ダーウィンと花の意味
……ランの豊かさに気が狂いそうだった。……あるカタセダム属の華麗な花は、私が見てきた中で最も素晴らしいランだ。(ダーウィン・手紙)
カタセツム属(Catasetum)はラン科植物の1属。ラン科では珍しく花が単性で、雄花と雌花は全く形が異なる。(ウィキペディア)
植物は光に向かって成長するとき、ただ上向きに伸びるのではなく、光に向かってねじれ、らせんを描く。回旋運動は、植物の普遍的性質であり、植物に見られるほかのねじれ運動すべてに先行していた、とダーウィンは考えるようになった。
その機能に関する限り、幼根の先端ほどすばらしい構造は植物にはない。……幼根の先端は下等動物の脳のように働き……感覚器官から印象を受け取り、いくつかの運動を導いている……と言っても過言ではない。(ダーウィン)
ランは庭園や花束で見せびらかすための飾りではなく、素晴らしい仕掛けであり、自然の創意である自然選択が働いている実例であった。花に創造主は必要なく、偶然と選択の産物として、何億年にもわたる小さな斬新的変化の結果として、すべて理解できる。ダーウィンにとって、これが花の意味であり、あらゆる動植物の適応の意味であり、自然選択の意味であった。
そういう虫と花は一緒に、何千万年をかけて、ごくわずかづつ形作られていった。ミツバチもチョウもいない、香りも色もない世界という考えに、わたしは畏怖の念を抱いた。
そんな長大な時間の観念――そしてごく小さな目的のない変化が、積み重なることによって新しい世界、素晴らしく豊かで多様な世界を生み出すことのできる力――に、私はうっとりした。進化論は多くの人々に、神の計画を信じることでは決してかなわない、深遠な意義と満足を感じさせた。私たちの前に提示される世界の姿は奥が透けて見える単なる前景となり、その向こうには生命史が丸ごと全部見通せるようになった。
*世界は奥が透けて見える前景
変異を伴う継承(ダーウィンは元々進化をこう呼んだ)
スピード
ハンナ・アーレントが『精神の生活』(佐藤和夫訳、岩波書店)に書いた、「時間を超越した領域、完全な静寂に包まれた永遠なる存在、人間の時計も暦も及ばないところに横たわり……時間に追われ、時間にもまれる人間の生活における、いま現在の静けさ…………まさに時間の中心にある、この小さな時間のない空間」という文章を読んで、私には彼女の言っていることがよくわかった。
一九六〇年代、神経生理学者のベンジャミン・リベットは、単純な動作をする意思決定がどのようになされるかを調べていて、意思決定を示す脳の信号は、それが意識に上る数百ミリ秒前に検知されることを発見した。
コッホによれば、緊急時やスポーツ中(少なくとも選手が「ゾーン」に入ったと思うとき)に時間の流れが遅くなるように思える原因は、個々のコマの持続時間を縮めようとする強い集中力にあるのかもしれない。
二言三言や二歩三歩が途方もない時間続くような感覚のほか、世界の動きがひどくゆっくりになって、止まってしまうような感覚さえ生じるらしい。
この発作は一般的に、脳の側頭葉の痙攣作用に関連しており、患者によっては、側頭葉表面の特定のトリガーポイントを電気的に刺激することで誘発されることもある。そのような癲癇体験は、主観的に途方もなく長く続くとともに、形而上学的な意義に満ちている場合もある。ドストエフスキーはそのような発作について、次のように書いている。
ほんの数秒のことだが、永遠の調和の存在を感じる時がある。……恐ろしいことに、
それは驚くべき明快さで現われ、あなたを歓喜で満たす。……この五秒の間、私は
人間としての全存在を生き、そのためなら自分の人生をすべて差し出し、それでも
代償は高くないと思うだろう。
トゥレット患者はときに自分を「エネルギー過剰」と表現する。「内部に五〇〇馬力のエンジンを搭載しているようだ」と、私の患者のひとりは言っている。
カタトニアでも、動かない無感覚の状態から激しく動く非常に興奮した状態へ、劇的に一瞬で変化することがある。
脳炎後遺症患者の一人は、「私の空間、私たちの空間は、あなた方の空間とは全く違います」とよく言っていた。
知覚力――植物とミミズの精神生活
別の道――神経学者フロイト
