田川氏の解説するパウロがとても興味深かったので、以下、また引用させていただきます。
新約聖書 訳と註(パウロ書簡2 p326~7)より。
ローマ14:20の「一切は清い」に関して。
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パウロは明瞭に第一コリントス書簡の議論を頭においている。よほどひっかかったのだろう。
第一コリントス10:23では「一切が許されている」と言っている。
どちらの表現も同じ問題に関する同じ意識の表現である。
そしてどちらも明瞭に、食べ物を仕分けして、この食べ物は宗教的に穢れている、と決めつけ、それによって自分の行動も他人の行動もうるさく管理、支配しようとする、そういったくだらぬ宗教的禁忌をきっぱりと拒絶する宣言である。
初期キリスト教が多くの人々に人気があったのは、その種のくだらぬ禁忌からの解放を鮮明に、きっぱりとした仕方でもたらしたからであろう。
古代人にとっては、どの民族でも、その種の宗教的禁忌がうじゃうじゃとこうるさくのしかかっていた。
その無意味さをずばっと指摘し、そこから解き放たれようと説いたのだから、当然、人気が高まる。
そしてその出発点にイエスが位置した。(マルコ7:15参照)
けれどもユダヤ人出身のキリスト教徒の多くは、ユダヤ教の伝統から十分に足を洗うことができず、むしろその種の禁忌をキリスト教の中にまで持ち込もうとする勢力も強かった。
そしてこれは単に食べ物の禁忌の問題ではなく、「異邦人」を穢れたものとみなすユダヤ人のあの嫌ったらしい民族至上主義がからんでいる。それを彼らはキリスト教の中にも持ち込んで持続しようとしたのである。
異教の神殿に捧げられた可能性のある肉(可能性というだけなら、「異邦人」の肉屋で売っている肉はすべてその可能性がある)をむきになって忌避しようとしたのもその一つである。
しかしパウロは頭がいいから、こういう時にただ単純素朴にごりごりのユダヤ主義を主張したりはしない。本当のところ食べ物に宗教的穢れなどということはありえない、ということもわかっている。
「一切は清い」のだ。
しかしそれならそうとおとなしく認めればいいのに、建前上はその基本原則を認めるような顔をしながら、実際には異邦人の肉屋の肉を忌避する姿勢を手放さない。(略)
そしてパウロはその矛盾をごまかすためにおためごかしの理屈を持ち出す。
食べ物の禁忌に固執しているのは「信仰に関して弱い者」である。あなた方はそういう「弱い者」のことを配慮してあげないといけない・・・。
しかし弱い者に対する配慮どころかパウロ自身が、偶像に供えられた肉を食べることは悪霊と交わることだ、そんなとんでもないことをやってはいけない、くわばらくわばら、と信じ込んでいるのだから(第一コリントス10:20)、パウロの本音がどこにあるかは、一目瞭然である。
そして、その本音を誤魔化しておためごかしの理屈で切り抜けようとすれば、人は説得力を失う。
パウロはコリントスの信者(多くはいわゆる異邦人)から強烈に批判されたことだろう。あなたはイエスの発言まで無視して、自分勝手なユダヤ主義を主張しようとしている・・・。
パウロの二つのコリントス書簡はその件及び類似のいくつかの件をめぐってパウロとコリントスの信者の間で生じた紛争の記録である。
痛いところを突かれて、素直にあやまればいいのに、逆に居直ってかりかりと理屈にならない理屈を並べて反論し、権威づくで相手を押さえつけようとする。
パウロがいかにかりかりしていたかは、二つのコリントス書簡、特に第二書簡を読むとよくわかるが、ローマ書簡はそれと同時並行ないしその直後に書かれた。だからパウロはその喧嘩のとばっちりをローマ書簡にも書き込んでしまったのである。
第一コリントス8-10章でもローマ14章でも、まったく同じ論理の運び(ないし論理にならない居直り)である。
どちらでもパウロは「一切は清い」という程度のことは俺だって知ってるよ、と宣言する。
どちらでもパウロは、そのせりふにすぐに続けて「しかし」とくる。「しかしやっぱり異教の神殿に捧げられた肉」を食べるのはよろしくない、と。
