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暗号について

2016年04月14日 | 哲学


   暗号について

東洋大学 昭和四十一年度卒業論文
文学部哲学科 高野 義博

指導教授主査 飯島教授
指導教授副査 園田教授




目 次

第一章 序に変えて私の状況の非学問的回想
第二章 『哲学』の構造連関
一 まえがき
二 本論
1 哲学への序説
(1)存在の探求
(2)可能的実存にもとづく哲学するはたらき
(3)分節化の原理としての超越するはたらきの諸様態
(4)哲学するはたらきの諸領域の概観
2 哲学的世界定位
(1)世界論
(2)科学批判
(イ)世界定位の諸限界
(ロ)完結的世界定位
(3)哲学論
3 実存開明
(1)実存について
(2)交わりと歴史性の内なる私自身
(イ)自我自身
(ロ)交わり
(ハ)歴史性
(3)自由としての自己存在
(イ)意志
(ロ)自由
(4)状況・意識・行為の内なる無制約性としての実存
(イ)限界状況
(ロ)絶対的意識
(ハ)無制約的行為
(5)主観性と客観性とにおける実存
4 形而上学
(1)形式的超越
(イ)対照的なるもの一般の諸範疇における超越
(ロ)現実の諸範疇における超越
(ハ)自由の諸範疇における超越
(2)超越者への実存的諸関係
(3)暗号文字の解読
(イ)暗号の本質
(ロ)諸々の暗号の世界
(ハ)暗号文字の思弁的解読
(ニ)超越者の決定的暗号としての現存在と実存の消滅(難破における存在)
a実際の難破の多様な意味
b難破と永遠化
c実現と非実現
d難破の必然性の解義
e難破における存在の暗号
第三章 展開的考察
第四章 ヤスパースの『哲学』に対する私の態度

参考資料
一 ヤスパースの著作
二 関係著作
三 雑誌
四 その他





第一章 序に変えて私の状況の非学問的回想

「そもそも《哲学すること》が始まって以来、いつでも確実性の獲得が試みられてきたのである。」(注1)

ここに言う《哲学すること》は過去の哲学史の中にもあるし、哲学史に現われでない所の非学的な段階での人間性の持つ本質的な行為でもある。この行為の経験は人様々であって、幼児・少年期にもありえるのである。それは「僕はいつも、僕は他の人と同じ者であるんじゃないだろうかと考えてみるんだが、しかしやはりついに僕は僕なんだ」……(注2)という驚きであり、「初めの前には一体何があったのか」(注3)というような問いであったり、
「世界内のある事物が問題なのか、それとも存在と私共の現存在との全体が問題なのか」(注4)というような問いの相違の理解であったり、あるいは又「万物が必滅無常である」(注5)ということに対する驚きと怖れであったりするのである。

このような《哲学すること》が人間にとって根源的であるという事実は見逃すわけにはいかないことである。

そしてこの《哲学すること》の根源にある「驚きから問いと認識が生まれ、認識されたものに対する疑いから批判的吟味と明晰な確実性が生まれ、人間が受けた衝撃的動揺と自己喪失の意識から自己自身に対する問いが生まれる」(注6)のである。

驚愕・恐怖・疑問の中におかれた人間は必然的に《哲学すること》を始め、問いの究極的安心を求めるのである。
つまり《哲学すること》は《哲学すること》によって《哲学すること》を拒否する行為なのであり、それは「確実性の獲得」をもって成就されるのである。
 このような確実性の獲得の要求が私に如何にして起きてきたか、あるいはそれがどのような色合いの下に、どのようなニュアンスの上に成立してきたか、そのような成立事情を訪ねて、以下に私の過去を概略してみよう。

ここでは過去そのものの内容を知ることが目的ではなく、(といっても、それは把握出来ぬものではあろうが)過去においてそれらの問題がいかなる状態、いかなる感じを持っていたかが重要なのであり、単なる背景としてのみ必要なのである。このような要請から、この概略は多分に私の主観的なものであり、多分に文学的修辞であり、明晰さは皆無であろう。それらは、ただ私にとってのみ重要な事柄である。


ある事件が十三才の時、校庭で起きた。
秋始めのある晴れた日、私は昼食後の満腹感で校庭を歩きはじめた。他の中学生達は既に校庭で遊んでいた。すると急に、風の音と彼らの遊び声が、ボリュームを落とし、あたりが静まり、私は白いワイシャツが風に揺れているさまを見続けていた。
それは風の強い日の旗のように、バタバタと音をたてていた。その衣服の白さとバタバタという音だけに、私の意識は集中した。その時、ひどい孤独と共に私は叫んだ。―ああ! 彼らも人間だ、と。
その白さ、バタバタという音は、私の意識に、他人としてそこに「ある」という感じを、叩きつけた。


