惚けた遊び! 

タタタッ

抜粋 D・L・エヴェレット『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』 屋代通子訳 みすず書房

2017年03月01日 | 読書


 ピダハンの文化は、こうしたコミュニケーションを必要としていない。ピダハンの表現は大まかに言って、情報を求めるもの(質問)、新しい情報を明言するもの(宣言)、あるいは命令のうちのどれかだ。「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉はない。


 感謝の気持ちはあとから、返礼の品とか荷物運びの手伝いといった親切な行為の形で示される。


 アメリカ人は「ありがとう」と言いすぎる。(ブラジル人)


 ピダハンの若者からは、青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない。彼らは答えを探しているようには見えない。答はもうあるのだ。新たな疑問を投げかけられることもほとんどない。


答はもうあるのだ。


 直接体験の概念


 数とか勘定とは、直接体験とは別次元の普遍化のための技能だからだ。数や計算は定義からして抽象的なものだ。対象を一般化して分類するのだから。だが抽象化は実体ことだ。験を超え、体験の直接性という文化価値を侵すので、これは言語に現われることが禁じられるということだ。


 数とは、直接性を超えて事物を一般化するカテゴリーであり、使うことによってさらなる一般化をもたらし、多くの場合体験の直接性を損なうものだ。


 町へ出かけたとき彼らが最初に「川はどこだ?」と尋ねる理由がわかった。世界の中での自分の位置関係を知りたがっていたわけだ!


 それもわたしたちの経験と予測に照らし合わせて見ているのであって、実際にあるがままの姿で世界を見てとることはほとんど、いやまったくと言っていいほどないのである。


 リカージョン(再帰)は従来、文のある構成要素を同種の構成要素に入れ込む力と定義されている。


 ピダハンとプラグマティズムは、知識の価値はそれが真実であるかどうかでなく、有用であるかどうかにかかっているという点で共通している。


 わたしたちは誰しも、自分たちの育った文化が教えたやり方で世界を見る。


 言語学の最適手法は帰納法より演繹法だ。(チョムスキーの学風)


 ピダハンの精神生活がとても充実していて、幸福で満ち足りた生活を送っていることを見れば、彼らの価値観がひじょうに優れていることのひとつの例証足りうるだろう。


 わたしたちは生まれおちたそのときから、自分の身の回りをできるだけ単純化しようとする。
世界は騒音にあふれ、見るものが多すぎ、刺激が強すぎて、何に注意を払い、何は無視しても大丈夫であるか決めてしまわないことには、一歩すら踏み出せないほどだからだ。知の分野ではそうした単純化の試みを、「仮説」ないし「理論」と呼ぶ。
 

 彼らはわたしたちに考える機会をくれる―絶対的なるもののない人生、正義も神聖も罪もない世界がどんなところであろうかと。そこに見えてくる光景は魅力的だ。


 生存の技術




*二〇一七年二月二十八日抜粋終了

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