5:9からパウロが、この手紙の前にコリントへ手紙を書いていたことが分かる(現存していない。学者たちからは「前書簡」と呼ばれている)。
その内容は、5:10から分かるように、淫行の者や偶像を礼拝する者などと一切つきあうな、とか、7章以下から分かるような(結婚するな、肉食うな、女は黙ってろ、みたいな感じかな)ことで、それをパウロは、自分の言うことこそ神(イエス)の言葉なんだぞ、と上から目線で書き送ったのだろう。
パウロ以外からキリスト教を知ったコリントの信者は、はたして本当にイエスがそんなことを言ったのかと疑問に思い、7:1にあるように、質問の手紙をパウロに送ったということかな。
パウロはそれを自分への批判と受け取り、返事を書くにあたってまずは、コリント会衆で起きていると伝え聞いた良くない事(分派とか、淫行とか、訴訟とか)を取り上げ、真偽も確かめずに、けしからんことだと文句を言うところから始めるという・・・(お子ちゃまだね~w)。
で、コリント信者の質問に対する実際の返答は、7章から(5:9~11も)になる。
4章。
1節。「人(つまりコリント信者)は我々(つまりパウロ)を・・・神の秘義の管財人とみなすべきである」。
15節。「キリスト・イエスにあって、福音によって、私があなた方を生んだのだ」。
16節。「私を真似る者となりなさい」。
17節。「あなた方にキリスト・イエスにおける私の道を思い出させてくれるだろう。私があらゆるところで、あらゆる教会で、どのように教えているかを」。
以上田川訳。
これらの言葉だけでも、パウロがとても排他的で自分を絶対視する教祖様だということが分かる。このパウロの精神を取り入れ受け継いだ結果、宗教改革以降プロテスタント諸派が分裂を繰り返し、自分たちこそ神の代理者で真理を教えているんだと主張して、他を排除しあうようになっていった・・・・・エホバの証人もまた、その中の1つでしかないんだろうな。
5節。新世界訳「主が来られるまでは、何事も裁いてはなりません」。
この「裁く」は3,4節で「調べる」と訳されてる動詞(「批判する」の意)から接頭語を抜いたもの。「批判する」「判断する」の意味だが、裁判用語として「裁く」の意味に用いられる。パウロのよくやる語呂合わせ。
3節で、あなた方に批判されようがどうでもいい、と言っておきながら、そのすぐ後で、裁くな(つまり、オレのことを批判するとは何事か)、と言ってる訳で。
6節。新世界訳「『書かれている事柄を越えてはならない』という定め」。
旧約に書かれていることではなく、先の手紙でパウロが書いた内容を指す(「定め」は余分な付け足し)。書かれていることだけをしっかり受け取って、それ以上つべこべ言うな、と。
8節。新世界訳「王として支配しはじめた」。直訳は「王である」。
宗教思想において、到達しうる最高の状態を「あらゆるものの上に立つ」という意味で「王になる」と呼んでいる(グノーシス主義的発想。プラトン、ストア派などの「賢者」のこと)。さらに上の段階として「休む」もあるとか。
う~ん、王として支配すること、って実際なんなのか分からなくなってきた。14万4千人が天でキリストと共に地を支配する、っていう考えなどパウロは持っていなかったように思えるなぁ・・・。啓示の書でそれが明かされたとも言えるのだろうけど・・・この14万4千人の教理はどうもピンとこないなぁ。
5章。
1節。新世界訳「ある人が自分の父の妻を有している」。
単に「持つ」という動詞。「女を持つ」という表現は「結婚する」と同義(法的かどうかは関係なく)。自分の母親ではなく、父親の再婚相手(まだ若い)と、おそらく父親が亡くなった後に結婚したとも考えられる。(当時は若くして亡くなる人も多かったし、早婚だったし)
「諸国民の間にさえないほどの淫行」とあるのは、ローマ法では父の妻との結婚が禁止されていたからか。
まぁ、パウロは性道徳に関して極端に保守的で、伝統的な型にはまった男女の関係以外は認めたくない、いやそれさえどちらかといえば認めたくない人なわけで。
とすると、そんなに騒ぎ立てるほどヒドイ事態でもなかったんじゃないか・・・と思われる。(まぁ、自分を批判してきた相手のささいな欠点をあげつらってるだけなんじゃないかと)
3節。新世界訳「すでにきっぱりと裁きました」。
4:5で人には「裁くな」と言ってるのに、矛盾だよね。
11節。新世界訳「共に食事をすることさえしないように」。
「汚れた者」と一緒に食事をするとその汚れが自分たちにも伝染する、という古代人的(特にユダヤ教律法的)な発想がある。だから一緒に食事をするなと言ってるだけで、みんなでシカトしろと言ってるわけじゃない。つまり、もしこの言葉に従うとなると、逆にサタン的だ(いわゆる迷信に従ってる)ってことになるんじゃw。
