「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

7、姥ごよみ ①

2025年02月26日 09時01分41秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・三男の強情嫁はいつだか、
私が頼んだ贈り物の送り先をまちがい、
私はえらい目にあったことがあったが、
そういうときですら、

「人間だから間違いもありますわ」

とうそぶいていた

私は黙っていられぬ

「あんた、
それはスジが違います、須美子さん、
それはこっちのいうこっちゃ、
あんたが、
すみません、ごめんなさい、
とあやまり、
あたしが、
よろし、人間やから、
間違いもありますと許して慰める、
これが会話のルールいうもんでしょ」

「だからちゃんと、
デパートで修正いたしました
すんだことをいつまでも、
お姑さんはごちゃごちゃと」

「まあ、待ちなさい、
訂正したからええというもんやない、
それとこれは別ですよ、
あんたの言い間違いを、
ただしてるのですよ」

「間違ったから、
訂正しましたっていったら!
送り先のちょっとした、
書き間違いに過ぎないのに、
デパートがちゃんと手配してくれたから、
それですむことじゃありませんか、
それをスジが違うの、
会話のルールがどうのと、
話をむずかしく、していらっしゃるのは、
お姑さんのほうですよ、
それじゃ聞きますが、
お姑さんにとって、
会話のルールとは何ですか」

このへりくつ言いめ
私は舌戦にかけては、
四十くらいの嫁に、
負けはしないのだが、
へりくつだけは嫌いである

あたまのいい人間と、
舌戦をたたかわすには、
知的リクレーションであるが、
あたまの悪い人間と、
言い合いをするのは、
エネルギーの損耗である

へりくつはあたまの悪い証拠である

この嫁も、
途中で会話をすりかえ、
あきらかに言いかぶせて、
間違いをかくそうとしている

知っていてかくそうとする狡さ、
何だかそのへんがモヤモヤしているが、
ともかく私を言い負かしたいという、
あたまの悪い勝気というところであろう

昔なら、
私がこんなことを姑に言おうものなら、

「よろし
あんたもう、
去(い)になはれ
船場の家風に適(あ)わん人や」

の一言で実家へ戻されてしまう

そういうとき、
亡夫慶太郎なら、
おろおろするばかりで、
ただの一言も取りなすとか、
まして私の味方になって、
姑に盾つくということはしないであろう

黙って座をはずし、
便所へ入って頭を抱えているのが、
オチである

尤も私も、
昔の時代であるから、
めったに姑に口答えなど、
しないのだが

今の時代であると、
三男はおおっぴらに嫁の味方につき、

「なあ、
もうええやないか、
お母ちゃんはひとこと多いから、
揉めるねん」

と私をたしなめるのだ

ま、そのほうが私も気楽、
これがお袋側について、
嫁をたしなめるような息子であれば、
私はゾッとするであろう

息子と嫁さえ仲良くしていてくれれば、
こっちは安心して、
言いたい放題いっていられるから、
嬉しい

世間には、
息子が嫁のワルクチいったり、
嫁を叱ったり、
しているのを見ると、
嬉しさに笑みまける、
という姑がいるようだが、
どういう気持ちかしら

嫁と不仲になって、
こっちへ寄りかかって、
こられでもしたら、
目もあてられない

いつまでも、

「お母ちゃん」
「お袋」
「おばあちゃん」

などと呼んで、
頼ってくる息子を持った女は、
不幸である

嫁をもらったら、
親のことをかえりみないのが、
息子のあらまほしい姿であろう

といっても、
それは程度問題である

まるきり姥捨になっても、
腹が立つであろう

ウチはおかげで、
まるきり姥捨の風情でもなく、
正月というと、
三男の嫁まで黒豆を煮いて、
持ってきてくれる

一年に何度という、
ツキアイがいちばん、
ボロが出なくていい

ところがこの黒豆、
嫁の自慢にかかわらず、
頂けない

嫁、というより、
これは嫁の母親のやりかたを、
踏襲しているのであろうけど、
ふにゃふにゃと柔らかくて、
黒豆の皮は皺ひとつなく、
たるみきり、
ふやけている

そうして、やけに甘い

私はがっかりして三男の嫁に、

「あるべき黒豆の理想像」

の心得を説いて聞かそうとしたが、
例によってまくしたてられて、

「お姑さんにとって、
黒豆とは何ですか」

とやられそうな気がして、
やめた

折よくその黒豆は、
正月に来た前沢元番頭が、

「ワタエは歯ぁが悪うおますので、
こういう柔らかい甘い豆が、
いちばんおいしゅうござりま」

といったから、
みんな持って帰らせた

黒豆というのは、
カチ栗みたいに堅くてはいけないが、
さればとて、
ふやけたように柔らかく、
煮いてもいけない

歯ごたえがあり、
しかもちゃんと煮き上がって、
いるようでないといけない

何より大事なことは、
黒々とツヤ美しく輝き、
皮に皺が寄らなければならない

お節料理のしきたりは、
幸い、
私の実家と婚家は、
同じようであったから、
よかった

母も姑も、
黒豆は皺の入った煮き方をする

「シワは寄っても、
マメなよに」

という心で、
黒豆をお節料理に入れるのであるから、
皺ののびた、
ふやけて丸くふくらんだ黒豆では、
意味がないのである

砂糖を入れて、
照りとツヤを出し、
色どり美しく、
煮き上げないといけない

このやり方を、
息子たちの嫁はおぼえようとはしない

それぞれの母親の流儀を、
見習ってやっていくようである






          


(次回へ)

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