
・また十日ぐらいして電話すると、
「前沢さんは入院なさいました」
とホームの職員がいった
よっぽど具合が悪いのであろうかと、
心配していたが、
お政どんからの電話で、
彼女が見舞いに行ったところ、
「番頭さん肺ガンの疑いがある、
いうてはりました
正月にも来ん息子さん夫婦が、
来たはりました」
といっていた
うーむ、
モヤモヤさんはそこへ駒をすすめるか
かわいそうに、
私は気が重くなり、
「そうか、
なおってくれたらええのにな」
「へえ、
ワタエも一生けんめい、
拝みにいってます
番頭さんなおらはるように・・・」
「何を拝むのや」
「お鈴教だす」
「お鈴教?」
「鈴を鳴らして拝みますねん
早よ、おナラ出るように・・・」
「けったいなお宗旨やな」
「いえ、
おナラはすっと出ると、
毒素を出しますねん
ガンも切らんとなおした人が、
たんといやはります
おナラしたらなおります」
「ほなまあ、
何なと拝んだげて」
お政どんのお宗旨のおかげで、
私は気がそがれてしまったが、
前沢番頭も、
もしアカンようになったら、
さぞ淋しくなることであろうと、
ふと気落ちしてしまった
涙は出ない
涙というのは、
モヤモヤさんの存在を知らぬ人が、
うろたえまわって流すものである
私は心の中では、
(いつかは前沢番頭とも、
死に別れるやろうし)
(お政どん、おトキどんも、
私より若いけれど、
先にいくかもしれへん)
(いや、
息子らに先立たれる、
ということもあり得る)
といろいろ、
モヤモヤさんの出方を考えており、
突然、不意をつかれた、
ということはなく、
今更涙が出るというのではない
しかし何やしらん、
気落ちする、
がっくりくる、
というのであろうか、
この先、
<この世より
あの世に知りあい
多くなり>
という川柳のように、
なるかもしれない
あとから考えると、
その気落ちのせいで、
モヤモヤさんに不意をつかれた、
のかもしれない
急に体がだるくなり、
熱っぽくなり、
朝は起きるのが大儀になってきた
本物の風邪になってしまった
平素、病気もせず、
便秘も頭痛もないので、
クスリの買い置きもしていない
トーストを食べる気にもならず、
うつらうつらしている
やっと昼前になって、
向かいの医院へ電話して、
老先生の方に往診してもらえないか、
と看護婦さんにたのむ
承知しました、
といってくれたので、
そのへんを片付け、
顔を洗って待っていた
看護婦さんは愛想がよかった
私はお中元とお歳暮は、
先生ばかりでなく、
看護婦さんたちもぬかりなく、
ハンカチセットや、
セカンドバッグやらを、
一人ずつに贈っている
そういうことは小マメに、
しておくものである
午後いちばんの往診で、
「どんな具合ですか」
と物なれた中年の看護婦が、
来てくれる
「珍しいですなあ、
寝込みはるなんて」
というのは老先生ではなく、
大川橋蔵似の若先生である
何やいな、
血圧計るくらいなら、
若先生でもよいが、
病気を診てもらうのは、
老先生のほうがよかったのに
私は若先生の男前はともかく、
腕については一向、
信用していないのである
若先生は舌や咽喉をしらべ、
「湯ざめか何かしらんが、
風邪ひきこみましたな、
注射しよか、
お薬はお婆ちゃん一人やさかい、
あとで持ってこさせますわ
じーっと寝てなあきませんで
誰ぞご家族の人呼んだらどないです」
といった
私はふといってみる
「先生、肺ガンいうような、
心配ありませんか?
ゆうべから咳が出ますけど」
「肺ガン?
そんなはず、ない」
と先生は一笑に附すが、
何をこの橋蔵医者め、
なんでそう断言できるのだ
世の中のこと一切、
断言できることは何もないのだ
何しろモヤモヤさんは、
人の裏を掻くのが大好きなのだから、
断言することは危ないのである
若先生は、
「お婆ちゃん、
元気なときは一人でもええけど、
病気になると、
息子さんにいうて誰かに、
来てもらいなさい
こういうときはなんぼなんでも、
みな心配して飛んできはると思うがねえ」
という
私は風邪かな?と思ったとき、
すぐ医院に電話したけど、
息子に電話することなど、
思いつかなかった
病気したといって、
いちいち呼びつけるくらいなら、
はじめから一人暮らしなど、
できるはずはない
心配して飛んでこられたりすると、
わずらわしい
注射してもらって、
看護婦さんが持ってきてくれた、
おクスリを服むと眠くなり、
眠ってしまった
今日は英会話クラブの日であるが、
休まないとしかたがない
三回ぐらいインターホンが鳴るが、
大儀なので打ち捨てておく
髪もとかさず、
お化粧もしていないので、
容色の衰えた姿を人さまの目に、
さらすのはいやである
どうせ何かのセールスか勧誘、
訪問してくる約束の人はいないから、
用があっても小包か、
管理人にあずけてくれるかもしれない
管理人にも平素、
つけとどけはしていることだし、
と考えているうちに、
また寝てしまう
夕方電話のベルで起こされた
出ると次男である
「今晩、いてるか?」
またグチをいいにくるつもりらしい
「今晩はあかん」
「いつもあかんのやな」
「風邪ひいて、
えろうて寝てますのや
朝からゴハンも食べんと、
寝てばっかりや」
「風邪ひいた?
なにしてんねん」
あんまり外ひょろひょろ、
飛び歩くさかいや」
次男は身勝手な男であるから、
心配するどころか、
あべこべに叱りつける



(次回へ)