<五月蠅い>と書いて<ウルサイ>と読む。
万葉の昔からうるさいと言う言葉はあったらしいが、五月蠅いと当て字をしたのは夏目漱石の創作?だそうだ。坪内逍遥という意見もある。
湿度が適当にあり、気温が上がってくるこの時期が蝿にとっては最活動期となるらしい。
日本とは多少気候の異なるポルトガルでも五月は蝿の大量発生期の様な気がする。
「蝿叩き」を買った。思えば27年の念願であったのかも知れない。かなり大袈裟。
初めてポルトガルを訪れたのが1987年。その旅の途上、どこの町かは忘れたが、露店市に立ち寄った。
素朴なプラスティック屋の屋台でこの蝿叩きを見つけた。
カラフルな色彩に何と蝿のデザイン。
面白いと思った。が買うことはしなかった。
その後、ポルトガルに住み始めて24年、毎週の様に近くの露店市を散策する。
露店市には生きた鶏、アヒル、兎、観賞用の小鳥、孔雀。飼料の稲藁。チーズやチョリソ、マフラのパン、菓子、練り飴、果物。帽子、衣類、靴、雑貨、陶器、台所用品、家具。大工道具類、古道具。カーテン生地、服地。野菜の種や苗、果樹と庭木苗、鉢植え、造花。大音響のCDとカセット屋。ミシン屋。ワイン用の樽、アグアデンテ(焼酎)造りの蒸留器具、養蜂道具、乗馬用品。それにファルチューラス(ドーナツ屋)と屋台食堂などおおよそ300ほどのテント店が立ち並ぶ。
そんな中でいつも2軒のプラスティック専門店が出ている。バケツ、たらい、ざる、塵取りと箒、植木鉢、ジョロ、タッパーなどカラフルな品物が、テントも売り台もなく地べたに並べてある。蝿叩きもある。27年前に「面白い!」と思ったにも拘らず、今まで買うことはなかった。
ポルトガルに住み始めて、お陰さまで蝿をうるさいと思ったことはない。
窓を開けっぱなしにしておいたなら、時たま大きな蝿が飛び込んでくることがあるが、別の窓を開けるとすぐさま出て行ってしまう。くるくる舞う小さな蝿もごくたまに侵入するが、知らない間にどこかに行って見えなくなる。ラードたっぷり、食欲をそそる濃厚な良い匂いのポルトガル料理の他家に比べれば、我が家の匂いではポルトガルの蝿は入るところを間違ってしまったと思うのかも知れない。
以前、マリーナのお屋敷に招待されたことがある。庭の一角でメルカドから買ってきたばかりの新鮮な魚の炭火焼。見晴しと言えば、これ程豪勢なところは他には考えられない。眼下にサンフィリッペ城とトロイア半島、そして大西洋。そもそも城を見下ろせるところなどそうそうある筈がない。しかもアラビダ国立公園の一角に位置し、東に目を転じればセトゥーバルの町並み。お屋敷内にプールもあるが、古い風車小屋があり、風車として今は使われていないものの、お母さんがコーヒーを飲む憩いの場所としているとか。風車の羽音がない代りに風鈴がからころと奏でる。これ程、贅沢な暮らしを僕は見たことがない。
でもマリーナにも悩みはあった。蝿が多いことである。確かに蝿が多かった。焼魚の骨をほぐす間にもひっきりなしに蝿がたかってくる。
近くに羊を飼う牧場があって、そこから飛んでくる蝿で、これだけはどうしょうもない。とマリーナはこぼしていた。
蝿叩きでは間に合わない。あれも確か五月であった。
同じセトゥーバルでも随分と違うと感心もした。
パリに住む知人で蝿ばかりを細密に描いている風変わりな画家がいるが、ダダイズム的発想なのだろう。でもパリにはあまり蝿がいなくて、モティーフに困るのだそうだ。蝿を求めていると聞いたが、彼も蝿そのものが好きなわけではないだろう。蝿を好きな人はそうそういない。第一ばい菌を運んでくる。
昔、僕が未だ子供の頃。大阪にも蝿が多かった。明治生まれの父はいろんな物を手作りしていた。狭い前庭には棕櫚の木が一本あって、その棕櫚の葉を使って、蝿叩きを作っていたのを覚えている。棕櫚の葉を短く切りそろえ、麻紐で繋いであっただけの簡単な物だったが、荒物屋で売られていた金網製の物よりは丈夫だった様に思う。1シーズン使えば秋には焚火で燃やすことになる。今流に言えばエコでもある。兎に角、父は一時もじっとしていない、いつも動き回って何かを作ったりしている人であった。
蝿も一時もじっとはしていない。止っている時でも、忙しく手を擦り合わせていたりする。その動作が縄をなう仕草に似ていることから蝿という文字になったのだそうだ。
僕も父のDNAを受け継いでいて、じっとしていなくて何かにつけ手作りするのは好きなほうだが、蝿叩きを作ってみようとは思わない。そして必要もない。必要もないのだが、昨日は買ってしまった。
露店市のプラスティック屋の地べたにいろんなものが雑多に並べられていて、1個1ユーロ、6個で5ユーロと書かれてある。たらい、洗面器、バケツ、タッパーなどと例の蝿叩きもある。
6色程あるカラフルな蝿叩きの、ポルトガル国旗カラーを3本選び出した。赤、緑、黄色である。アトリエの屑籠用にバケツを一つ買っても良いかなと思った。洗面器も予備に一つあってもよい。あと一つで6個。5ユーロである。
もう一つ、バケツを選んで5ユーロ札を払おうとすると、店のおばさんは蝿叩きをもう一つ選んでくれという。蝿叩きだけは2本で1個分だそうである。もう一つ、青色を選んだ。まだ5ユーロ分にはならない。おばさんは台所用洗い桶はいらないのかい?と勧めてくれたが今のところ間に合っている。仕方なくもう一つバケツを選んだ。バケツが大小3個。洗面器が1個。蝿叩きが4本。どっさりの買物になった。
バケツはレジ袋を被せてアトリエや寝室など各部屋の屑籠として収まった。
さて、蝿叩きは蝿を叩かないまま、たぶん五月をやり過ごし、当分は眺めておくことになるのかも知れない。
VIT