パウロは以前、ペテロが異邦人クリスチャンと一緒に食事をすることから離れて行った時、厳しく批判しているのに、ここでは「淫行の者」等と一緒に食事をするな、と言う。これも矛盾だよね。
イエスは、罪人と非難されてる人たちと一緒に食事をすることについて、そういう考え(罪が伝染する)を憤りを込めて批判した。
パウロはそれと対照的に、自分の教会を自分的な形で保ちたかっただけ。
これは、組織の排斥の根拠となる聖句でもあるけど、こうした背景を考えると、果たしてパウロのこの言葉を額面通りに受け取って、神の言葉として当てはめるのはどうかなと思う。
12節。新世界訳「あなた方は内部の人々を裁き」。
田川訳は「あなた方は内部の者を裁いてないとでもいうのか」。ここは論理的に通じない文。文脈からすれば「我々は内部の者をきっちり裁くのがよい」とならなければ通じない。でもここもパウロの自己弁護と捉えれば、あなたは外部の人々まで裁いてしまおうというのか、という前書簡への批判に対して、誰もそんな事は言ってない、あなた方こそ内部の人(パウロ)を裁いてるじゃないか、と切り返したのだと考えられる。
6章。
1~7節。この部分も、事実そういうこと(訴訟問題)があったのか、それとも仮定の話なのか、分からない。
9節。新世界訳「不自然な目的のために囲われた男」。
直訳は「柔弱な者」。この形容詞は「柔らかい」の意。人間には褒めた意味ではなく、悪口に使われる。(ホモセクシャルの女役を指しているという解釈もある。次の「男どうしで寝る者」の対として)
15~17節。新世界訳「二人は一体となる」。
同じ旧約の言葉を引用した、パウロとイエスの違いが表れている部分。パウロは娼婦を汚れた存在(人間扱いしていない)とみなし、そういう汚れたものに触れるのはよくない、と言っているが、イエスはそういう仕方で娼婦を排除する(古代社会では特に、社会から排除された女がやむをえず娼婦になった)世論に対して、文句をつけた。
イエスは、排除された者の側の視点に立ってものを言い、パウロはその排除を前提としてものを考える。
以上、今回も田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡より、引用、参照させていただきました。
その内容は、5:10から分かるように、淫行の者や偶像を礼拝する者などと一切つきあうな、とか、7章以下から分かるような(結婚するな、肉食うな、女は黙ってろ、みたいな感じかな)ことで、それをパウロは、自分の言うことこそ神(イエス)の言葉なんだぞ、と上から目線で書き送ったのだろう。
パウロ以外からキリスト教を知ったコリントの信者は、はたして本当にイエスがそんなことを言ったのかと疑問に思い、7:1にあるように、質問の手紙をパウロに送ったということかな。
パウロはそれを自分への批判と受け取り、返事を書くにあたってまずは、コリント会衆で起きていると伝え聞いた良くない事(分派とか、淫行とか、訴訟とか)を取り上げ、真偽も確かめずに、けしからんことだと文句を言うところから始めるという・・・(お子ちゃまだね~w)。
で、コリント信者の質問に対する実際の返答は、7章から(5:9~11も)になる。
4章。
1節。「人(つまりコリント信者)は我々(つまりパウロ)を・・・神の秘義の管財人とみなすべきである」。
15節。「キリスト・イエスにあって、福音によって、私があなた方を生んだのだ」。
16節。「私を真似る者となりなさい」。
17節。「あなた方にキリスト・イエスにおける私の道を思い出させてくれるだろう。私があらゆるところで、あらゆる教会で、どのように教えているかを」。
以上田川訳。
これらの言葉だけでも、パウロがとても排他的で自分を絶対視する教祖様だということが分かる。このパウロの精神を取り入れ受け継いだ結果、宗教改革以降プロテスタント諸派が分裂を繰り返し、自分たちこそ神の代理者で真理を教えているんだと主張して、他を排除しあうようになっていった・・・・・エホバの証人もまた、その中の1つでしかないんだろうな。
5節。新世界訳「主が来られるまでは、何事も裁いてはなりません」。
この「裁く」は3,4節で「調べる」と訳されてる動詞(「批判する」の意)から接頭語を抜いたもの。「批判する」「判断する」の意味だが、裁判用語として「裁く」の意味に用いられる。パウロのよくやる語呂合わせ。
3節で、あなた方に批判されようがどうでもいい、と言っておきながら、そのすぐ後で、裁くな(つまり、オレのことを批判するとは何事か)、と言ってる訳で。