精神分析の父としてのフロイトは誰もが知っているが、もともと神経学者であり解剖学者だった二〇年間(1876~96年まで)について知っていた人は比較的少ない。
したがつてフロイトに言わせれば、想起はそのような局所的なニューロンの痕跡(
現在長期増強と呼ばれるようなもの)を必要とするが、それをはるかに超えて、本質的に生涯にわたって変化や再組織を起こす動的プロセスである。記憶の力ほど、アイデンティティの形成にとって大事なものではなく、個人としての連続性を保障するものではない。しかし記憶は変化する。そして記憶がもつ再構築の潜在性、記憶は絶えず作り直され、修正されるという事実、実際にその本質は再カテゴリー化であるという事実に、フロイトほど敏感だった人はいない。
人の精神機構は層化のプロセスによって生まれたという仮定に、私は取り組んでいる。記憶痕跡の形で存在する素材はときどき、新しい状況に従って再配置――再転写――される。(フロイト)
したがって治療(精神神経症)の可能性、変化の可能性は、そのような「固着した」素材を今現在に復活させて、再転写の創造的プロセスを受けられるようにし、行き詰まった個人が再び成長して変われるようにできるかどうかにかかっている。
記憶が延々と構築され、再構築されることは一九三〇年代にフレデリック・バート
レットによって行われた実験研究の主要な結論だった。
記憶には単純で機械的な復元はない、とバートレットには思われた。
記憶の想起は、無数の固定して動かない断片的な痕跡の再興奮ではない。それは想像力による再構築、あるいは構築であり、整理された過去の反応や経験の活動全体に対する考え方と、一般にイメージや言語の形で現われる、やや目立つ細部の受け止め方の関係から作られる。したがって、最も初歩的な決まりきった要約の場合でさえ、ほんとうに正確なことはほとんどなく、本来重要であるべきなのに、まったく重要なものでもない。(バートレット)
神経細胞群選択説(ジェラルド・エーデルマン)
ニューロンについて自然選択がはたらいていて、その単位が、個々のニューロンではなく、ニューロン群であるとする考え方
そのモデルによると脳の中心的役割はまさに、最初は知覚の、次に概念の、カテゴリーを構築すること、どんどん高いレベルでの再カテゴリー化を繰り返していくことによって最終的に意識が達成される、上行性プロセスの「自動実行」だという。
ジェラルド・モーリス・エデルマン(Gerald Maurice Edelman、1929年7月1日 - 2014年5月17日)は、ニューヨーククイーンズ出身のアメリカ合衆国の生物学者。抗体分子の一次構造及び二次構造の解明により、1972年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。(ウィキペディア)
そして、事後性と「再カテゴリー化」がイコーㇽで結びつくこと自体に、ふたつの一見異なる世界――人間の意味の世界と自然科学の世界――がどうすれば一体になるか、そのヒントを見て取れるのかもしれない。
記憶は誤りやすい
一番目の記憶とは質が違っていて、誰かほかの人の経験からの盗用で、言葉による記述からイメージに変換されたのだという証拠があるはずだと、自分を納得させようとした。
クリプトムネシアの定義
ずっと忘れられていた記憶が新しい経験であるかのように再び現れる現象
出来事は極めて主観的に経験され、構築されるので、そもそも個人によって異なり、想起されるたびにちがうように再解釈され、再体験される。私たちにとって唯一の真実は物語的真実、私たちが互いや自分自身に話す物語、絶えず再分類し磨きをかける物語である。そのような主観性は記憶の本質そのものに組み込まれ、私たちが持つ脳内の記憶の基盤とメカニズムから得られる。
聞きまちがい
創造的自己
ミミクリーは事実に忠実で、できるだけ正確に再現しようとする試みだ。……。ミメーシスは通常ミミクリーとイミテーションの両方を、出来事や関係を再現し表現するというより高次な目的に組み入れる。
ピンターがやったように、読んだことを忘れ、無意識のなかへと落とし込んで、ほかの経験や思考と結びつけるための時間を取らなかったのが問題なのか?
