惚けた遊び! 

タタタッ

卒論ブログ投稿を終えて

2016年04月15日 | 哲学
卒論ブログ投稿を終えて
2011年08月03日

【再掲】


平成21年4月10日
高野 義博




1.執筆時の状況

 投稿を終えて、どこから書き始めたものだろう……と、悩むより、ここは卒業論文の主題からということが宜しいのであろう。
それなら、あの「中学校の校庭」からということになろう。

私は、千葉市栄町に銀行員の父母の下に、昭和16年に誕生した。父は、キッツァクと言われる千葉の田舎の10代も続く名主の家(祖父の雅号は白鹿洞寿仙という)の末子に生まれ、当時としては、当たり前に新宅を作って故郷を離れ、いろいろあって千葉市に住まうようになっていた。
その栄町の家は、昭和20年の千葉の大空襲によって灰塵と化し、その折、私は異母兄に背負われて、見渡す限り真っ赤な空の下、父の実家に逃げ延びたのであった。
その後、昭和22,23年頃、香取飛行場南面の国道脇の八軒町というところに、父が実家から材木を譲り受けて二階家を作った。そこが、私が少年時代をすごす家になったのである。

そこから、豊畑小学校、豊畑中学校に9年間通うことになったのであるが、戦後の経済の復興期で食うものも無く、昼の弁当抜きは再々であった。まわりは大半が百姓の少年達だから、皆白いご飯をたらふく食べていたが。

その頃には、父は、今で言う、<起業家>で、家族5人が食うために何でもした。ポップコーンの爆弾屋とか、粟・ヒワのおこし屋とか、カリントウ屋とか、せんべい屋とか、パン屋とか、米の担ぎ屋とか、不動産屋とか、不発に終わったブロック屋とか……手当たり次第であった。そんな父の夢の残骸の看板―黄金の地に黒々と「旭電業社」と書かれていたものが、長いこと廊下の床下に投げ捨てられていたものである。

そのような折、「中学校の校庭」で、あの事件が起きたのである。

「或る事件が十三才の時、校庭で起きた。
 秋始めのある晴れた日、私は昼食後の満腹感で校庭を歩きはじめた。他の中学生達は既に校庭で遊んでいた。すると急に、風の音と彼らの遊び声が、ボリュームを落とし、あたりが静まり、私は白いワイシャツが風に揺れているさまを見続けていた。それは風の強い日の旗のように、バタバタと音をたてていた。その衣服の白さとバタバタという音だけに、私の意識は集中した。その時、ひどい孤独と共に私は叫んだ。――ああ! 彼らも人間だ、と。
その白さ、バタバタという音は、私の意識に、他人としてそこに「ある」という感じを、叩きつけた。」

その後、私は貧窮の極みで地元の高等学校に進学できず、東京・自由が丘のいとこのご亭主が営んでいる模型屋に住み込みで働くことになり、夜は新宿駅西口近くにあった夜間高校の電気科に通うことになった。昼はメグロのオートバイで蔵前まで商品の仕入れに走り、夜は大正時代の教材モーターで電磁事象を学ぶという生活になり、あの事件はすっかり忘れ去られていった。

高校生活終りの頃には、私は、売店で買った新聞を片手に、行き交う人々の群れを避けて誰も座っていない駅のベンチに腰を落とすのが日課になっていた。すぐ求人欄を覗き込み、「さて、今日はどこへ行こうか」と思案し始めるのであった。日課とはいえ、十八歳の身には心重いひとときである。中学卒業時の当初の目論見とは違って、夜間高校の電気課卒業では、大都会にこれと言えるほどの仕事もない現実を突きつけられて、途方にくれていた日々であった。

その頃であった、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読み、日記「雑感雑記」を大学ノートに50冊ほど書きながら、突破口を見つけたく人生の煩悶に身悶えていたのであった。また、その頃だった。フランスの天才少年詩人ランボーの行跡を知ったのは……。

少年ランボーは、詩を書き続けるために「年金」を手に入れることを考えたのだ。その末に、アフリカへ渡り密輸商人になってひと山当てることを目論んだが、壊疽か何かになって朽ち果てたのだ。更に、友人の影響で左翼思想の一端に触れ、ユートピアを夢見たりしていた。

