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志学元年の経験

2016年04月29日 | 哲学

 一般に、我々は孔子の言うように「十有五にして学に志す」と言われている。
 自ら意識的に学び始めるというこの志学の年、十五歳説は前後二、三年のズレはあっても客観的な事実として現代の実証的な心理学者もつとに認めているところである。

 これに関して、W・ジェイムズは次のように言っている。
 我々は、「普通十四歳から十七歳までに」「自分は未完成であり不完全であるという感じ、思案、意気阻喪、病的な内省、罪悪感、来世に対する不安、懐疑の悲しみ」等々の強い印象を残す経験をする、と。

 また、E・ミンコフスキーは、これを次のように述べている。「思春期は、それまでまどろんでいた力の荒々しい目覚めによって、単に幼少年期から成年期への移行期であるだけでなく、われわれの前に一つの生、つまりわれわれの生の展望を開きながら、われわれのうちでの〈人間〉の目覚めの時期ともなっている」のであると。つまり、俗に反抗期とか自意識の誕生とか言われるこの経験は少年期特有の経験なのである。

 この経験は外部世界の不意の登場によってもたらされる、という点に特徴がある。
 というのも、それまで〈見て見ず〉であった事象を誕生以来初めて意識を伴って、〈それ〉として〈そこ〉に見始めるのである。この新たな目、つまり意識を伴った目で万事万象を見始めることを指して、孔子は〈志学〉と言ったものと思われるのである。

 ところで、昔から、このような特異な経験をする端境期の少年を対象にして地上のあらゆる地方に、その土地特有の大人の仲間入りを儀式化した入会式・イニシエィションが数多く執り行われているし行われていた。
 これは、この時期の少年のこの特有な経験に注目し、それを日常的な事件にしてしまわないため特異性を更に展開するために儀式化し、そこに教育的な配慮をこめた先人の知恵の成果なのである。

 しかし現代では、この儀式は影が薄くなり村落や共同体の導きは無くなり、先達は呆けてしまい、少年達は自ら一人一人が試行錯誤を繰り返しながら孤立した環境のなかで学びとって行かなければならないような状況に放り出されているのである。



出所―平成七年 哲学書『情緒の力業』(四百字詰め原稿用紙五五三枚)近代文藝社 

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