「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「30」 ④

2025年01月18日 09時15分40秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・かの、お忘れ形見の宮、
五歳になられる脩子内親王、
二つになられる敦康親王、
お生まれになったばかりの、
美子内親王のことも私は、
気がかりであるものの、
一介の女房に過ぎぬ私が、
どうやって真心をお見せできよう

敦康親王がたは、
亡き中宮のお妹君、四の君を、
母代として内裏で育てられていられる

美子内親王は、
女院に引き取られなすった

私にはもう、
九重の宮中深く住まれる方々に、
近づき参らせるすべはないのだ

亡き中宮がいられない今、
私は何の権限も特権も失ってしまった

それを主上はご存じで、
わざわざお使いを下さり、
慰めて下さったのだった

右近のこれは私的な文章で、
つけ加えてあった

「お小さい宮さまがたは、
それぞれつつがなくお過ごしで、
いられます

秋には親王さまも着袴の儀、
女院には四十の賀が、
待っておりますので、
悲しいうちにも喜びのまじる、
今日このごろでございます

とは申しますものの、
皇后を失われた主上のお悲しみは、
おそらくお消えになることは、
ありますまい

それに加えて、
女院のお体のお具合がいまひとつ、
はかばかしくございません

それも主上のお心に、
影を落とし参らせているようで、
ございます」

主上と女院は、
母一人子一人という感じで、
ひしと寄り添うて生きて来られた

定子中宮に先立たれ、
いままた女院がご病気とあらば、
どんなに主上はお心ぼそく、
いられるであろうか

私はつつしんで、
歌をお返しする

宛て名は表面的には右近である

<のがるれど同じ難波の潟なれば
いづれも何か住吉の里>

(どこに住みよい人生が、
ございましょう、
同じ浮世はどこにいても、
亡き人のことを忘れる場所は、
ございません)

忠隆は私の返事を携え、
かつ、国府のもてなしに、
気をよくして機嫌よく帰っていった

「そろそろ、
都へ帰りたい風が、
立ったんじゃないか」

棟世は使者が帰っていくと、
私にそういって笑った

私はいった

「いいえ、それはないわ」

「無理しなくていい
お前には長い人生がある
いつだって帰って来られるのだから」

「あなた、
逢坂へ行きたければ行っていいのよ
あなたこそ無理しなくていいわ」

私は棟世が逢坂の里に、
女を置いているのをいつとはなく、
知っていた

彼がそうしたって、
私には怒る気も拗ねる気もなかった

棟世が私のいないあいだ、
一人でいるほうが不自然だった

ただ棟世は、
その女を国府の館へ、
連れて来ようとは思わないらしい

館へ入れて、
国の守の家族として、
世間に披露するのは、
娘の安良木と私だけだった

「おれはお前さえいればいい
うねうねと長く楽しく生きることだけ、
考えているのだから
金だって二人暮らせるだけ、
あればいい」

棟世は有能な役人らしいが、
自分自身の蓄財や、
財産管理にもぬからず、
その点は芸術家肌だった、
私の父とはちがう

また則光ともちがう

かといって、
領民を苦しめるほどの、
様子もないようだった

それをいうと棟世は、

「なあに、
おれはたまたま、
いい国にぶつかってるだけだ
国によるのだ

尾張なんぞ引き当ててみろ、
難行苦行だ
昔からあの国はややこしい国でな
一筋縄ではゆかない、
尾張の百姓はどういうものか、
昔から強くてな、
何ぞというと受領を訴える
国の民が国守を告発する

徒党を組んで守の館を襲うばかりか、
京へのぼって直訴談判だ

まあしかし、
中にはひどい国守もいるからな」

そんな話を聞きつつ、
そして私は主上からのお便りの、
内容やらあれこれしゃべりながら、
夕食を摂り酒を汲むのだった

こんな楽しいことはなかった

そして私は発見したのだが、
楽しみを味わう心が強ければ強いだけ、
亡き中宮への悲しみも、
深くなってゆくのだった

(書こう
いよいよ「春はあけぼの草子」を書こう)

そう思うようになっていた

津の国へ来てから迎える秋は、
私の心に沁みた

海辺の夕焼けも、
京では見られぬひろがりだった

取り入れのころになると、
どこからともなく、
浮かれ女や傀儡廻しの旅芸人たちが、
次から次へと里や館に、
やってくるようになった

棟世はそれらのうちの、
顔なじみの芸人などを、
館に呼び芸をさせて、
館の男女たちを楽しませ、
禄を与えた

旅芸人たちは、
東国から来たらしかった

陸奥の国で先年死んだ、
実方の中将のうわさもした

実方は私がはじめて、
あこがれた異性だった

左遷されて陸奥守となり、
やがてそこで死んだ

しかし土地の侍たちは、
彼をたいそう大切に扱い、
仕えたということだった

遠江の国も、
彼らは知っていた

そこには則光がいる

しかし実方も則光も、
いまの私には遠かった

棟世と中宮の思い出だけが、
あればよかった

私は「春はあけぼの草子」を、
書き始めた

かるく、
かるく、
たのしく、
あかるく

心はおどり上がり、
瞳は好奇心にみひらかれ、
鼻は風の匂いも敏感に、
耳は木の葉のそよぎを、
逃すまいとするどく

そのときめきを、
すべて筆に伝えようとした

しかし棟世は、

「急がなくていい、
ゆっくり、
ぼつぼつ書くがいい
お前にはまだ時間があるよ・・・」

といっていた

それは、
まあ、書くのはあとまわしにして、
こちらへ来ないか、

というひびきを帯びていることがあった

私は折々筆を置いて、
彼のそばへ寄るときもあった

彼の白髪のまじる髪も、
澄んだ力のある瞳も、
いつもかすかな笑みがただよう表情も、
頑丈な体躯、
がっしりした胸も、
私にはいつ見ても、
好もしいものだった

私は少なくとも、
「春はあけぼの草子」を、
かき上げるまでは、
棟世のもとにいたい、
と思っていた






          


(次回へ)

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