・骨肉の愛よりも、赤の他人の好意は、
ほんとうにたいへんなことなのだ、という認識は、
私はまず、夫の側、父の側が継母に対して持たねばならない。
と思う。
子連れで再婚する夫は、
妻と子供の関係について、
やくたいもない幻影をまず捨て去った方がいい。
どんな女をもってきても、
去った母、死んだ母の代用にはならないのだし、
ひとりよがりな夢を押し付けることは、
妻にも子にも不幸であろう。
ふつうの家庭では、
夫は母と子からはじき飛ばされても、
何とか格好がつくが、
継母子で構成する家庭では、
夫は重要な役割を担う。
夫、父はヤジロベエの中心に位置して、
バランスをとらなくてはならない。
その場合、
夫は子供のためというより、
自分の幸福のために結婚する、
というようであればいいのだけれど、
日本の男たちがそこまですすんでいるかどうか。
というより、生さぬ仲の子供や親までいる男と、
一緒になろうという気を女におこさせるほど、
日本の男が魅力的であるかどうか。
しかし、離婚が増え、
片親の子が増えるとすれば、
今後、日本の大人の男なり、女なりが、
魅力的になっていってもらわないと困る。
それから継母継子、
どちらかがよほどやりにくい性格でなければ、
何とかうまくいく、という示唆について、
現代では人間関係も複雑になっているし、
特に思春期の若者はむつかしくなっている。
継母がどんなに心を尽くしても、
折り合えない部分が多いと思う。
ある範囲を越えたら、
それは神様の領域だと思って、
あきらめねば仕方ないことだと思う。
「私のまごころできっと・・・」
という意気込みを持つ継母も多いが、
そういう力の入れ方はしばしば見当はずれな、
徒労に終わることが多く、
かえって逆効果を招いたりする。
そういう力コブは不自然なことが多いから、
「私はこんなに心をこめてやっているのに」
という不満を抱く。
実の母子でも「私はこんなに」というのが、
親子の仲を断絶させるもとであるが、
継母子の仲では侮蔑と冷笑を生むだけである。
こじれそうだと思ったら、
自分のプライドと自我を守るためにも、
一歩、退いた方がいい。
人間わざでは及ばない場合もある、
と思わないとやっていけない。
初心だけは忘れないでいればいいのではないかしら。
どんな人も、
はじめ「生さぬ仲」の子と生活を始めようというときは、
抱負も愛情もあるはずである。
「かどかどしく癖をつけ、愛敬なく、人をもて離るる心」
と「源氏物語」にいう、
そんなかたくなな偏屈で無愛想な人でないかぎり、
女はみな愛の幻影を抱き、
母性愛を抱いて「ヨソの子」とはじめて相見る。
期待や不安、危惧の小石を沈ませながら、
母性愛は満々とたたえられている。
それがうまく相手にそそぎつくされなかった、
といっても、それは運命的なものが半分がたあり、
人力の及ぶところではない。
ただ、はじめてその子を見たときの心持を、
いつも思い出すことができたら・・・
自分たちがどこにいるか位置測定することができたら・・・
ついおぼれやすい混乱に、
足をとられることがなくなるだろう。
それに子供たちは変ってゆく。
悪しくも良くも何度も変る。
手のつけられない状態の子供でも、
何年か経つと変っていく。
堪えるのもこれが限界、
と思っているのが次第に変って、
またもういっぺん変る、
という風に子供は脱皮する節目がいくつもある。
決して今の状態が固定的ではないのであって、
(いつかは変る、いつかは変る)
と心の中で唱えていて頂きたい。
それから継しい母と子の数少ない接点、
絆の一つに食べ物がある。
夫をつなぐのも料理なら、
それ以上に継母子をつなぐのは食べ物である。
継母はお料理上手であってほしい。
何時間もかけた高級料理よりも、
子供たちがお腹をすかせたとき、
魔法のように出てくるおにぎりや巻きずしの方がいい。
ちょっとしたおやつのクッキーが、
不幸な母と子の心をむすびつける。
すべてこれらは、
私がかずかず失敗を重ねてきて、
思いついたことである。
今、継子を育てて人知れず悲しい思いをしている、
若いお母さんたちも多いと思う。
その人たちにももっと発言してほしい。
でないと、
いつまでもうさんくさい位置に継母は押しやられ、
ついには当事者自身、沈黙の側に身をおいて、
<地獄を見た人は地獄について語らない>
という様相を呈してしまう。
それは新しい不幸をふやしこそすれ、
決して解決にはならない。
(了)