ポアンカレが書いているように、問題が意識的思考から消えていて、心が空っぽだったり、ほかのことに気がそれている期間でさえ、無意識の(あるいは意識下の、または前意識の)能動的で真剣な活動があるにちがいないことは、明白に思われた。
完全に自動的ではなく、洞察力がある。……選び方、見抜き方を知っている。……意識的な自己が失敗したことを成功させるのだから、意識的に自己よりも見抜き方をよく知っているのだ。(ポアンカレ)
長年抱えてきた問題に対する解決策の突然の噴出は、夢の中で、あるいは人が眠りに落ちる直前や目覚めた直後に経験しがちな半覚醒状態のとき、起こることがある。そのようなときには、不思議と自由に思考したり、(ときにはほとんど幻覚のような)心像を描くことが出来るのだ。
ポアンカレの記録によると、ある夜この種のぼんやりした状態のあいだ、アイデアが気体の分子のように動いていて、衝突したり対になったり、かみ合ってもっと複雑なアイデアをつくったりするのが見えるように思われたという――ふつうは目に見えない創造的な無意識の眺めである。
創造性――いくつものアイデアがしっかりまとまって一本の激しい流れになり、みごとなまでに明快になり、意味が浮かび出てくると感じられるような状態――は、生理学的に特殊に思える。
なんとなく不調な感じ
突如として感得し予感した欣喜雀躍そのものなのだ。(二―チェ・信太訳)
意識の川
「思考の流れ」についての有名な章の中でジェイムズは、意識は本人にとってつねに連続していて、「切れ目も割れ目も境界もなく」、けっして「ばらばらに刻まれる」ことはないように思えることを強調している。
思考と意識の神経相関を構築する、ほとんど想像もつかないほど複雑なプロセスを明らかにすることは可能なのか? 私たちの脳内で、それぞれ一〇〇〇以上のシナプス結合をもつニューロン一〇〇〇億個あまりから、ほんの一瞬で、それぞれ一〇〇〇から一万ものニューロンからなるニューロン群またはニューロン連合が一〇〇万あまりも出現する、あるいは選択されるところをできることなら想像しなくてはならない。
いまでは、脳を柔軟性に欠ける、方式の固定した、コンピューターのようにプログラムされたものと考える代わりに、もつとはるかに生物学的で説得力のある「経験選択」という概念、つまり経験が文字通り脳の接続性と機能を(遺伝的、解剖学的、生理学的な制限の範囲内で)決定するという考え方がある。
エーデルマン『脳は空より広いか』
どんな独創的なものでも、まったく唐突に出現するパラダイムや概念はない。能のふるまいが集団性のものであるとする考え方は一九七〇年代に出現したばかりだが、二十五年前に重要な前例があった。ドナルド・ヘッブによる一九四九年の著名な本『行動の機構』である。
暗点――科学における忘却と無視
視覚にはいくつもの構成要素があって、視覚表現は光学的な像や写真のように「与えられ」るのではなく、さまざまなプロセスのきわめて複雑で込み入った相互関係によって構築される、という考えが展開され始めた。
一瞬だけ何かを理解する、何かを「つかむ」だけでは足りない。心がそれを収容し、とどめておくことができなくてはならない。最初の障壁は、新しい考えに遭遇したら、心にスペースというか、入る可能性のあるカテゴリーをつくれるかどうかであり、それからその考えをしっかりした意識にもち込み、、概念の形を与えて、たとえそれが既存の概念、信念、カテゴリーと矛盾しても、心の中に保つことである。この収容のプロセス、心にスベースをつくるプロセスは、考えや発見が根付いて結実するか、それとも忘れられ、衰え、跡形もなく消えてしまうか、そこをわけるうえできわめて重要である。
解 説
養老孟司
ダーウィンは若年の時にビーグル号で航海しただけで、あとは自宅にいわば引きこもり、一切の公職に就かなかった。
じつはヒトは物語としてしか、過去を叙述することは出来ない。
現代はその意味での壮大な物語が欠ける時代である。
さもなけむれば、バラバラの個々の事実がただひたすら積み重なり、収拾が付かない事態に陥っている。それを情報過多などと呼んで済ませている。そんなふうにも見える。
「想起はそのような局所的なニューロンの痕跡……を必要とするが、それをはるかに超えて、本質的に生涯にわたって変化や再組織を起こす動的プロセスである。」フロイド
しかしなにかを思い出すことは、新たに作り出すことでもある。
自分自身を動的な過程として捉えること
イギリス人の論文は面白いが、アメリカ人の論文は詰まらない。
アメリカ人なら、歴史より、現状のデータをコンピューターに入れるはずである。だから物語が消え、世界はだんだん面白くなくなるのに違いない。
*二〇一八年十二月六日抜粋終了。
…≫を、[ じつはヒトは物語としてしか、自然数を叙述することは出来ない。]で数の言葉が[コンコン物語]になるとか・・・
こんな記事見つける。
「愛のさざなみ」の本歌取り
[ i のさざなみ ]
この世にヒフミヨが本当にいるなら
〇に抱かれて△は点になる
ああ〇に△がただ一つ
ひとしくひとしくくちずけしてね
くり返すくり返すさざ波のように
〇が△をきらいになったら
静かに静かに点になってほしい
ああ〇に△がただ一つ
別れを思うと曲線ができる
くり返すくり返すさざ波のように
どのように点が離れていても
点のふるさとは〇 一つなの
ああ〇に△がただ一つ
いつでもいつでもヒフミヨしてね
くり返すくり返すさざ波のように
さざ波のように
[ヒフミヨ体上の離散関数の束は、[1](連接)である。]
(複素多様体上の正則函数の層は、連接である。)
数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺めると、[岡潔の連接定理]の風景が、多くの歌手がカバーしている「愛のさざなみ」に隠されていてそっと岡潔数学体験館で、謳いタイ・・・