聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ローマ人への手紙12~14章

2019-03-06 | 聖書
今回も田川建三氏の「新約聖書 訳と註」(パウロ書簡2)を参照、引用させていただきました。

12章。

1節。新世界訳「理性による神聖な奉仕」。直訳では「理性的(ロゴス的)な仕えること」(「霊的」とは違う)。古代人の考え方は、「理性」とは本質的には神の事柄であり、人間が神に対して取るべき態度は理性的でなければならない、というものだった。だからパウロは、取るべき態度としてこの語を用いただけで、今の日本語にあるような意味で用いているのではない。

3節。新世界訳「自分に与えられた過分のご親切」。1節同様、パウロは自分が神から特別な恵みを与えられた権威ある存在だと思い込み、神になりかわって教えているのだ、と思い上がっている。初期の手紙のテサロニケ①4:10,5:14の呼びかけは複数で言っているのに、ここでは1人称単数になり、パウロ個人が神をこの世で代表してるつもりになっている。

3節。新世界訳「自分のことを必要以上に考えてはなりません」。字義「思うべきことを越えて思ってはならない」。解釈として「自分を過大評価してはなりません」という訳が広まっているけど、パウロがこの表現で何を意味しているのかは分からない。解釈を訳に持ち込むべきではない。
新世界訳「健全な思いを抱けるような考え方をしなさい」。「健全な思い」の原語は、ギリシャの倫理思想の最重要概念のひとつで、死すべき人間がその則を越えて思い上がらない、という趣旨で用いられる。パウロは「思うべきことを越えて思う」の反対語としてこれを用いている。
パウロは3節で「思う」という語の単語遊びをやっている。名詞の「思い」は「横隔膜」のことで、ギリシャ人は横隔膜を人間の思いを司る内臓だと思っていた。

3節。新世界訳「神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ」。個々の信者が持つ「信仰」のことではない。神がある者には大きな信仰を、他の者には小さな信仰を与えることはない。パウロにとって、個々の信者の違いは彼らが成す働きであって、「信」はすべての信者に共通する事柄。なのでここは、信者として何をどのように考えるのが正しいかという物差しを、神がそれぞれ皆に同じ「尺度」を与えてくれた、という意味。

8節。新世界訳「惜しみなく(分け与え)」。この語に「惜しみなく」の意味はない(教会に寄付すること、と解釈したための訳)。この語は「純粋な心で」の意(慈善行為は見返りを期待せずに、ということ)。

9節。新世界訳「愛を偽善のないものにしなさい」。原文は「愛(主語)非偽善的(形容詞)」。表題として「愛は偽善的ではない」と宣言した後、この章の終わり(ないし14節)まで具体例を列挙している構文、とも考えられる。

11節。新世界訳「エホバ(主)に奴隷として仕えなさい」。パウロにとって神に仕えるのは根本的なこと。ここでは倫理、宗教実践などの諸項目の一つとして言われているので、ここの「主」は奴隷に対する主人とも考えられる。

13節。新世界訳「聖なる者たちと、その必要に応じて分け合いなさい。人をもてなすことに努めなさい」。パウロは、一般の貧しい人、ではなく、信者の中の貧しい人、に話を限定して書いている。パウロは内部のことしか考えない人だった。当時のキリスト教徒が貧しい人を助け寄留者の世話をした(基本のあり方)のは、クリスチャン相手に限られない。


13章。

1~7節。パウロは、国家権力、政治権力は絶対的な善であり、絶対的に従わなければならないと言っている。教会が国家権力との結びつきを自己弁護するために、この部分が引用されてきた。(王権神授説)
生まれながらローマの市民権を持っていたパウロは、ローマ帝国の権力を有難がっていた。

1節。新世界訳「相対的な」。教義による付け足しの語。付け足しなのに括弧もついてないというヒドイ訳。パウロの文がこのままじゃ都合が悪いからと、自分たちの教義を優先して勝手に改竄しちゃダメでしょ。

6節。新世界訳「彼らは、まさにこのために絶えず奉仕する神の公僕だからです」。直訳「彼らがこのことに固執するのは神の仕え手としてなのだ」。あなた方は彼らが税金に固執していると言うけど、それは神の仕え手としての責任を果たそうとしているからで、悪口を言ってはいけないよ、と諭している。

