私たちのちいさいころは 塾なんかというものは なかった。進学率もさほど高くないから
小学校を卒業すると たいてい 都会に出て丁稚になったり 子守や女中になったり
紡績に行ったりして、せっせと家に仕送りをした。だから地方は 子供たちの仕送り経済で
持っているという状態である。
私たちは中学にかよう予定の子たちは夜先生の家に勉強しに行った。中学受験生のための
蛍雪時代という問題集があって これ一冊完璧にこなすことが 日常となっていた。
先生の家まで 一里くらいはあっただろう。街燈なんかないから 懐中電灯 もって
たいてい の悪天候を覗いて毎晩通っていた。
先生の家までの中間点に 枝振りのいい松ノ木があった。あるとき おじさんが
其の松ノ木の枝で首吊り自殺した。
「おい 今日も先生の家に行くか。ゆかんとしかられるじゃろ。」
恐る恐るその松ノ木の下に差し掛かったとき 山の上からすなが流れ落ちてきた。
みんな 一目散に逃げて帰った。
ほかの者は自宅に帰ったが、わたしはサボったとわかったときの 母親のかおが
めにうつって帰える気になれない。時間が来るまで友達の家においてもらって
時間になって 知らん顔して帰った。母は「何か縫い物をしていた。全くいつもの変わらなかった
た。「ばれていないらしい。」
翌日のことであった。いつものとおり先生のところに行く時間が来た。出かけようとしたとき
「待ちなさい。きょうから行かんでもよか。」「そこで人が死んだからといって 恐がるようじゃ
ほんとに勉強をしたいものの考えることじゃなか。これを書いて役場にもっていきなさい。」
書類を見ると「満蒙開拓義勇団」の申込書であった、。
覚悟決めて翌日役場に提出した。」
どこからニュースが入ったのか 満蒙開拓義勇団の書類は担任の先生のところに回っていた。
退任の先生が母親に手を突いて考えしてくれと頼んだ。さすがにあわてて母親も態度を変えてくれた。
あのとき 満蒙開拓牛団に入っていたら シベリヤ抑留で生死もわからなくなっていたであろう。
今風の母親とはちょっと違うようだ。