この「しかし」は、まったく説得力のない「しかし」であるが、居直りのせりふというのはまさにそういうものである。
パウロがローマ書で、つまりコリントスの信者たちと直接には何の関係もない未知の相手に、まったく同じ問題を同じ論法でくり返し扱っているのは、いかにパウロがコリントス論争にこだわっていたかをよく示している。
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以上、読みやすいよう、たくさん改行を入れさせていただきました。
田川氏は、パウロのこうした姿勢(建前と実際行動の乖離)を、霞ヶ関の官僚とそっくり、と書かれていましたが、自分は、ものみの塔の組織とそっくり~~、と思いました。
パウロ書簡を読んでそれを実践しようとすると、そうなっちゃうってことですかね・・・・・だとしたら、この組織は聖書的だと言えるのかなw。
聖書全体は神の霊感を受けたもの、とあるけど、特に新約に関してはアヤシイところだし、パウロがこういう人だったことを考えると、その内容もどれだけ受け入れて当てはめるか、ムズカシイところです。
でも、自分は創造者としての神の存在を信じてるし、聖書はやっぱり神からの手紙なのかなぁ、とも思うので、引き続きぼちぼちと学んでいこうと思ってます。
(追記)同上。p324~5より ローマ14:16に関して。
_________
(「良きもの」がキリスト教徒が得た「自由」を指すと解釈すれば)
・・・パウロはここではむしろ、食べ物や暦日の禁忌に固執しようとするユダヤ教の流れの信者たちのことを擁護しようとしている(彼らを蔑んではいけない、裁いてはいけない、彼らに障害物や躓きを与えてはいけない)。
従ってパウロがここで、禁忌からの自由を重んじようと言っている、と解するわけにはいかないのだ。
・・・禁忌に固執する「弱い」信者のことを批判する「強い」信者に対して、そういう批判をするな、と言っているのだから・・・
(「良きもの」がパウロの言う「福音」を指すと解釈すれば)
・・・パウロが言っているのは、食べ物に関する禁忌を犯したりしたら、それによって、あいつらのキリスト教は「冒瀆」を犯している、などと悪口を言われかねない。だからそういうことのないようにしよう、ということであろう。
議論のはじめの方では、食べ物の禁忌なぞどうでもいい、と言いながら、結論を言う段になると、それを守ろうとするユダヤ教的キリスト信者さんたちの立場を考えて、守ることに賛成してあげなさい、というのだ。
賛成してあげなさいどころか、最後は「肉は食わない方がいい」という断定的な結論にもっていく(21節)。パウロ的詭弁の最たるものである。
「どうでもいい」と言うのなら、「食っても食わなくてもどうでもいいのだから、それぞれが好きなようにやればいい」という結論しか出ないはずである。それを、「どうでもいいのだから、食うな」とつなげるのだから、自分で自分の理屈を無視した詭弁というしかあるまい。
「食うな」という結論を主張したいのなら、はじめから、これはどうでもいいことではなく、重要な問題なのだ(本当にそうかどうかは別として、パウロの思惑としては)、と言えばよろしかったのだ。
もっとも、そのように正直に本音を言ったら、「異邦人」信者から、パウロはやはりキリスト教をユダヤ教に引きもどすつもりか、という文句が出ただろう。それで無理をして両側を並べるから、こういう詭弁になる。
この箇所については、「良きもの」が何を指しているかについて、他にもさまざまな解釈があるところ・・・
訳としては、従って、なるべく解釈をまぜないように訳さないといけない。
・・・良いことがそしりの「種」にならないように、というのではなく、良いことそのものが冒瀆されないように、と言っている。
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ちなみに新世界訳の14:16は「それゆえ、自分の行なう良いことのために悪く言われるようなことがないようにしなさい」。田川訳は「だから、あなた方の良きものが冒瀆されるようなことがあってはならない」。
