国際的なピアノコンクールには、毎年多くの日本人がラインナップされますが、審査員たちは彼らの演奏を全部聴く必要などないといいます。みんな同じで個性がないからです。
大半の日本人の演奏が大量生産的なものであることは否定できない。(江藤俊哉)
高度にコントロールされ、画一化された音楽教育が、突出した才能を生み出す機会を妨げている。(園田高弘)
(アメリカでは)ソルフェージュという音の聴き取りや新曲を歌う訓練を始める時期も専門課程に進んでから行う場合がほとんどである。日本人が六、七歳、場合によってはそれ以下の幼児期から始めるのに比べると大きな違いだ。
「心がないんだ、ありゃ機械じゃないかと、並み居る審査員の顰蹙を買うばかり。演奏者に教養のひとかけらもない、とクソミソにやられて大恥をかいた」(園田高弘)
絶対音感とは、一オクターブを十二に分けた周波数幅のカテゴリーに音名というラベルが貼られることだが、
音の高さは基本周波数に一対一で対応するわけではないのだ。
知覚研究では周波数を物理量、音の高さ(ピッチ)を心理量と呼び、研究者たちは区別して用いている。
「ロゴスとしての言葉は、すでに分節され秩序化されている事物にラベルを貼りつけるだけのものではなく、その正反対に名づけることによって異なるものを一つのカテゴリーにとりあつめ、世界を有意味化する根源的な存在喚起力としてとらえられていた」(丸山圭三郎)
絶対音感訓練プログラム 一音会ミュージックスクール 一九六六年 江口寿子 江口メソッド
『子供のためのハーモニー聴音』(柴田南雄) 四十冊
現在の音楽大学を始めとする専門教育機関や過去四百万人以上の卒業生を送り出しているヤマハ音楽教室など町の音楽教室も、この固定ド唱法を採用している。
それに対して、文部省主導の義務教育における音楽は世界中の、原則として、現在に至るまで固定ド唱法ではなく移動ド唱法を採用している。
専門教育ではドレミを音名とする固定ド唱法が行われ、義務教育ではドレミを階名とする移動ド唱法が行われている。
音階とは何か。
そもそも人間は、この世のあらゆる周波数の音の中から音楽を生み出すために、音の高さを階段状に分けた。人間という種に固有な生得的な制約にプラスして、その文化が作る制約の中で生み出された音の階段を音階と呼んでいる。
人間の生得的な制約とは、古代ギリシアのピタゴラスの時代から知られていた、周波数比率が二対一のオクターブと三対二の完全五度、四対三の完全四度の関係をいう。これは、……一部の民族楽器をのぞき、世界中の音楽に共通する音程関係である。
音律とは何か。
音律とは、その音階を作るための音程関係を数学的に規定したもので、各音の絶対的な音高ではなく、音と音の間の周波数の相対的な関係を現わしている。
この音律によって楽器の音高を決定することを調律と言い、平均律とは、一オクターブを十二等分してつくった、今日の西洋音楽で最も一般的に用いられる音律である。
ピタゴラス音律
ピアノによって絶対音感を身につけた人々の大半は、この十二平均律、一オクターブを十二等分した一〇〇セントごとに、ドレミファ……という音名をラベリングした人々なのである。
絶対音感の二つの問題点、つまり、四四〇ヘルツの基準音の記憶があるために、四四一ヘルツになっただけで音程が狂っているように感ずることと、平均律で出来た絶対音感があるために純正律の微妙な音程が理解できないことは一見、矛盾することのように思われる。かたや、微妙な音程差がわかり、かたや、それに鈍感になっていると受け取れるからである。
音楽家自身も、絶対音感とは実は何のことかよくわからないと思っている場合が非常に多いのである。
絶対音感とはある一定の周波数で頻繁に刺激を与えつづけることによって、シナプスに長期増強作用が起こり、特定の音高が音名という言葉と共に記憶されることだった。
絶対音感しかないという人を想像してみるとどうだろう。つまり音と音を関係性で把握できない人だ。
いかに脳がカテゴライズされていようとも、それは意識し、努力することによって取り払うことができないほどの強固なものではないこと。
世界は広いのです。一つの決まったヘルツや音階でセッティングされてずっと勉強してしまうのではなく、もつと幅を持った国際的な教育が必要なのではないでしょうか。(千住真理)
僕は、絶対音感は絶対に必要なものだとは絶対に思いません。(大友直人)
つまり、音色、強弱、もっと音楽の本質的な問題である音と音のつながりや流れを判断する能力と絶対音感は完璧にと言っていいほど別なものです。(大友直人)
世の中は時間的にダイナミックに変わりますが、めちゃくちゃに瞬時に変わるわけではなく、なめらかに変わって行く。(柏野牧夫)
聴覚系はダイナミックな非線形系なのです。(柏野牧夫)
知覚の基本原理である冗長性
音楽は、ただ音楽というだけ。音符の集まり。美しい音がいろんな形で組み合わさり、それを聴く僕たちを楽しませてくれるもの。ただそれだけなんです。(バーンスタイン)
音響という物理現象が情動という心理現象に移る(平賀譲)
大友直人は、オーケストラは日々感動するほど不思議だという。一人ひとりが正確にリズムを刻み、正しい音を出す。一人が全力でその音楽に集中すると、全員の波長があってくる。もはや指揮者の手に合わせてという次元ではない。全員で一つの流れができると、最高の快感だった。神様が見えた、などと口にする人も出てくる。
歌謡曲も研究対象だった。森進一や都はるみ、沢田研二らがあるフレーズを歌うとき。何かを訴えかけるように聴こえるのはなぜか。心をぐっと押されるように感ずるのはなぜか。(五嶋)節は、それがテクニックの一つではないかと考え、その理由を一日中考えた。
みんな同じことだった。
「芸術は人間のヒストリー、特に音楽は人間の全身から湧き出てくるものですからね」(五嶋みどり)
部屋の隅で一番先に寝ていた兵隊が、突然叫んだ。
――おかあちゃん。
すると、緊張の糸が切れたように、部屋中の兵隊たちが声をあげて泣き出した。おかあちゃん、
おかあちゃん……。おかあちゃんに会いたい、早く帰りたい。考えているのはみんな同じことだった。(五嶋節の父親)
パステルナークにとって音楽の挫折とは、自分を縛り付けていた絶対という観念からの脱皮だった。作曲家になることを断念した瞬間から、彼の中の音楽は自由になった。音は言葉となり、
心の襞という襞からはじけてほとばしり出て行った。彼にとって詩作とはまさに作曲だった。
音とは結局、人と人の間の空間をどれだけ大きく揺るがすことができるかという超能力のようなもの。
だが、絶対音感という言葉が纏った幻想の衣を一枚一枚引き剥がした後に残ったものは、どんな科学的方法によっても永遠に解明されることはない絶対的な才能への、あくなき憧憬だったのではないだろうか。
*平成三十年四月十九日抜粋終了。
*結局、絶対音感とは何なのか、さっぱり解からないで終わった。
*音楽界の裏事情を覗いたということに尽きるかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます