聖なる書物を読んで

現役JW29年目

コリント人への第一の手紙1~3章

2019-03-21 | 聖書
新世界訳の独特な言葉。この1~3章の中にもたくさん出てくる。

「神聖な奥義」「この事物の体制」「過分のご親切」「苦しみの杭」「贖いによる釈放」「会衆」などなど。

エホバの証人だけが用いる、いわゆる隠語的な言葉(開拓奉仕とか時間を入れるとか)はたくさんあるけど、新世界訳聖書もそれにまみれてる。
独自の解釈による独自の言葉が多用された聖書。次の特別集会で今度こそ改訂版が出るだろうと期待されてるみたいだけど、ますますエホバの証人色が強くなった聖書なんだろうなと思うと、なんだかもう読む気も薄れてきた。

解釈本をたくさん出すのは勝手だと思うけど、聖書自体に解釈を持ち込んじゃダメだと思う。

まぁ、組織側としては、聖書読めば教理が分かるように改訂しちゃうのが一番近道なんでしょうけど。


では、コリント①1~3章いきます。

1章。

20,21節。田川訳「・・神が此の世の知恵を愚かにしたのではなかったのか。すなわち此の世は神の知恵の中で神を知恵によって認識できなかったので、神は宣教の愚かさによって信じる者を救うのがよいとされたのである」

ここ、新世界訳では何言ってるのかよく分からなかったけど、この訳だとよく分かる。
人間は、神の知恵の所産である創造物の中にいて、しかも認識できる知恵を持っていたのに、神を認識できなかった。だから神は、そういう理性(知恵)による認識をあきらめて、宣教の愚かさの方を選んだんだよ。
・・と解釈すればいいんだね。


2章

2節。新世界訳「・・しかも杭につけられたキリスト以外には何をも知るまいと決めたのです」。

つまり、生きていた時のイエスが何をして何を教えたかなんて知らない、というパウロの宣言。
パウロにとってのキリストは、贖いによる救済信仰の対象であることと、復活して自分に現われてくれたことのみ。生前のイエスを知る宣教者たちに聞くことを嫌った(ガラテア1:11,12)。
なのでコリントの信者たちから、パウロのキリストは本物なのかどうかという疑問が出て、結果コリント会衆に分裂を引き起こすことになったのに、この後のパウロの言葉ときたら・・・

このオレ様こそ神の霊を受けて神の知恵を語る者であり、あなた方と違って物事を正しく判断できる霊的な人、キリストの思いを持った者なのだ、と。(どこぞの統治体とそっくりw)

「わたしたち」という語にごまかされちゃうけど、この語をパウロとその側の人たちだけを指すと考えて読むとこうなる。つまり解釈が全然違ってくる。この書の書かれた目的を考えると、こっちの方が妥当。

6節。新世界訳「円熟した者たち」。田川訳「完全な者たち」。

当時、それぞれの思想の流れの中で最もすぐれた水準に達した人を「完全な者」(一つの概念として)と呼ぶ、一種の流行語。パウロはそれを、3:1で「霊的な人」と訳されてる語と同じ意味で、自己流に用いている。「円熟した者たち」は、訳ではなく解説。

他にもグノーシス的な概念として、「知恵(ソフィア)」6節、「秘義」1,7節、「認識する」8節(名詞がグノーシス)など。パウロも当時の流行語的なものに乗っかってた、ということでw。

3章

10,11節。田川訳「私に与えられた神の恵みによって、私は知恵ある建築家として土台を据えた。ほかの者がその上に建物を建てる。それぞれがどのように上に建物を建てるかは、自分で気をつけるべきである。すでに置かれてる土台以外に誰も土台を据えることはできない。その土台はイエス・キリストである」

新世界訳は「賢い作業監督」としてるけど、「知恵」の問題がここでも続いてることが分かるよう直訳すべき。

新世界訳だと、イエス・キリスト以外の土台は据えられない、という意味になるけど、他の訳だと、すでに据えられている土台以外に土台は据えられない、となる。
つまり、土台を据える(据えた)のはパウロだけだ、という排他的なパウロ教宣言。

新世界訳では続く13節に、土台の上に建てられる各人の業はその日に火によって証明される、ってあるけど、つまりパウロは、パウロのキリストが本物であるかどうかなんて批判してる場合じゃないぞ、各人の業の本当の証明は最後の審判の火でなされるんだぞ、って脅してるってことだよね。(どこぞの組織みたいだねw)

21節。人間を誇るな、神にあって誇れ、と言ってる割にパウロ自身は、かなり自分を誇ってるという・・(新世界訳だとその辺が読み取れないので、田川訳をお勧めします)


いつのもように田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡を参照させていただきました~