わたしは 40年 私立の高等学校に勤務させてもらった。生徒や先輩。上司に恵まれ
とても有意義な生活を 毎日 送らせてもらった。中途就職だ。一般の会社からはいって
みると 学校というところは 全く異色なところである。大學卒業して学校に入職した時点で
先生と言われるのだから お茶くみから鍛えられた 私には まごつくことが多かった。
もっとも,教頭も証券会社からの転身組であるか、校長も小学校の教員から 廣島 京都
大學を得て 旧制専門学校理学部の教授であるから ちょっと学校の雰囲気は違う。
最初 驚いたのは 朝礼のとき 国旗掲揚が行なわれることだ。当時は占領軍の施政か
にあって よく 黙って許しておいたものだということと やかましい日教組の先生たちも
文句一つ言わなかったのか。将に校長の経歴と人徳によるものだろう。
空襲で 徹底的に破壊された 街の復興は大変だった。当時は私立学校は国から
補助金を受けることを 嫌い避けていた。教育について 国家の干渉を避けるためである。
本来教育は聡有るべきものと思う。それぞれに建学の趣旨というものがあって 其の柱の元で
生徒指導が行われた。しかし、戦後 国は私立学校に対して 採用幅を拡張してくれるように
依頼してきた。これが私学助成の始まりである。
方々に散らばっていた 生徒たちも学校に帰ってきた。特にベビーブームの生徒たちが入学
してくるときなどは 一学級80人もの詰め込み教育だ。生徒総数も4000名を越した。
昭和30年初めて修学旅行で生徒を引率した。初めて東京のすさまじい廃墟振りを見て驚いた。
上野の小山から銀座まで見通せるというのにも驚いた。
当時、男子生徒を担任していたが まったくの無地帯のようなものだった。荒れ果てた学校
を立て直すのは大変だ。軍隊から帰って間もないから 気合は入っている。当時は
陸士・海兵出身者が多かった。生徒たちより猛者出なければいけない。
しかし、悪でも向き合って話せば解ってくれた。
『先生 ここいくら磨いても 光らんよ。』
「なぜだ。」『材料が杉板だもの。』
『そういう風に決め付けて 逃げる気持ちになるから お前たちに 身嗅がせているいるんだ。』
其の子達ももう75を過ぎた。
当時 散々苦労して 教育の再見に取り組んできた 同士も一人 また一人と消えていく。
「教育の結果は50年も先の話だからなあ。」 ある先生の教育法を非難されたとき
其の先生をかばった教頭の名言を思い起こす。