8節。前節で「税金を支配者に対して負っている」と言ったその「負う」という単語にひっかけて、ここで「愛以外の何ものも負うな」と、つながりのないことを並べて言うのがパウロの文章。愛以外負うなと言うのなら、国家権力者に尊敬(新世界訳では、誉れ)を負うわけにはいかないのに、パウロはその矛盾に気付かずヘタなレトリックを楽しんでいる。

13節。新世界訳「不義の関係」。原語の意味は、性行為のために床にはいること、ないし性行為そのもの。
14節。新世界訳「肉の欲望のために前もって計画するようであってはなりません」。直訳「肉の思いを満足させるために実行してはいけない」。「肉の思い」となるとすべての肉体的欲求(極端な禁欲主義)になるが、パウロはごりごりの性的禁欲主義者だから、実際は性欲のことだと思われる。


14章。

前回の記事をご覧くださいませ。(タイトル「すべての物は清いのです」)


聖書を、神の霊感を与えられた聖なる者が書いた神聖な本、という色眼鏡を外して、同じ人間が書いた普通の書物として読めば、解釈も随分違ったものになるんだろうな、とつくづく思う。
聖書って、書かれた初期から、色々な宗教的解釈が入り込んで、作り込まれてるみたいだし。確かに特異な本ではあるけれど、原本が残っているわけではないし、色んな解釈ができるし・・・どこまで真理として信じられるものなのか。
・・・ともかくも、この組織の聖書翻訳も解釈も、信じられないことだけは、確信できました。

すべての物は清いのです(ローマ14:20 新世界訳)

2019-03-04 | 聖書
田川氏の解説するパウロがとても興味深かったので、以下、また引用させていただきます。

新約聖書 訳と註(パウロ書簡2 p326~7)より。
ローマ14:20の「一切は清い」に関して。
______________

パウロは明瞭に第一コリントス書簡の議論を頭においている。よほどひっかかったのだろう。

第一コリントス10:23では「一切が許されている」と言っている。

どちらの表現も同じ問題に関する同じ意識の表現である。
そしてどちらも明瞭に、食べ物を仕分けして、この食べ物は宗教的に穢れている、と決めつけ、それによって自分の行動も他人の行動もうるさく管理、支配しようとする、そういったくだらぬ宗教的禁忌をきっぱりと拒絶する宣言である。

初期キリスト教が多くの人々に人気があったのは、その種のくだらぬ禁忌からの解放を鮮明に、きっぱりとした仕方でもたらしたからであろう。

古代人にとっては、どの民族でも、その種の宗教的禁忌がうじゃうじゃとこうるさくのしかかっていた。
その無意味さをずばっと指摘し、そこから解き放たれようと説いたのだから、当然、人気が高まる。
そしてその出発点にイエスが位置した。(マルコ7:15参照)

けれどもユダヤ人出身のキリスト教徒の多くは、ユダヤ教の伝統から十分に足を洗うことができず、むしろその種の禁忌をキリスト教の中にまで持ち込もうとする勢力も強かった。
そしてこれは単に食べ物の禁忌の問題ではなく、「異邦人」を穢れたものとみなすユダヤ人のあの嫌ったらしい民族至上主義がからんでいる。それを彼らはキリスト教の中にも持ち込んで持続しようとしたのである。

異教の神殿に捧げられた可能性のある肉(可能性というだけなら、「異邦人」の肉屋で売っている肉はすべてその可能性がある)をむきになって忌避しようとしたのもその一つである。

しかしパウロは頭がいいから、こういう時にただ単純素朴にごりごりのユダヤ主義を主張したりはしない。本当のところ食べ物に宗教的穢れなどということはありえない、ということもわかっている。
「一切は清い」のだ。

しかしそれならそうとおとなしく認めればいいのに、建前上はその基本原則を認めるような顔をしながら、実際には異邦人の肉屋の肉を忌避する姿勢を手放さない。(略)

そしてパウロはその矛盾をごまかすためにおためごかしの理屈を持ち出す。
食べ物の禁忌に固執しているのは「信仰に関して弱い者」である。あなた方はそういう「弱い者」のことを配慮してあげないといけない・・・。

しかし弱い者に対する配慮どころかパウロ自身が、偶像に供えられた肉を食べることは悪霊と交わることだ、そんなとんでもないことをやってはいけない、くわばらくわばら、と信じ込んでいるのだから(第一コリントス10:20)、パウロの本音がどこにあるかは、一目瞭然である。

