人の一生 運任せだけじゃ駄目。

2014-07-22 21:22:13 | 日記

石の上にも三年。とか桃栗三年柿八年。どんな仕事についても 我慢が大事だよ。

そういわれて、集団就職して よしここで頑張ろうと したところ 最初に指示されたのは

社長の御めかけとの連絡員だった。あまりの馬鹿馬鹿しさに 一旦はやめようと

決心したが、石の上にも三年を思い出して 踏みとどまった。

三年目がやってきた。この年予期せぬことが起こった。会社が不渡り出したのである。

会社も自然退職寸志をもらってふるさとに帰ってきた。

アルバイトみたいなところで働いていたが、何しろおめかけさんの連絡員まで勤めたもの

年季が入っている。そこの組合職員に採用された。

組合運動に熱中して やがて組合推薦で市会議員に当選した。

人当たりはいいし、面倒見がいい。主義主張がしっかりしている。

ついに与野党の新を受けて 市会議長職に就いた。

高校受験を前にして 彼は原因不明の病にかかった。外科手術では市内随一

といわれる病院で 快復手術をした。しかし、その結果 担当医はもう手の施しようも

有りません。後はこのまま 閉じて経過を見ます。といわれた。

兄から緊急の電話が入った。急遽病院に駆けつけると 兄が真っ青な顔して

[駄目らしいよ。」と涙なかした。

そんなはずはない。死ぬや巻いたぜったら別の病院で検査してもらいましょうということで

大學病院に依頼した。

驚くべきことだった。教授から異常はないですよ。という診断を得た。

一体なんだったのか。

成績が悪いと 兄がしかりつけるとけろっとして[末広がりじゃ。

末広がりじゃ。ふざけていたそのこは もう70才になろうとしている。


いじめっ子

2014-07-22 11:19:29 | 日記

「お母さん へんな おじさんが 話しかけてきたよ。」

母親は照れくさそうに 私のほうを向いて お辞儀をしている。

私が何と言った。

ただ 「お母さんとお遊びか いいね。」と言っただけなのに

人を見たら 誘拐犯人と思え。そこまで言わなければならなくなった現代社会

「病気だね。

「俺がか・・・・」「誰から・・・・」「いじめられた・・・・」

「そうか???????」

「何だ。気がつかなかったのか。」「疎なことがあったのか・・・」

「お前のことだぞ・・・・」

[俺   鈍感なのか」「そうだ。お前は鈍感もどんかん。」


最高・道徳の授業

2014-07-22 07:41:53 | 日記

時は戦前、世間は戦意高揚の時代である。当時の中学の、少なくとも私が通った学校はそんな中あっても

自由な学校であった。公立学校では会ったが、生徒たちはほとんど のびのびと 思い切り青春を謳歌した。

道徳の時間が毎週1時間設けられていたが、この授業は校長が一年生全員を講堂に集めての授業だ。

中味は 今議会でやかましい道徳教育委員会の議員たちに聞かせたら、さぞや頭に血が上るような

授業だ・。もし校長の道徳授業をテーマ付けるなら『薩摩近代史』とでも名づけられよう。

何しろ前進が東京大学文学部教授 昭和天皇の御進講を努めた名校長。

私は中学時代 学校まで徒歩通学・・・・当時中学生は通学に電車バスは禁止されていた。

通学路には西郷終焉の地岩崎谷をとおり、木曽川工事の工事を完成させたものの 多大の

藩の費用を使ったということと、多くの犠牲者を出した責任を取って切腹した平田翁の屋敷の前を通り

維新の群雄揺籃の地 加治屋町をとおり 西郷の自宅の前の石で急速を徒って 樟の香りを

胸いっぱい吸い込んで学校に到着していた

与謝野晶子が評した『石垣青き鹿児島の街』そんな風情は今全く無い。樟の香りも無い。

私が子とあるごとに話して回った 鹿児島の進路は東京永田町ではない。南の国に

根を張ろうという提唱は 大分県に奪われてしまった。自治省の天下りで国の税金を

引き出してくる事に味を占めた鹿児島は3割り自治と呼ばれている。

離党を抱えて仕様が無いんだというが、西郷さんかいたら 今の鹿児島の青年層の

無気力をののしりまくったとおもう。維新という政党があるがあれは真の維新とは

似てもにつかぬまがい物である。鹿児島から人材がいなくなった。さびしいかぎりだ