6節。新世界訳「『書かれている事柄を越えてはならない』という定め」。
旧約に書かれていることではなく、先の手紙でパウロが書いた内容を指す(「定め」は余分な付け足し)。書かれていることだけをしっかり受け取って、それ以上つべこべ言うな、と。
8節。新世界訳「王として支配しはじめた」。直訳は「王である」。
宗教思想において、到達しうる最高の状態を「あらゆるものの上に立つ」という意味で「王になる」と呼んでいる(グノーシス主義的発想。プラトン、ストア派などの「賢者」のこと)。さらに上の段階として「休む」もあるとか。
う~ん、王として支配すること、って実際なんなのか分からなくなってきた。14万4千人が天でキリストと共に地を支配する、っていう考えなどパウロは持っていなかったように思えるなぁ・・・。啓示の書でそれが明かされたとも言えるのだろうけど・・・この14万4千人の教理はどうもピンとこないなぁ。
5章。
1節。新世界訳「ある人が自分の父の妻を有している」。
単に「持つ」という動詞。「女を持つ」という表現は「結婚する」と同義(法的かどうかは関係なく)。自分の母親ではなく、父親の再婚相手(まだ若い)と、おそらく父親が亡くなった後に結婚したとも考えられる。(当時は若くして亡くなる人も多かったし、早婚だったし)
「諸国民の間にさえないほどの淫行」とあるのは、ローマ法では父の妻との結婚が禁止されていたからか。
まぁ、パウロは性道徳に関して極端に保守的で、伝統的な型にはまった男女の関係以外は認めたくない、いやそれさえどちらかといえば認めたくない人なわけで。
とすると、そんなに騒ぎ立てるほどヒドイ事態でもなかったんじゃないか・・・と思われる。(まぁ、自分を批判してきた相手のささいな欠点をあげつらってるだけなんじゃないかと)
3節。新世界訳「すでにきっぱりと裁きました」。
4:5で人には「裁くな」と言ってるのに、矛盾だよね。
11節。新世界訳「共に食事をすることさえしないように」。
「汚れた者」と一緒に食事をするとその汚れが自分たちにも伝染する、という古代人的(特にユダヤ教律法的)な発想がある。だから一緒に食事をするなと言ってるだけで、みんなでシカトしろと言ってるわけじゃない。つまり、もしこの言葉に従うとなると、逆にサタン的だ(いわゆる迷信に従ってる)ってことになるんじゃw。
パウロは以前、ペテロが異邦人クリスチャンと一緒に食事をすることから離れて行った時、厳しく批判しているのに、ここでは「淫行の者」等と一緒に食事をするな、と言う。これも矛盾だよね。
イエスは、罪人と非難されてる人たちと一緒に食事をすることについて、そういう考え(罪が伝染する)を憤りを込めて批判した。
パウロはそれと対照的に、自分の教会を自分的な形で保ちたかっただけ。
これは、組織の排斥の根拠となる聖句でもあるけど、こうした背景を考えると、果たしてパウロのこの言葉を額面通りに受け取って、神の言葉として当てはめるのはどうかなと思う。
12節。新世界訳「あなた方は内部の人々を裁き」。
田川訳は「あなた方は内部の者を裁いてないとでもいうのか」。ここは論理的に通じない文。文脈からすれば「我々は内部の者をきっちり裁くのがよい」とならなければ通じない。でもここもパウロの自己弁護と捉えれば、あなたは外部の人々まで裁いてしまおうというのか、という前書簡への批判に対して、誰もそんな事は言ってない、あなた方こそ内部の人(パウロ)を裁いてるじゃないか、と切り返したのだと考えられる。
6章。
1~7節。この部分も、事実そういうこと(訴訟問題)があったのか、それとも仮定の話なのか、分からない。
9節。新世界訳「不自然な目的のために囲われた男」。
直訳は「柔弱な者」。この形容詞は「柔らかい」の意。人間には褒めた意味ではなく、悪口に使われる。(ホモセクシャルの女役を指しているという解釈もある。次の「男どうしで寝る者」の対として)
15~17節。新世界訳「二人は一体となる」。
同じ旧約の言葉を引用した、パウロとイエスの違いが表れている部分。パウロは娼婦を汚れた存在(人間扱いしていない)とみなし、そういう汚れたものに触れるのはよくない、と言っているが、イエスはそういう仕方で娼婦を排除する(古代社会では特に、社会から排除された女がやむをえず娼婦になった)世論に対して、文句をつけた。
イエスは、排除された者の側の視点に立ってものを言い、パウロはその排除を前提としてものを考える。
以上、今回も田川建三氏「新約聖書 訳と註」パウロ書簡より、引用、参照させていただきました。