第一部 存在論的視座
『大乗起信論』 馬鳴菩薩? 六世紀 原文四十七ぺージ(岩波文庫)
東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握
『起信論』二つの特徴
一 思想の空間的構造化
二 思惟が、至る所で双面的・背反的、二岐分離的、に展開
思考展開の筋道は、至るところ、二岐に分かれ、ふたつの意味指向性の極のあいだを、思惟は微妙な振幅を描きながら進んでいく。
右に揺れ左に揺れ戻りつつ展開する思惟の流れに、人はしばしば路を見うしなう。要するに、一見単純な論理的構成にもかかわらず、『起信論』の思惟形態は、直線的ではないのだ。だから、このような思考展開の行き方を、もし我々が一方向的な直線に引き伸ばして読むとすれば、『起信論』の思想は自己の思想、ということにもなりかねないだろう。
*グレゴリー・J・ミルマン『ヴァンダルの王冠―国際金融帝国の敗退』、フェンテス『アウラ』
「真如」は二岐分離しつつ、別れた両側面は根元的平等無差別性に帰一するのである。
……思惟展開のこの強力な二岐分離的傾向は、『起信論』に使われている多くの(というより、ほとんどすべての)基本的術語、キーターム、の意味構造の双面性、背反性となつて結実する。
要するに、「真如」は二岐分離しつつ、別れた両側面は根元的平等無差別性に帰一するのである。
二つの相反する意味志向性の対立が、「真如」をめぐる思惟をして、逆方向に向かう二つの力の葛藤のダイナミックな磁場たらしめずにはおかないのだ。
意味志向性のこの二重構造に目隠しされることなく、それを超出して、事の真相を、存在論的、かつ価値符号的双面の「非同そのまま非異」性において、無矛盾的に、同時に見通すことのできる人、そういう超越的綜観的覚識をもつ人こそ、『起信論』の理想とする完璧な知の達人(いわゆる「悟達の人」)なのである。
限りない妄象現出の源泉(存在分節否定の立場)
「アラヤ識」和合識〈
「真如」の限りない自己顕現の始点(存在分節肯定の立場)
一に非ず異に非ず
一般に東洋哲学の伝統においては、形而上学は「コトバ以前」に窮極する。すなわち形而上学的思惟は、その極所に至って、実在性の、言語を超えた窮玄の境地に到達し、言語は本来の意味指示機能を喪失する。
いかに言語が無効であるとわかっていても、それをなんとか使って「コトバ以前」を言語的に定立し、この言詮不及の極限から翻って、言語の支配する全領域(=全存在世界)を射程に入れ、いわば頂点からどん底まで検索し、その全体を構造的に捉えなおすこと―そこにこそ形而上学の本旨が存する。
東洋哲学の諸伝統→形而上学的極所
「絶対」、「真(実在)」、「道」、「空」、「無」等々→『起信論』「仮名」(けみょう)→「真如」
プロティノスの「一者」という名もまた然り。(「仮名」)
*私の「惚けた遊び」もまた然り。
プロティノス
「どんな言葉を使ってみても、我々はいわばその外側を、むなしく駆け廻っているだけのことだ」
馬鳴菩薩
「言説の極、言に依りて言を遣るを謂うのみ」
「当に知るべし、一切の法は説く可からず、念ず可からず。故に「真如」となすなり」
「言真如亦無有相」
命名は意味分節行為である。
存在現出のこの根元的事態を、私は「意味分節・即・存在分節」という命題の形に要約する。
むしろそれは実在の決定的な次元転換を意味する。(次元転落という方が荘子の真意に近いか)
老荘の道
ウパニシャッドの名色論
イヴン・アラビーの存在一性論
無名無相、それは一切の「……である」という述語づけを受けつけない。
「名づけ」がものを、正式に、存在の場に呼び出すのだ。
私見(井筒)によれば、言語意味分節論は東洋哲学の精髄であって、いったんこれについて語りだせば止めどなくなってしまう恐れがある。
真如 離言真如と依言真如
第二部 存在論から意識論へ
与えられたテクストの言述の表層を解体し、その底に伏在している思想の深層構造を読み解くための、読みの方法論的テク二ークとして、『起信論』哲学を、そういう道筋(存在論から意識論へ、思想的中心軸を移すこと)で、組み立てなおしてみようとするだけのことなのである。
忽然念起、いつ、どこからともなく、これという理由もなしに、突如として吹き起る風のように、こころの深層にかすかな揺らぎが起り、「念」すなわちコトバの意味分節機能、が生起してくる、という。
「念」が起こる、間髪を入れず「しのぶのみだれかぎりしられ」ぬ意識の分節が起こる、間髪を入れず千々に乱れ散る存在の分節が起り、現象世界が繚乱と花ひらく。意識分節と存在分節との二重生起。
(『起信論』の)存在論は、どことなく人間的であり、主体的.・実存的であり、情意的ですらある。
心=意識→意味のズレを意図的に利用して、東洋哲学の世界における間文化的意味論の実験を試みる。
