聖なる書物を読んで

現役JW29年目

「心配してはいけない。私があなたの神である」

2019-03-08 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

今年の年句ですね。イザヤ41:10。
「心配してはいけない」の部分、以前の訳では「周りを見回すな」でした。他の訳では「驚いてはならない」「たじろぐな」など。

ちなみにイザヤ書は、1~39章、40~55章、56~66章の3つの部分に分類するのが旧約聖書学の一つの常識となってるそうです。学者たちはそれぞれの著者を、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼んで分類しているそうです。
なのでこの部分は、捕囚から帰還したエルサレムにて、第二イザヤが書いたものとされているそうです。

さて、ツッコミです。

1節に出てくる良子さん、エホバの証人としての信仰があれば、当然の反応だよね。死んで復活したら楽園なんだから。対処しにくい危機の時代に大変な思いをして生きるより、それこそ「楽園で会いましょう!」って感じになるんじゃないのかな。
真の命は楽園での命(つまり今の命は真の命じゃない)。死は無活動(死への恐れから自由になった)。などの教理を信じてるんだから。
だから、6節で娘さんが言ってる(死への恐れに対して)「穏やかな気持ちでいられるようエホバが助けてくれた」に、逆に違和感を感じるよ。

人間は生き続けるように創られたから、本能的に死ぬことを受け入れられない、ということなら分かる。だから、宣告を受けて動揺したり、時には恐れを抱いたりしても、それは信仰がないことではないんだよと。

あるいは、死に至る痛みや苦しみに耐えられるよう、エホバが助けてくれた、ということなら分かる。だから、激しい迫害にあっても、どれほど敵の攻撃が激化しても、心配いらないよと。

でも、死そのものを恐れてるエホバの証人がいるとしたら、それって信仰ないよね、ってことにならないのかなと。

・・・・まぁ、こういう信仰は、命に対する一般的な見方からは、かけ離れてると思います。エホバの証人はどうかしてると一般からは思われます。それが分かってるから、組織はこういう書き方をするんでしょうね。エホバの証人は、命に対して一般的な見方と同じなんだと。ホントは相容れない考え方なのに。

でもって、うま~く論点をすりかえてこんな記事を書く。

挿絵で恐怖をあおって、仮想敵を作って、あなたを助けてくれるのはエホバ(=組織)だけなんだ、と刷り込む。

相変わらずだなぁ、と思いました。