四年生高校を卒業の時点では、就職先もなく、取立ての縁故もなく、師と仰ぐ人も無しに路頭に迷うという生活であったので、このままアルバイト生活を続けるのに恐怖が募るばかりであった。そういう状況で、「人生とは何ぞや」とか「私とは何か」とかという疑問が自然に湧き出してきたのであった。

ここから問題の転換――就職から疑問の解決――が起き、「哲学」を学ぼうということに展開したのであった。とはいえ、中学時代は地元の高校進学が出来ないということで勉強はそっちのけで野球にのめっていたし、高校は夜間の電気科で丹沢山塊の単独行での尾根歩きに明け暮れていて、アドバイスを受けられる人は誰も居らず、いわゆる大学受験の準備は出来ていなかった。学力も知力も低く金も無く、大学入学は独りよがりの途方もない課題であった。

ようよう潜り込んだ大学での生活も、勉学は二の次で、食うためのアルバイトに明け暮れ、そのうえ無謀にも女性を妊娠させてしまい、卒業式の翌4月には出産ということになっていたのである。その頃のアルバイトは、新橋にあった銀座大飯店でのウェイターであったが、夜中の2、3時に自転車で皇居脇を走り、白山の下宿に帰るのであったが、不審者として警官の職務質問に遇ったり、過労が溜まって洗面器イッパイの喀血をしたりしていた。

そんな生活の中で、このたびは高校卒業のときとは違って、子どもの誕生という逃げおおせない現実が迫ってきており、なんとしてでも卒業だけはしなければならないということになってしまった。
夜中のアルバイトのためではないが、出席日数と試験の点数の悪いラテン語は、直接教授の自宅に押しかけ、事情を説明し、及第点をいただくようなことまでしたし、50枚以上の卒業論文提出についても逃げおおせないこととして取り組むことになった。

大学での聴講は、実存哲学、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語、サンスクリット語、科学哲学、仏教哲学、特に禅学特講を受講した。クラスメイトは不思議なことに年齢が十歳くらい離れている面々であったし、「哲学研究会」には全国から異様な人物が集まってきていた。高下駄、羽織袴、ひげもじゃ、精神分裂者、大企業の姫、その後の自殺者等々、一気に世の中を見る視野を拡大されたのである。

難渋の上、締め切り間近の1月10日、身重の女性に清書してもらい、卒業論文「暗号について」(4百字詰め原稿用紙102枚)が完成したのであった。



2.25歳の文章

このたびの読み直しで、まず驚いたことは「誤字」「脱字」が多いことであった。それは、教養も学力も非常に低いことによるのであろう。単に時間が無かったのではないだろう。
また、改行も不自然である。論理展開がどうなされていたのだろうか? 文脈が途切れ、断片の羅列という事態であった。指導教授の書き込みに「?」が多く、故人となられた教授に申し訳なかったし、恥ずかしい限りである。

この度のブログ投稿に際して、改行を挿入し、明らかな誤字の訂正を行い、不適切な言い回しを一部修正した。25歳の文章とはこんな程度のものなのか、時に煌きもあるが、総じて知能程度の低い若書きの文章ということであろう。そのような文章をあえて公開したのは、一にそこに私の<社会的営為>の淵源があるためである。

つまり、卒業論文「暗号について」は、25歳の文章としては稚拙の限りであるが、意義があるとすれば、その後の私の人生を左右した生涯のテーマの出現があったということであろう。
このとき、人は、<叫ぶ>のだ! というテーマである。
特に、第4章の終了の仕方<ここに至って、何をか言わんや……>は単なる蛇足とは言えないほど特徴的であると考えるがどうであろうか。というのも、その後の私の著作において繰り返されるパターンが、ここに現れていたのである。

平成7年哲学書『情緒の力業』の最終章は、壮大な実験、<惚けた遊び>全体でパターンの繰り返しを行っている。
平成12年経済書『人様のお金』PDF155枚の最終部分は、<今はただ、笑而不答、笑而不答。>の一行で終わっている。

これはいったいなんだろう。
論理の拒否、断念、「言葉と経験はズレてるのが建前(たてまえ)」(飯島宗享『気分の哲学』 p.25)故の回避行動であろうか。喋れない、喋りたくない、無言の内に閉じこもる、つまり不立文字、言葉を使わないというステージに立ち入ったということなのだろう。