『起信論』本文に出てくる「心(しん)」の一語を、自由に「意識」と訳しながら……。
「意識」の超個的性格、超個人的・形而上学的意識一般、純粋叡智的覚体。
プロティノス的流出論体系の「ヌース」、アンリ・コルバンの創造的想像力、ユング心理学の集団的無意識等と同様に考える。
このような超個的、全一的、全包容的、な意識フィールドの拡がりこそ、『起信論』は術語的に「衆生心」と呼ぶ。
むしろこのホンヤク操作によって、「心」の意味領域を「意識」の意味領域に接触させ、両者のあいだに薫重関係を醸成しようとするのだ。
「薫重」は『起信論』でも重要な働きをする大乗仏教の基本的術語の一つ。要するに、「移り香」。
だがいつの日か、同様な試みが、もし巨大な規模で、自覚的・方法論的に行われることになれば、我々の言語アラヤ識は実に注目すべき汎文化性を帯びるに至るであろう。
中国→仏教典籍の漢訳
イスラーム→ギリシャ哲学の基本的典籍のアラビア語に翻訳
「三界(=全存在世界)は虚偽にして、唯心の所作なるのみ。」
「心、心を見ざれば、相として得べきなし」
「乃至、総じて説く、一切の衆生は分別するによって、皆相応せず。故に説いて空となすのみ。もし妄心を離るれば、実には空ずべき〔空も〕無し」
もし我々が分節意識の、存在単位切り出し作業を完全に止めてしまうならば、空ずべき何ものも、いや、「空」そのものすら、始めからそこには無いのだ。本来的には、空ずべき何ものも無い、いや、「空」そのものも無いという、まさにそのことが、ほかならぬ「空」なのである。
そもそも、「形而上的なるもの」の窮極処を「空」とか「無」とかいうような、現象的「有」の実在性を絶対的に否定する表現で把握するのが、東洋哲学一般に通ずる特徴的アブローチなのであるが……
「心真如」の中に、元型的あるいは形相的に潜在していたものが、現勢化する、それが「心真如」の自己分節にほかならない。
「空」「不空」という相対立し、相矛盾する二側面が、結局、本来的には、ただ一つの「心真如」自身の、自己矛盾的真相=深層にほかならないということ
「心真如」と「心生滅」とのこの特異な結合、両者のこの本然的相互転換、の場所を『起信論』は思想構造的に措定して、それを「アラヤ識」と呼ぶ。
唯識の立場では「アラヤ識」は千態万様の「心生滅」のみに関わるのに反し、『起信論』的「アラヤ識」は、「心真如」と「心生滅」との両方に跨ること。すなわち、唯識哲学においては、生々流転(「心生滅」)の在り方だけが問題なのであって、不生不滅(「心真如」)の実在性は問題とされない。
『起信論』の「アラヤ識」→「心真如」と「心生滅」の両領域にわたる→和合識→真妄和合
唯識哲学の「アラヤ識」→「妄識」
第三部 実存意識機能の内的メカニズム
「覚」「不覚」「始覚」「本覚」。これら四つのキータームが、互いに接近し、離反し、対立し、相克し、ついに融和する、力動的な意識の場、それが個的実存意識のメカニズムとして現象する「アラヤ識」の姿なのである。
理論的、いや、理念的に言えば、人は誰でも「自性清浄心」をもっている。それが、いわゆる現実界の紛々たる乱動のうちに見失われている。いかにすれば、本性の「清浄」性に復帰することができるか。これが『起信論』の宗教倫理思想の中心課題として提起される。
「根本不覚」(根元的「不覚」)
不覚<
「枝末不覚」(派生的「不覚」)
「真如」の真相を、全一的意識野において覚照する能力がないこと、それがすなわち「無明」=「根本不覚」なのである。
「枝末不覚」は、いま述べた、「真如」についての根本的無知の故に、「真如」の覚知の中に認識論的主・客(自・他)の区別・対立を混入し、そこに生起する現象的事象を心の外に実在する客観的世界と考え、それを心的主体が客体的対象として認識する、という形に構造化して把握する意識のあり方である。
『起信論』の「三細六麁」→「九相」論
個的実存の意識を「妄」界に巻きこんでいく「不覚」形成のプロセスを『起信論』は九の段階に分けて記述する。
「三細」とは三種の微細な、つまり、ほとんど気付かれないようなかすかな形で働く、深層意識的心機能を意味し、
「六麁」(ろくそ)とは六種の粗大な形を取って現われる表層意識的心機能のことである。
要するに、「アラヤ識」の「妄念」的機能フィールドは九つの段階的様相を持つということである。
「三細」 ㈠「業相」㈡「見相」㈢「現相」
「六麁」 ㈣「智相」㈤「相続相」㈥「執取相」㈦「計名字相」㈧「起業相」㈨「業繋苦相」
*なんということだ、この細分化は。
「忽然念起」。いつ、どこからともなく、唐突に、心の深みに何かが動く。「念」の起動。たちまちそこにものが生起する。ただ忽然と、ものが現われるのだ。何かが認識されるのではない。まだ主体も客体もない原初的状境だから、誰かが何かを意識するということはない。ただ何かが生起するだけ。主客未分、認識以前、前認識論的状態である。→業識
