
はじめに
出所:『情緒の力業』第七章瞑想的感応 序 言葉の交響
p.264~p266
p.264~p266
要するに、線条論理に対するこの直感的会得の道は、一般的に数量化できず、概念化できず、伝達し得ず、線条的な因果の段階を登って極められるものではない。むしろ、登ったり降りたりしながら、様々に結び付き、重なり、複雑なアラベスクを織り、渦雲状の塊を成すものである。
そして、たまたまやってくる経験の華は、その沈黙、忍耐、関心の集中によって甚振られた無数の言葉の交響の中から万の関係と万の依存が一瞬の内に形成し合う「情緒の力業」の巨大な子不ルギーによって花開くのである。そこから更に、瞑想的感応の広大な世界ヘー挙に全天空的な展開を始めるのである。
瞑想的感応そのものについては語れないがせめてそこに至るには無能な「Was」を捨てて、「Wie」の投網を投げよう。
そこで、この数ある「Wie」の一つとしての「引用」の効用について考えてみると、「引用」という技法は、普通は因果論的論理の線上をなぞるだけの追加、言い替え、根拠等として用いられている。
つまり、論旨の補完又は拠り所として線条性論理構築の一手段とされているのであり、それに奉仕するように組み込まれているのである。引用の動機としての「釈」とか「義」とかが行われるレベルが因果論のレベルで行われている限り、それは全て因果論の枠内という限界が初めから設定されているので、人為的で非創造的な行為とならざるを得ないのである。それは、自由な設定も、創造的な展開も、自然の顕現も当初から排除するように構造化されているのである。
引用の典型として空海の「十住心論」を考えた場合でも、そこに繰り広がる「綾なす引用文の連続運動」(山折哲雄)がはたして因果論的な顕教レベルを突破して密教レベルの言語観を達成しているかどうかは大いに疑問とするところである。要するに、「引用」という手法はどのように使おうと線条性論理の守衛どまりなのである。
そこで、我々は以下に羅列する無作為な言葉の響き合わせ(義)によって、このような引用とは異なるものを意図(博)してみよう。
というのも、これは前後左右、顕在的なものと潜在的なもの、上下、過去と未来……を縦横に駆け巡って関係と依存の再建、新しい構築を企てる「情緒の力業」を作動させるやも知れぬ不確かな技法なのである。
不確かというのは、これは一に当事者の沈黙、忍耐、関心の集中という能動的受容が行われるか否かにかかっており、当事者の構想の中のみに存在し、客観的な有り様をして誰にでも把握出来るというものではないのである。
それは、太古に、あるいは原初にそうであったように「それ」と我々とが不可分離の一体をなしていたように再構成し、「それ」と我々を融即的な直感的全体と成し、断片化し無機化していた対象を意味に溢れる有機化した全体とする技法である。
これは、あるいは終わりが無い単なる「惚けた遊び」かも知れない。
しかし、ここにきて最早これ以上語りようがないのである。さらば、哲学よ!
我々に残されたことは、「情緒の力業」を希求しつつ世界を読むこと、見ること、聴くこと、つまり人生の全てに、己を晒すこと。
そうして、成らざれば沈黙。
序 言葉の交響
誰が語ったのかは問題ではない。ともかく誰かが語ったのだ。
(ベケット)
その章句をとおして……ある観念または心象のまわりに
(ラム・ダス)
思考を走らせる助け
(エイゼンシュタイン)
あらゆるものを、できるだけ多くの感覚にさらすこと
(コメニウス)
あらゆる感覚を不羈奔放ならしめることによって、未知のものに到達する。
(ランボー)
私は目もくらむほどの体験に身をゆだねたいのだ
(ゲーテ)
わたしは考えてはならないのだ。何よりもまず感じ、そして見なければならないのだ。
(カルペンティエール)
……いわば小生は自己の内部と周囲とに、すばらしい、ただもう無限の対応を感じているのであります。そしてその相互に対応している物質のうちには、小生がそのなかへ流れこんでゆくことができないようなものは何一つないのです。そんなとき、小生には自分の肉体が、すべてを小生に解明してくれる暗号ばかりから成っているように思われますし、或いはわれわれが心臓で思考しはじめるならば、全存在との新しい、予感に満ちた関係に入ることができるのではないかというように思われます。
(ホフマンスタール)
いろいろな角度からの性格づけを無数に繰り返していく中でヴィジョンとして相手の本質がだんだん目に見えるものになってくる……
(高橋巌)
東洋の思考方法はその対象の中心を、輪を描いて回るものだ。さまざまな視点から見た単一の印象を重ねていき、多角的、つまり多次元の印象が形成される。
(マラ・ゴヴィンダ)
それゆえ、〈跳び〉は自由なもしくは方向づけられた連想の諸要素を結びつけることができ、秘儀受伝者の〈意識の拡大〉に関して、まったくおどろくべき結果をもたらし得る。〈跳び〉は精神の隠れた過程を明るみに出す。
(ショーレム)
このようなパノラマ的ないしヴィジョン論理は、巨大な観念のネットワークのなかで、観念が互いにどう影響し合い、どう関係し合っているかを把握する。
(K.ウィルバー)
日常意識の下で互いに複雑に縺れ合い絡み合いつつ混在するそれらの〈意味〉の発散する気の如きものが、我々の表層意識の認識機構に働きかけ、我々の原初的感覚体験のカオスを様々に区切り、それらの区切りの一つずつが、あるいは明確な、あるいは獏としたものという存在形象を生み出していく。
(井筒俊彦)
気が集まると、はっきり見えるようになり、形があらわれる。散ってしまうと、見えなくなり、形もなくなる。
(張横渠)
只管打坐とは緊張したり、せきたてられたり、弛緩したりせずに、意識を高度に集中した状態におくことである。
(安谷老師)
マントラは効果的であるゆえに秘密を必要とするのではなく、それに虚心に集中するという目的のゆえに秘密を要するのだ。
(ラム・ダス)
その時からずっと、わたしは、入ることを禁じられた扉と、《秘伝伝授者に留保されているもの》との存在に、不快な感じを抱かされているのだが、そこでわたしは、これ以上語ってはならない、ということを、特になぜそうしてはいけないのかということを、おのずと知った。多くの刃をもつ超人的な武器を人手に渡してしまうことはできないだろう。
(ミショー)
神秘学徒にとって特別の重要さをもつのは、他の人間の語る言葉に耳を傾ける仕方である。この修行のためには、自分自身の内なるものを完全に沈黙させる習慣をつける必要がある。……繰り返し、繰り返しあらゆる事柄の中の優れた部分に注意を向けること、そして批判的な判断をひかえること。……自分の判断を差し控えて、その事柄全体について、心の中でも、外に向かっても、まったく確実な判断の根拠が得られるまで
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