・「そんな見事な貝は、
あなたが大切に持っていらっしゃい
そしていつか宮仕えなさったとき、
皆さまにお目にかけてごらんなさい
都を出たことのない人々には、
とても喜ばれてよ」
と私がいうと、
安良木の顔は明るんだ
「彰子中宮さまも、
お喜びになると思う?」
「そりゃあもう
漆塗りや金銀・螺鈿の蒔絵、
極採色の絵巻などの、
人が手を加えた芸術品は、
お生まれになったときから、
飽きるほど見なれていらっしゃる
でもこんな自然の造化の妙は、
きっとご存じないはず
きっとお喜びになるでしょう」
拇指の爪ほどの桜貝は、
籠にびっしりあつめられている
まるで薄紅の絵の具を溶いて、
塗りつけたような、
また、桃か桜の花びらを拾い集めた、
というようなさま
おおそうだ、
こういうものを、
白いみちのく紙などに包んで、
「これは海のさくらでございます
わすれ貝がこんなに美しいのならば、
いくらでも拾い集めとうございます」
と中宮さまにさしあげたら、
どんなにお喜びになることか・・・
とまたしても思ってしまう
これは亡き定子皇后さまのことなのだ
そして私はふと浮かぶ涙を、
まぎらせるように、
安良木にいう
「でも、この海の匂いと、
お日さまの暑さは、
持って帰れないわねえ
包み込んで献上できない、
すばらしい宝物だわ」
少女はうなずいて、
海の匂い、葦原の匂いを吸い込む
私は彼女が自然を愛する女の子、
であるのが嬉しかった
「そういえば、
おばさまのお名前はどうして、
海松子(みるこ)なの?
おばさまのお父さまは、
海がお好きだったの?」
と安良木は聞く
「ええ、海が好きだった、
わたしは十三のとしに、
父と舟旅をしたけれど、
父は海の面白さを教えてくれたわ
わたしに海松子という名を与えたのは、
きっと自然にあこがれていたから
自然が好き、
人間が好き、
笑うことの好きな人だったわ」
「それじゃわたくしのお父さまと、
同じじゃありませんか
お父さまはいつもわたしに、
おかしいことをいうわよ
そしてわたしが笑うと、
『そうだそうだ、
女はいつも笑ってなくちゃいけない
上機嫌な女は男の宝物だ』
って」
「へんな人ね、
あなたのお父さまって
でもわたしは好きよ」
「よかったわ、
わたくしとおばさまは、
好みが合って
わたくしもお父さまが好きなの」
安良木と交わす他愛ない話は、
棟世との関係にもまして、
私の心のなぐさめになる
強い日ざしが、
「ひいさんのお肌を焼く」
と心配する乳母のすすめで、
私たちは車に乗り館へもどる
棟世の配慮で、
気のきいた気立てのいい侍たちが、
いつも私たちを守ってくれていて、
(男が守ってくれている、
というのは、
なんという女の幸せであろう)
と今さらのように私は痛感する
則光が去ってから、
あるいは私が則光のもとを去ってから、
私はいつも一人だった
古い下部や仕丁の男たち、
牛飼いや雑色たち、
そういうわずかばかりの、
召使いや従者もみな老いてしまった
老いてゆくところのない、
男たちだけが心細く、
私に仕え、
私を守っているのだった
そしておとなしい小雪と、
これも老いた侍女の左近
いま、
棟世がそばにいてくれる幸せを、
私はしみじみ喜んでいる
男にひたすら、
よりかかっていればいいなんて、
まあ、ほんとうに何て楽なんだろう
(皇后さまには悪いが、
皇后さまが亡くなられたおかげで、
お前はおれのところへ戻ってくれた)
と棟世がいう通りだった
館へ戻ると、
館の中は大さわぎだった
「お、お帰り遊ばした、
いや、お迎えを出しましたが、
ゆき違いになったと見えます
守もただいまお留守ですので、
どうしようかと気を揉んでいました」
と国府庁の役人はおろおろしていた
「内裏のお使いが、
見えていられるのでございます
右衛門少尉・忠隆さまが、
お方さまに、と」
私は守の館では、
国府夫人の扱いを受けて、
お方さまと呼ばれている
忠隆
まあ、あの蔵人の忠隆が
彼の顔を見たとたん、
涸れてしまったと思っていた、
涙が出てきた
それは忠隆が、
恋しかったからではない
捨ててきた都が、
亡き中宮が、
中宮の思い出が、
いちどきにおしよせ、
私を苦しめるからだった
あの犬の翁丸を、
この忠隆が勅命で打ちこらしたとき、
中宮は主上にお取り成しなすった
中宮のお笑い声は、
主上のお笑い声に和し、
それは春の空にたちのぼったのだった
忠隆は役人らしい事大主義の男で、
私はさほど好意は持っていなかったが、
さすがになつかしくて、
彼を見て涙が出たのと同じく、
彼も私がなつかしいらしかった
私はあいだに、
御簾をへだてたりしなかった
形ばかりの几帳を置き、
忠隆と会った
彼は都の風を運んできた
主上のお手紙を携えてきたのだった
恐れ多いことだが、
主上は私がなつかしい、
とお書きになっていらした
筆跡は、
主上側近の女房・右近のそれだった
その字も、
(ああ・・・こういう世界があった)
という気にさせた
<世の中をいとふ難波の春とてや
ひと忘れ草茂りまさらん>
(そなたは世を厭うて、
難波にかくれ住んだそうな
難波の名所の住吉には、
忘れ草というものが生い茂るという
そなたはもう、
都も都の人も忘れたろうな)
主上が何を仰せになりたいのか、
私にはよくわかった
主上は私と中宮のことを、
語りあいたい、
ともに惜しみともに讃美し、
泣きたいと仰せられているのだった
しかし私はもう、
主上のもとへ戻れる身ではない
私には公的な身分は、
保証されていない
故中宮の私的女房だったに過ぎない
(次回へ)