その色と音とは今も私の中にある。しかし、他人はそこに「ある」のであるが、それがどのように私に関係しているのか、どういう具合にしてそれはあるのか……等という疑問符をつけられたままの形で、存在している。
その時から、私にとって他人は一つの謎のままである。
私に立ち向かってくるもの、対象、私以外のもの、客観存在、それらが問題として誕生したのである。

しかし、この謎の発生する因となった「白いワイシャツ」の経験は二十二歳頃まで、忘れられていた。偶然目に触れた次の文章が、私に先の経験を想起させたのである。

「彼はあたりを見まわした。すると自分自身の他に何ひとつ見えなかった。そこで彼は始めて叫んだ。―私がいる! と。……それから彼は不安になった。ひとりきりでいると不安になるからだ。」 ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド (注7)

この新たな経験が私を仏教、それも禅へ目を向かわせたと同時に、実存哲学へ(というのもこれがボヘンスキーの『現代のヨーロッパ哲学』という書物の実存哲学の部の初めに象徴的に引用されていたからである)向かわせた一要素であった。
この経験による主観・客観の分裂の図式は、私に様々な事をなした。時々刻々の時間の重さであり、あるいは、対象のつまり世界の重さであり、「私が押し潰される」という感じであり、その時には、私はどこへ行っても呼吸困難のような息苦しさを感じ、対象物のあるところに、極度の恐怖と苛立ちを感じた。

ある時には、それらの苦悩がヒステリックになり、「苦悩こそただ一の高貴」(注8)という感じを持ったりしたのである。

高校生活も終わって、私は一つの懐疑に取り付かれていた。高校では電気に関する初歩的な知識を学んだわけであるが、それは客観性の要求ということであった。

万事万象が客観性によって見られ、客観性に乏しいものは、極度の嫌悪を持って退けられた。諸々の権威や伝来の道徳、あるいは政治、……それらのものが客観性の目、つまり合理性の目によって見られ、私の眼光はそれらのものを突き破った。
しかもその合理性は私の主観に対しても、向かったのであるが、私の主観の内には、客観性によっては把握しえぬものが、つまり「特殊なるもの」が残ってしまった。

一般性と特殊性の対立が現れはじめたのである。

一般的なものとしての科学的なものや、諸々の権威、および伝来の道徳が私に向かってくる場合、私の内なる一般的なものはそれを肯定するのであるが、私の特殊的なものが、それに対して叫びを発するのであった。一般的なものが、私を圧しつぶすという感じであり、息苦しくて、自由が感じられなかった。

一挙手一投足が、それら一般的なものの絶対的命令としてmustで立ち向かってくるのであった。そのmustが私を規制し、見張りを付けられたかのように私は私の行為に、のびやかさがないことを発見したのでもある。

その頃は、カントの定言的命令を誤解していたようであった。このような東京での生活の他に、私は自然というものがあった。それは東京近辺の山歩きであった。しかもその自然も、永遠的なものではなく、単なる一時の慰めであった。そこに永住することは、私には解答とは思われなかった。知人には、そういう人もあったが。
私にはそのような、慰めを与えてくれる自然は一つの謎のままであった。ボードレールの次の詩のように……


自然は神の宮にして、生ある柱
時をりに 捉へがたなき言葉を洩らす。
人、象徴の森を経て 此処を過ぎ行き
森、なつかしき眼相(まなざし)に 人を眺む。

長き反響の 遠方に混らふに似て、
奥深き 暗き ひとつの統一(とをいつ) の
夜のごと光明のごと 広大無辺の中に
馨と 色と 物の音と かたみに答ふ。(注9)


形而上学的と言われるような問いが、私の中に起きてきたのは大学入学の頃であった。つまり「私は何に興味を持っているのか」、「私は何がやりたいのか」、「私とは何か」、「世界とは何か」……というような問いである。

しかしこの問いには、すぐ破綻がきた。つまり主語・述語関係による解答には、常に残る何物かがあり、はみ出る何物かがあり、永久に答えが答えきれないという事情である。

それは万事万象の生成性の確認であった。

そのような中で私の聴講態度は、知れていた。授業はうすら寒いことをやっていた。ドイツ語等さらさら興味など持っていなかったし、それは私の精神をむしばむ害虫か何かのように思っていた。興味を憶えたのは、西教授の「禅学特講」であり、プロチノス、実存哲学関係位なものであった。日々これ、読書、女、アルバイト、放浪であった。しかもそれの全てが否定的で、ガタガタで秩序なく、混乱して目に映じ、私はきちがいであり、世界はカオスであった。行動は一秒も静止をきらい、何物かに追いかけられているかのようにそこを飛び立ち、電車の中を歩くような状態であった。様々な放浪の様式が展開し、ぎごちなさと性急さと突発性が主たる性格であった。それらの事を擬音で表すと、ギリギリ、ガチガチ、ギ―である。行為が一直線になされるのではなく、「あれか、これか」の判断あるいは決断がつかないために一定所に痙攣を起こしてふるえているしか、仕方がなかったのである。全て行為に先立って、その結果が予測されて、その行為から明るいものをはぎとり、色あせたものにしてしまうのであった。優柔不断―これこそあの当時の私の性格でもあった。そして決断の重さが、私を圧しつぶしていた。