3.主題の湧出

「彼はあたりを見まわした。すると自分自身の他に何ひとつ見えなかった。そこで彼は始めて叫んだ。――私がいる! と。……それから彼は不安になった。ひとりきりでいると不安になるからだ。」ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド 、という文章に触れて、忘れ去られていたあの事件が22歳のときに蘇ってきたのである。
 それから、夢中になってこのテーマの追求が始まり、卒業論文を書くにあたってはこれが主題になったのである。これをヤスパースの暗号になぞらえて、論文構成を考えたのであった。



4.執筆後の状況

卒業論文を提出し、ラテン語もようよう及第点をいただき、いよいよ卒業という時点で、高校卒業のときと同様、またしても東京で仕事は見つからない状態に陥っていた。ただ、前回と違ってこのたびは子どもが生まれてくるのだから、緊急を要した場面で、やむなく父の紹介で親戚筋が経営している福山市の築炉会社、溶鉱炉の炉を築く会社に行くことになった。

1月ほどしてから、千葉から父と妻と、そして誕生したばかりの長女の3人が福山駅にやってきて、父から「ほら、お前ンだ!」と言って長女を渡されたときに、私の命運は定まったのであろう。食うための仕事が始まった。

結局、その会社は2年ほどで辞め、東京に舞い戻り、紆余曲折の末、昭和44年10月、横浜の運送会社に就職し、その会社の厚生年金基金で「年金」の仕事を30年ほどすることになったのである。

一方、哲学の方では、思わぬ展開が昭和45年3月に起こっていたのである。というのも、先の私の卒業論文の一部(あの事件の件)が、卒業論文指導教授の著作、飯島宗享著『気分の哲学―失われた想像力を求めて』毎日新聞社 昭和45年3月発行 に引用されていたのである。

「……だけどね、そのときの光景をまざまざと記憶している人も、案外、たくさんいるらしくて、いつだったか学生の卒業論文を見ていたら、そのなかの一人が、この経験について実に鮮明な印象を記している一説があったんで、論文そのものはみんな学生に返したけど、その箇所だけは写しをとって、しまっといたんだ。どこか、そこらにあるはずだから、見てみよう。……これですがね、そう、いい機会だから、披露しておこう。こういう文章なんだ――」同書

 「このことは、著者にとって卒論に記述された私的な問題であったものが、公刊、公開されたことによって社会的営為となったため、更に深くこの問題を問いつめることを不可避としたのである。その追求は三十代を貫いて六百三十枚の『述語は永遠に……』となったのであるが、」 針生清人『情緒の力業』ブックレビュー東洋大学校友会報 188号

 「概念ならざるものによる探求」同書 は、その後、平成7年に哲学書『情緒の力業』(400字詰め原稿用紙553枚)近代文藝社出版 となったのである。

 指導教授に献呈を捧げた『情緒の力業』は出版されたが、その後再販の話はないので、少しも売れないままであろう。売れるような本ではないし、売れないのはかまわないのだが、ただ一点、なによりも筆者にとって嬉しいことが生じたのである。

それは、同校の文学部教授針生さんが『情緒の力業』ブックレビューを書いてくれたことである。このレビューひとつで、私のこの本に対する営為は全て満たされたのである。全ての余事は他事である。

「途上にあるもの」同書 として、その後の私の営為が位置づけられるのであろうが、「年金」関係の仕事は下記の通り一段落した。

平成09年 旅行記「童女のようにはしゃいだギリシャ旅行記」(A4×6枚)脱稿
平成11年 調査記録「401(k)の百聞は一見に如かず」(A4×19枚)脱稿
平成12年 経済書「人様のお金」(A4×155枚)脱稿
平成12年 経済書「厚生年金基金 事務長奮闘記」(A4×134枚)脱稿
平成16年 実用書「年金生活への第一歩」(A4×82枚)脱稿
平成19年 雑誌記事「年金履歴書の作成による請求もれ年金発見の仕方」(B5×13枚)ビジネスガイド掲載
平成20年 雑誌記事「企業年金の記録漏れ問題・不払い問題 具体的解決策は何か?」(B5×5枚)ビジネスガイド掲載

 今はただ、昔、書いたものを読み返している段階であり、このブログ投稿もその一環である。このたびの投稿で、「暗号について」、「述語は永遠に……」、『情緒の力業』等で追求されている主題は確認できたのであるが、67歳になった今、私の主題の延長線上に言葉を超えるものを書くという選択肢もあろうし、まったく書かないという選択肢もあろう。また、まったく選択しないという選択肢もあろう。……どうなることやら



                                                                
以上




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