そして、その本音を誤魔化しておためごかしの理屈で切り抜けようとすれば、人は説得力を失う。

パウロはコリントスの信者(多くはいわゆる異邦人)から強烈に批判されたことだろう。あなたはイエスの発言まで無視して、自分勝手なユダヤ主義を主張しようとしている・・・。

パウロの二つのコリントス書簡はその件及び類似のいくつかの件をめぐってパウロとコリントスの信者の間で生じた紛争の記録である。
痛いところを突かれて、素直にあやまればいいのに、逆に居直ってかりかりと理屈にならない理屈を並べて反論し、権威づくで相手を押さえつけようとする。

パウロがいかにかりかりしていたかは、二つのコリントス書簡、特に第二書簡を読むとよくわかるが、ローマ書簡はそれと同時並行ないしその直後に書かれた。だからパウロはその喧嘩のとばっちりをローマ書簡にも書き込んでしまったのである。

第一コリントス8-10章でもローマ14章でも、まったく同じ論理の運び(ないし論理にならない居直り)である。
どちらでもパウロは「一切は清い」という程度のことは俺だって知ってるよ、と宣言する。
どちらでもパウロは、そのせりふにすぐに続けて「しかし」とくる。「しかしやっぱり異教の神殿に捧げられた肉」を食べるのはよろしくない、と。

この「しかし」は、まったく説得力のない「しかし」であるが、居直りのせりふというのはまさにそういうものである。

パウロがローマ書で、つまりコリントスの信者たちと直接には何の関係もない未知の相手に、まったく同じ問題を同じ論法でくり返し扱っているのは、いかにパウロがコリントス論争にこだわっていたかをよく示している。
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以上、読みやすいよう、たくさん改行を入れさせていただきました。
田川氏は、パウロのこうした姿勢(建前と実際行動の乖離)を、霞ヶ関の官僚とそっくり、と書かれていましたが、自分は、ものみの塔の組織とそっくり~~、と思いました。
パウロ書簡を読んでそれを実践しようとすると、そうなっちゃうってことですかね・・・・・だとしたら、この組織は聖書的だと言えるのかなw。

聖書全体は神の霊感を受けたもの、とあるけど、特に新約に関してはアヤシイところだし、パウロがこういう人だったことを考えると、その内容もどれだけ受け入れて当てはめるか、ムズカシイところです。
でも、自分は創造者としての神の存在を信じてるし、聖書はやっぱり神からの手紙なのかなぁ、とも思うので、引き続きぼちぼちと学んでいこうと思ってます。



(追記)同上。p324~5より ローマ14:16に関して。
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(「良きもの」がキリスト教徒が得た「自由」を指すと解釈すれば)

・・・パウロはここではむしろ、食べ物や暦日の禁忌に固執しようとするユダヤ教の流れの信者たちのことを擁護しようとしている(彼らを蔑んではいけない、裁いてはいけない、彼らに障害物や躓きを与えてはいけない)。

従ってパウロがここで、禁忌からの自由を重んじようと言っている、と解するわけにはいかないのだ。

・・・禁忌に固執する「弱い」信者のことを批判する「強い」信者に対して、そういう批判をするな、と言っているのだから・・・

(「良きもの」がパウロの言う「福音」を指すと解釈すれば)

・・・パウロが言っているのは、食べ物に関する禁忌を犯したりしたら、それによって、あいつらのキリスト教は「冒瀆」を犯している、などと悪口を言われかねない。だからそういうことのないようにしよう、ということであろう。


議論のはじめの方では、食べ物の禁忌なぞどうでもいい、と言いながら、結論を言う段になると、それを守ろうとするユダヤ教的キリスト信者さんたちの立場を考えて、守ることに賛成してあげなさい、というのだ。
賛成してあげなさいどころか、最後は「肉は食わない方がいい」という断定的な結論にもっていく(21節)。パウロ的詭弁の最たるものである。

「どうでもいい」と言うのなら、「食っても食わなくてもどうでもいいのだから、それぞれが好きなようにやればいい」という結論しか出ないはずである。それを、「どうでもいいのだから、食うな」とつなげるのだから、自分で自分の理屈を無視した詭弁というしかあるまい。