私の知識で把握し得ない不合理なものの存在、悟性に拠って到達できない物自体、不合理なものが直接には把握しえぬこと、つまり言葉によっては理解しえぬこと、この辺が、問題になっていたのである。

この問題に対して取り組んでいた私は、その不合理なものの暴力に、たたきつけられてしまっていたのである。私は当時、その不合理なものに対する態度決定をせまられていたゆえに「あれか、これか」の途上で決断が出来ずに身震いしていたのである。

上段構えか、下段構えか、あるいは八方破れの構えか、このような態度の仕方を希求していた私に、キルケゴールのように必然的なものとしてのキリスト教に対する態度がそうであったような必然的な構えは、何もなかった。儒教も仏教あるいは禅も、西洋流の神も、エキュピリアンも、神道も禁欲主義も……何もかも一切、必然的なものとして、私が受け取らなければならないというようなものはなかった。それらは態度の学びとして評価の対象としては存在し、且つ又、私はそれらの中をさまよっていたのでもある。そして全ての人生に対する態度に学びたいという程、その態度の決定を望んでいたのである。この開けた態度、あるいは反面、ニヒリズムの「あれも、これも」の途上における無決定性、自分の知の為に奉仕する奴隷、全て不確実であると言い放つ自我の舞踏家。傲慢と謙虚が同居していた私。探求と放棄の同居。結句、私にとってそれらの思想や主義としての知識は何事も私に起こさなかった。全てが知の喜びとしてのみ通り過ぎていった。知識ではない。行為である。しかもそれは、まったく非論理的なものである。

思考的な手続きを踏んで人は行為に赴くものであろうか。私の場合には合理的ではなかった。しかし不可思議な行為はその現実性の持つ意味の重大さによって、全ての論理的、思考的なものを爆破させるとは言えるのではなかろうか。

それらの知識と混乱は、今から考えるに自我の最期の(あるいは単に前の前の前段階であるのかもしれない)あがきであった。

「死して成れ」というゲーテの言葉、あるいは「人間って奴は十字架にかけられて生命を一度失ってしまうと心が花のように開くものなのだ」(注10)というヘンリー・ミラーの言葉が意味するような死を前にしての恐怖のあがきであったのかもしれない。なぜなら私はその当時一つの十字架にかけられていたのであるから。そして自らその十字架を背にした十三歳の秋から、私は別の世界に住んでいるのであるから。

世界に調和と秩序が回復し、かのヴェルレーヌの詩


空は屋根の彼方で
あんなに青く、あんなに静かに、
樹は屋根の彼方で
枝を揺るがす。

鐘は、あすこの空で、
やさしく鳴る。
鳥はあすこの樹で
悲しく歌ふ。

ああ神様、これが人生です。
卑ましく静かです。
あの平和の物音は
街から来ます。 (注11)


のような静けさが手に入ったのである。

それは究極的な否定的行為に対する解答として与えられた。私はこの静かさを突然手にしていたのである。それはあたかも突然の死のように、突然の生であった。あたかもさずかりもののように、贈り物のように手に入ったのである。「求めよ、されば与えられん」ではなく、「捨て去れ!されば与えられん」であった。

今私はこのような経験をした後でただ「世界はある」、「私はある」、「貴方もある」といい、そしてヤスパースのように「存在がある」とも言えるのであり、そして0=∞、この数式0=∞を論理的なもので分析説明することは出来ない。それは確信なのかもしれない。

このことに触れるのは他の機会に譲ることにする。 確実性の獲得は私の場合、知識的な放浪という様式となったのであり、そこからは成就されなかった。ただ、ある時突然それが成就されたのである。

以上で、私の確実性の獲得の一大悲喜劇は、一応完了した。私は地上のパラダイスに住んでいるのであり、何もいまさらヤスパースの哲学をくどくどと、たどたどしく書く必要もないのであるが、卒業論文を五十枚書かないと卒業させないという規則だそうだから、五十枚になるまで筆を進めようという次第である。であるから、ここから以下の文章は読まない方が宜しいでしょう。

ヤスパースの『哲学』三巻を、五日間で、五十枚位に縮めようというのであるから、ヤスパースさんがこれを知ったら、まあ、そのような事もないでしょうが、あの縮まりつつある顔が益々縮まってしまうでしょう。枚数だけ数えて、次の仕事に移られた方が、これを読まれる方の心のためにも良いでしょうし、これを勧めることがまた筆者としての義務でもあると心得るものであります。


 (以下略)


卒論後に起きた事ども

飯島宗享『気分の哲学』への引用





高野義博『情緒の力業』の執筆









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『気分の哲学』飯島宗享著



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