「五蘊集合」的物象化
「三界は虚僞」
「心、心を見ざれば、相として得べきなし」
未だどこににも、これといって特別の「名」が現われていない実存意識の茫漠たる情的・情緒的空間に、様々な名称を妄計して、それを様々に区劃し、そのひとつ一つを独立の情的単位に仕立て上げていく言語機能に支配される「アラヤ識」のあり方を「計名字相」という。
それを「妄念」と見るところの「不覚」論の立場では、ものに「名」をつける人間の言語行為は、「妄念」強化の要因でしかあり得ないのである。
「名」としてのコトバは膠着性、あるいは染着性、を一般的特徴とする。いったん「名」がつくと、現象的存在は本来の生々とした浮動性を失って、「名」としての語の意味形象の示唆する枠に膠着してしまう。いままで生気溢れる可塑性をもって自由に浮動していた存在の無限定性が奪い去られ、万物が動きのとれない意味枠に固着して、あたかも実在するものの如くに我々の意識を支配し始める。
「計名字相」は、命名についてのこのネガティブな見解を、特に実存的意識の情的、情緒的側面に、限定的に適用しようとするのである。
「名」与えられることによって言語的凝固体になる前の無記名的浮動性にあるかぎり、一般に情念はただ漠然とした気分のようなものであって、それにはそれほど恐るべき力はない(というのが『起信論』の見方である)。ところが「名」によって固定されて、特殊化され個別化され、言語的凝固体群となるとともに、情念は我々の実存意識に対して強烈な呪縛力を行使し始めるのだ、と考えるのである。情念のこのような言語的凝固体を、伝統的仏教の用語では「煩悩」という。
『起信論』によれば、我々普通人の実存様相は、たいていの場合「不覚」である。情念的生の渦に巻き込まれ、数限りない「煩悩」に取り押さえられて金縛りになっている人間が、実存的に「不覚」の状態にあることは、むしろ当然でなければならない。
「妄念」の所産に過ぎぬ妄象的存在界を純客観的に実存するものと思い込んでそれに執着し、そのために人が自己の本性を晦冥され、自己本然のあり方から逸脱して生きている――しかも、それに気づかずに――ということ。
忽然と「不覚」の自覚が生じて来ることがある。(「本覚」からの促しによって)
『起信論』によれば、「本覚」としての資格で機能する「覚」は、「不覚」の状態にある人々に向かって、絶えず呼びかけの信号を送り出し続けているからなのであって、もしたまたま、発信されたこの実存的信号が、心の琴線に触れることがあれば、自分の実存が「不覚」の状態に陥ちこんでいること、すなわち己が自己本然の姿を忘れて生きていること、に気づき、慄然として、自己のあるべき姿(=「覚」の状態)に戻ろうとする。それが、すなわち「始覚」なのである。
修行の全プロセスが「始覚」
「風に騒ぐ海」
「薫重の義とは、世間の衣服は実には香無きも、若し人、香を以って薫重すれば、即ち香気有るがごとく、此れもまた是くの如し。真如の淨法は、実には染なきも、但だ無明を以って薫重するが故に、即ち染相有り。無明の染法は、実には淨業無きも、但だ真如を以って薫重するが故に、即ち浄用有り。」(『大乗起信論』)
「染法薫重」・「浄法薫重」
「染法薫重」(下り)
第一段 「無明薫重」(己れを生み出す源となった「無明」に反作用して第二段に移っていく)
第二段 「妄心薫重」(「妄心」が反作用を起こして「無明」に「逆薫重」し、「無明」勢力増長させ、そのエネルギーが「妄境界」を生み出す)
第三段 「妄境界薫重」(「妄境界」の反作用で能生の「妄心」に「逆薫重」してそのエネルギーを増長させ、人間的主体を限りない「煩悩」の渦巻きの中に曳きずりこみ……)
「浄法薫重」(上り)
㈠ 「本薫」(実存主体、「妄心」は、己れが現に生きている生死流転の苦に気づき、それを厭い、一切の実存的苦を超脱した清浄な境地を求め始める)
㈡ 「新薫」(強烈な厭求心となつた「妄心」が、「真如」に「逆薫重」して、人をますます修行に駆り立て、ついに「無明」が完全に消滅するに至る)
「心源を覚するを以っての故に究竟覚と名づく」
悟りはただ一回だけの事件ではないのだ。
「究竟覚」という宗教的・倫理的理念に目覚めた個的実存は、こうして「不覚」と「覚」との不断の交代が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく。
この実存的円環運動こそ、いわゆる「輪廻転生」ということの、哲学的意味の深層なのではなかろうか、と思う。
あとがきに代えて(井筒豊子)
それができたとき、彼の実存意識の意味的網目組織磁場も円環閉止的に完成し内的に完了していたのではないだろうか。