このように状況に適応することを課題とする、そのためにモデルを求めてそれに適応することを課題とするというのが日本型システムであれば、このようなシステムのあり方こそが「改革」を必要とするのではないか。なぜなら、現状適応能力だけに頼るなら、現状の変化のたびごとに右顧左眄を繰り返す以外にないからであり、これがまさしく九〇年代の「失われた一〇年」であった。
*理念の確立こそ求められる。
おそらく正鵠を射ているのはケインズの言葉である。すなわち「血気」の衰退であり、それをケインズは、将来の期待に関わる心理の状態すなわち「確信」の問題として提示した。
バブルの崩壊後、改革運動とは慣行の破壊のことであった。
要するに、この間行ってきたことは、ますます増大する不確実性の下で、確かであったはずの基盤を次々と削ぎ落とすことであった。この結果、企業も家計もそして金融機関も将来を見通す手掛かりを失い、全くの頼りなさの中に投げこまれることになる。
それは「無条件、無制限、遠慮会釈のなさ」をその行動の原理とする。このような資本主義を作り出したのが、まさしくヨーロッパ近代の「拘束」から抜け出したアメリカ人の精神生活であり、そこにあるのは子供の気分、植民者の気分、技術的人間の気分というものである。これがゾンバルトの見解であった。
これに対して、内部労働市場とは異なるもう一つの制度化された雇用システムがある。それが職業別労働市場であり、それは個々の企業の外部に組織化された職業訓練と技能資格の制度化から成り立っている。つまり、個人は当該の仕事に関して、それに必要な技能の保有者として雇われる。このような職業別労働市場を最も強く組織化したのが、ドイツの雇用システムであり、工場の技能者から銀行の出納係まで、職業ごとに公式の教育訓練機関が制度化される。その修了者には技能資格が認定され、その上で資格保有者として雇われる。
要するに雇用保障の観念を、日本の内部労働市場は企業を単位として制度化し、ドイツの職業別労働市場は職業を単位として制度化する。
これに対して、アメリカの専門職の雇用システムは、個人の業績に応じて雇用が決まり報酬が決まるという意味で、文字通り個人主義的なシステムと見なすことができる。個人主義を標榜することにより、雇用保障の観念は完全に否定されると言ってもよい。
すなわち一方での大量の雇用破壊と、他方でのそれを上回る雇用創出であり、これによってアメリカ経済は超完全雇用の状態にある。
いずれにせよ内部労働市場の領域は縮小され、一方での低賃金の外部労働市場と、他方での高賃金の専門職の雇用とに分極化する。これが現在のアメリカの雇用システムであれば、現象としては、外部労働市場の意味での雇用の流動化と専門職の意味での雇用の流動化の双方が進むことになる。ここから流動型の雇用がアメリカのシステムであるといった印象が広がることになる。しかしそれは、定着型の雇用システムの破壊の結果でもあるということを見逃すべきではない。ここからの帰結は、内部労働市場が生み出した中間層の没落となる。
市場の競争と淘汰のメカニズムそのものがグローバル資本主義のガバナンスとなる。この意味で地球規模での市場のガバナンス、すなわち地球規模での「市場主義」の成立が、グローバル資本主義だということになる。
すなわち、経営者企業の「見える手」をもって市場を組織化する、政府の「見える手」をもつて市場に介入する、これが経営者資本主義であれば、この二つの「見える手」を否定するのがグローバル市場に他ならない。
このとき経営者企業を襲うのは、財とサービスのグローバル市場の「大競争」であり、それは競争と淘汰の「見えざる手」となって現われる。すなわち地球規模での技術と価格の競争が、経営者企業の「見える手」を無効とする。この意味で日本の経営者企業だけではなく、すべての国の経営者企業は、グローバル市場の「見えざる手」にどのように対応するのかが問われている。
いずれにせよ政府の退場を迫るのがグローバル市場の声となる。
情報技術革新の「大競争」の原動力となるのがアメリカのベンチャー企業であれば、その「大競争」に勝ち残るべく、既存の組織の再編あるいは再構築に先行しているのがアメリカの経営者企業でもある。あるいは価格の「大競争」に生き残るべく、コスト削減のための激しいリストラに邁進しているのがアメリカの経営者企業でもある。さらに私的個人の営利追及の自由と自己責任を、市場と言うより社会の原理として掲げるのがアメリカの資本主義であり、同じく資本利益の最大化が現在のアメリカ企業のコーポレイトガバナンスであることも間違いない。
雇用した労働者の内部訓練と内部昇進を制度化する内部労働市場の形成において、日本とアメリカの経営者企業は類似する。と同時に、二つの間には決定的な違いがある。すなわちアメリカの経営者企業は、内部労働市場と切り離して専門職の雇用を組織化した。それは個人の業績に基づいて雇用が決まり報酬が決まるという意味で、言葉の本来の意味での業績主義と市場原理に基づく雇用と見なされる。
*社員→非正規社員の体系から非正規社員(専門職)→社員の体系への移行
雇用と設備と債務の過剰が日本企業の低収益の原因であり、ゆえにそれぞれの徹底したリストラが不可欠である。それを実行できるのは外部から登場した経営者であるのに対して、日本企業は依然として経営者の内部昇進に汲々とし、そのため組織の再編や事業の再構築はいまだ不徹底のものでしかない。これが日本の経営者企業に向けられた批判の全てであるようだ。
*ROE意識の醸成が急務であろう。
グローバル資本主義あるいは市場原理の資本主義を組み込めば組み込むほど、「セーフティネットの政府」の範囲は拡大する。グローバリズムを唱え、国境をなくせと叫ぶことの結果、皮肉なことに、政府の範囲の拡大を見ることになるのである。
おそらくこの混乱は、市場の競争と淘汰を唱える一方でその救済を叫ぶことにある。あるいは市場原理を唱える一方でセーフティネットを持ち出すことにある。このような混乱から抜け出るためには、淘汰と救済の二分法から抜け出ることが必要であり、そのためには経済を構成するさまざまな制度や組織や慣行の中でセーフティが確保されるということの正確な認識が必要である。それは日本型システムだけではなく、すべての国のシステムはそのように自らを形づくっている。これが要するに資本主義システムをガバナンスすることにほかならない。
あとがき
それは市民によって政府と大企業がコントロールされてのことではない。市場が政府と大企業をコントロールする、市場が資本主義をガバナンスする、これが今日の「変貌する資本主義」の姿となる。かくして自由放任の「終焉の終焉」といった気分が全ての国の資本主義を覆うことになる。
*二〇一八年十二月八日抜粋終了。
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