新約聖書 訳と註(パウロ書簡2 p326~7)より。
ローマ14:20の「一切は清い」に関して。
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パウロは明瞭に第一コリントス書簡の議論を頭においている。よほどひっかかったのだろう。
第一コリントス10:23では「一切が許されている」と言っている。
どちらの表現も同じ問題に関する同じ意識の表現である。
そしてどちらも明瞭に、食べ物を仕分けして、この食べ物は宗教的に穢れている、と決めつけ、それによって自分の行動も他人の行動もうるさく管理、支配しようとする、そういったくだらぬ宗教的禁忌をきっぱりと拒絶する宣言である。
初期キリスト教が多くの人々に人気があったのは、その種のくだらぬ禁忌からの解放を鮮明に、きっぱりとした仕方でもたらしたからであろう。
古代人にとっては、どの民族でも、その種の宗教的禁忌がうじゃうじゃとこうるさくのしかかっていた。
その無意味さをずばっと指摘し、そこから解き放たれようと説いたのだから、当然、人気が高まる。
そしてその出発点にイエスが位置した。(マルコ7:15参照)
けれどもユダヤ人出身のキリスト教徒の多くは、ユダヤ教の伝統から十分に足を洗うことができず、むしろその種の禁忌をキリスト教の中にまで持ち込もうとする勢力も強かった。
そしてこれは単に食べ物の禁忌の問題ではなく、「異邦人」を穢れたものとみなすユダヤ人のあの嫌ったらしい民族至上主義がからんでいる。それを彼らはキリスト教の中にも持ち込んで持続しようとしたのである。
異教の神殿に捧げられた可能性のある肉(可能性というだけなら、「異邦人」の肉屋で売っている肉はすべてその可能性がある)をむきになって忌避しようとしたのもその一つである。
しかしパウロは頭がいいから、こういう時にただ単純素朴にごりごりのユダヤ主義を主張したりはしない。本当のところ食べ物に宗教的穢れなどということはありえない、ということもわかっている。
「一切は清い」のだ。
しかしそれならそうとおとなしく認めればいいのに、建前上はその基本原則を認めるような顔をしながら、実際には異邦人の肉屋の肉を忌避する姿勢を手放さない。(略)
そしてパウロはその矛盾をごまかすためにおためごかしの理屈を持ち出す。
食べ物の禁忌に固執しているのは「信仰に関して弱い者」である。あなた方はそういう「弱い者」のことを配慮してあげないといけない・・・。
しかし弱い者に対する配慮どころかパウロ自身が、偶像に供えられた肉を食べることは悪霊と交わることだ、そんなとんでもないことをやってはいけない、くわばらくわばら、と信じ込んでいるのだから(第一コリントス10:20)、パウロの本音がどこにあるかは、一目瞭然である。
そして、その本音を誤魔化しておためごかしの理屈で切り抜けようとすれば、人は説得力を失う。
パウロはコリントスの信者(多くはいわゆる異邦人)から強烈に批判されたことだろう。あなたはイエスの発言まで無視して、自分勝手なユダヤ主義を主張しようとしている・・・。
パウロの二つのコリントス書簡はその件及び類似のいくつかの件をめぐってパウロとコリントスの信者の間で生じた紛争の記録である。
痛いところを突かれて、素直にあやまればいいのに、逆に居直ってかりかりと理屈にならない理屈を並べて反論し、権威づくで相手を押さえつけようとする。
パウロがいかにかりかりしていたかは、二つのコリントス書簡、特に第二書簡を読むとよくわかるが、ローマ書簡はそれと同時並行ないしその直後に書かれた。だからパウロはその喧嘩のとばっちりをローマ書簡にも書き込んでしまったのである。
第一コリントス8-10章でもローマ14章でも、まったく同じ論理の運び(ないし論理にならない居直り)である。
どちらでもパウロは「一切は清い」という程度のことは俺だって知ってるよ、と宣言する。
どちらでもパウロは、そのせりふにすぐに続けて「しかし」とくる。「しかしやっぱり異教の神殿に捧げられた肉」を食べるのはよろしくない、と。
この「しかし」は、まったく説得力のない「しかし」であるが、居直りのせりふというのはまさにそういうものである。
パウロがローマ書で、つまりコリントスの信者たちと直接には何の関係もない未知の相手に、まったく同じ問題を同じ論法でくり返し扱っているのは、いかにパウロがコリントス論争にこだわっていたかをよく示している。
______________
以上、読みやすいよう、たくさん改行を入れさせていただきました。
田川氏は、パウロのこうした姿勢(建前と実際行動の乖離)を、霞ヶ関の官僚とそっくり、と書かれていましたが、自分は、ものみの塔の組織とそっくり~~、と思いました。
パウロ書簡を読んでそれを実践しようとすると、そうなっちゃうってことですかね・・・・・だとしたら、この組織は聖書的だと言えるのかなw。
聖書全体は神の霊感を受けたもの、とあるけど、特に新約に関してはアヤシイところだし、パウロがこういう人だったことを考えると、その内容もどれだけ受け入れて当てはめるか、ムズカシイところです。
でも、自分は創造者としての神の存在を信じてるし、聖書はやっぱり神からの手紙なのかなぁ、とも思うので、引き続きぼちぼちと学んでいこうと思ってます。
(追記)同上。p324~5より ローマ14:16に関して。
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(「良きもの」がキリスト教徒が得た「自由」を指すと解釈すれば)
・・・パウロはここではむしろ、食べ物や暦日の禁忌に固執しようとするユダヤ教の流れの信者たちのことを擁護しようとしている(彼らを蔑んではいけない、裁いてはいけない、彼らに障害物や躓きを与えてはいけない)。
従ってパウロがここで、禁忌からの自由を重んじようと言っている、と解するわけにはいかないのだ。
・・・禁忌に固執する「弱い」信者のことを批判する「強い」信者に対して、そういう批判をするな、と言っているのだから・・・
(「良きもの」がパウロの言う「福音」を指すと解釈すれば)
・・・パウロが言っているのは、食べ物に関する禁忌を犯したりしたら、それによって、あいつらのキリスト教は「冒瀆」を犯している、などと悪口を言われかねない。だからそういうことのないようにしよう、ということであろう。
議論のはじめの方では、食べ物の禁忌なぞどうでもいい、と言いながら、結論を言う段になると、それを守ろうとするユダヤ教的キリスト信者さんたちの立場を考えて、守ることに賛成してあげなさい、というのだ。
賛成してあげなさいどころか、最後は「肉は食わない方がいい」という断定的な結論にもっていく(21節)。パウロ的詭弁の最たるものである。
「どうでもいい」と言うのなら、「食っても食わなくてもどうでもいいのだから、それぞれが好きなようにやればいい」という結論しか出ないはずである。それを、「どうでもいいのだから、食うな」とつなげるのだから、自分で自分の理屈を無視した詭弁というしかあるまい。
「食うな」という結論を主張したいのなら、はじめから、これはどうでもいいことではなく、重要な問題なのだ(本当にそうかどうかは別として、パウロの思惑としては)、と言えばよろしかったのだ。
もっとも、そのように正直に本音を言ったら、「異邦人」信者から、パウロはやはりキリスト教をユダヤ教に引きもどすつもりか、という文句が出ただろう。それで無理をして両側を並べるから、こういう詭弁になる。
この箇所については、「良きもの」が何を指しているかについて、他にもさまざまな解釈があるところ・・・
訳としては、従って、なるべく解釈をまぜないように訳さないといけない。
・・・良いことがそしりの「種」にならないように、というのではなく、良いことそのものが冒瀆されないように、と言っている。
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ちなみに新世界訳の14:16は「それゆえ、自分の行なう良いことのために悪く言われるようなことがないようにしなさい」。田川訳は「だから、あなた方の良きものが冒瀆されるようなことがあってはならない」。