則光の人生は、
私と関係なく過ぎていったのだ

「吉祥と会ったんだって?
お前の大好きな中宮さまに、
先立たれて、
めげてるのじゃないかと思ってな

棟世のことは聞いただよ
致信(兄の)さんとはちょくちょく、
会うのでな
お前も男運の悪い奴だ、
それを思うとあわれでねえ」

たぶん、
その言葉にうそはないのであろう

則光は昔から、
決して悪意のある人間ではなかった

しかし則光が私をあわれむのは、
とんだ見当ちがいというもの

「あたしが?
とんでもないわ
いまほど最高に、
ご機嫌なときはないわ
棟世とも、
よく添い遂げたって感じよ

そりゃ、
短い仲だったかもしれない、
だけど、
時間が短い長いなんて、
主観的なものでしょう?
あたしの心の中では、
長かったの

楽しんだわ
面白かった、って、
思ってるの

いえ、それは今も、
続いているのよ」

私は話すうちに、
説得口調になっているのに、
気付いてやめた

則光はそんな抽象論に、
興味はさっぱりない男で、

「そうだろうけど、
子供もいなくて、
どうするつもりだ?
この先」

「いるわ
これが、あたしの子供よ」

私は机の上に、
うず高く積み上げた冊子を示した

それですら、
三分の一だった

このあいだ、安良木が来て、
三分の二を、持って帰ったばかりなのだ

「春はあけぼの草子」は、
彰子中宮の御殿で読まれ、
筆写され、やがては、
内裏にひろまりつつあるという

故中宮のたぐいなれな、
お人柄とお美しさへの讃仰は、
今更のごとく、
口にする人が多くなったという

「春はあけぼの草子」は、
手から手へ写され、
伝えられていた

これこそ私の生んだ子供だった

「いまにあなたのことを書くかも」

と私がいうと、
則光はにがい顔になった

「またか
歌や物語などというのは、
俺は苦手だ

そんなことより、
身寄りのないお前が心配で、
来てみたんだ

どうだ、
俺と一緒に新しい任国へ、
ゆく気はないか?」

「どこなの?」

「陸奥守になった
遠いところだが面白いぞ
東国はいい
俺の性にあう

妻や小さい子も連れてゆくが、
お前がその気なら、
一緒にどうだ

面倒見させてくれ

どうもまずいんだな、
お前が一人ぼっちで、
落ちぶれていくと思うと」

私は笑った

中宮に死におくれてから、
こんなに笑ったのは、
久しぶり・・・

「則光
あんたって好きよ
あたし、男運が悪いなんて、
段じゃないわ
棟世といいあんたといい、
なんてすてきな男を、
持ったもんだろうと思うわ
だけど・・・」

私は笑いながらいった

「もう、田舎はいや
あんたにゃ東国が性に合うように、
私には京が性に合うの

都で生きつづけ、
生きながらえてゆくわ

たとえ、乞食になっても、
都にいるわ

なんでかって?

この草子がもてはやされるところで、
あたしは生きる必要があるのよ

文化のおくれた田舎や、
あらえびすの国で、
この草子を読んでくれる人があって?
もてはやす人があって?

そんな田舎に住めないわ」

「田舎で悪かったな」

則光は中っ腹な声である

則光はみるみる不機嫌な顔になった
その表情も私にはなつかしかった






          


(次回へ)

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