「食うな」という結論を主張したいのなら、はじめから、これはどうでもいいことではなく、重要な問題なのだ(本当にそうかどうかは別として、パウロの思惑としては)、と言えばよろしかったのだ。

もっとも、そのように正直に本音を言ったら、「異邦人」信者から、パウロはやはりキリスト教をユダヤ教に引きもどすつもりか、という文句が出ただろう。それで無理をして両側を並べるから、こういう詭弁になる。

この箇所については、「良きもの」が何を指しているかについて、他にもさまざまな解釈があるところ・・・
訳としては、従って、なるべく解釈をまぜないように訳さないといけない。
・・・良いことがそしりの「種」にならないように、というのではなく、良いことそのものが冒瀆されないように、と言っている。
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ちなみに新世界訳の14:16は「それゆえ、自分の行なう良いことのために悪く言われるようなことがないようにしなさい」。田川訳は「だから、あなた方の良きものが冒瀆されるようなことがあってはならない」。

若い皆さん、充実した生き方をしてください

2019-03-01 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

1,2節を読んでまず、この経験話の嘘くささに呆れた。今時いる?日本にこんな若者。これって、1世ってことだよね。1世は自分に当てはめるだろうけど、肝心の2世(3世も増えてるのかな?)は自分には当てはめないよねぇ。2世のために、もっと現実に即した経験話、持ってこられなかったのかなぁ。これで若い2世が励まされるとは思えないよ。何のための研究記事なんだろ?・・・まぁ、日本人向けじゃないってことですね。

3節で確かに神は「若い成年の日にあなたの偉大な創造者を覚えよ」と勧めてるけど、その前に「若者よ、あなたの若い時を喜べ。若い成年の日にあなたの心があなたに良いことをするように。そして、あなたの心の道に、あなたの目の見る物事のうちに歩め」とも勧めておられるんですよ。で、道を踏み外すことが無いように「すべてのことに関して、まことの神があなたを裁かれることを知れ」と。だから、若いうちに神を知れと。これは、若者の人生を組織に縛り付けるための聖句じゃないです。

4節。戦闘の訓練、ちゃんとしてたと思います。でなきゃ、戦人だの戦闘隊形だの軍隊の装備だのっていう単語は出て来ないと思います。その軍事力に頼るな、ということですよね。なので、信仰だけで物事が解決するわけじゃないということです。・・・となると、軍事力だったのか、神の力だったのか、どっちともとれることになります。祈りが聞かれたのか、偶然だったのか、どっちともとれるのと同じです。案外そのあたりに信仰が関係してくるのかもしれませんね。エホバだわ~、サタンよ、みたいに。

5節。ダビデは飛び道具を持ってたわけですからね。相手が大きい方が当たる確率高いし有利だったでしょうね。まぁ、石投げによっぽど自信があったんでしょう。当たらなかったら逃げればいいんだし、きっと逃げ足も速かったんでしょうしね、武装してなかったしw。(解釈は自由ですw)

7節。「神を愛する人は神を信頼し、神の見方に倣います。神の導きを求め、神に従う決意をしています」
この組織に限らず、神を愛する人はみんなそうでしょ。ただ・・従う「決意」って変。「努力」ならわかる。

8~10節。良いと思います。ただし、「神」を「組織」と取り違えないようにすることが重要ポイントです。矯正も優先順位も賢い決定も、組織じゃなく、神によるものであるように。組織=神という脳みそでこれを読むと、全く違った結論になっちゃいます。あ、経験話はいりません。

11~13節。この組織の中で、本当の友なんてできません(前回のものみの塔記事で書いたように)。組織から離れた途端、縁を切られちゃうんじゃね。

14,15節。価値ある目標=組織に貢献すること、となりますね。組織の上層部がほくそえんでるのが目に浮かびますw。

16節。偶像礼拝。組織崇拝も立派な偶像礼拝。組織の中心にいるほど気付かなくなる。気付けなくなる。

17,18節。性的不道徳。何が含まれるかを細かい規則で縛って雁字搦めにする。一般常識と良心で判断すれば十分なのに。同性愛。これだって一般常識と良心で判断すればいいと思う。

いつも思うのですが、記事を読む時はまず、組織=神、組織の教え=神の教え、という脳みそ(思考回路)から離れることが必要ですね。そうすると、記事から見えてくるものが、全然違ったものになります。