現代版徒然草素描

勝手気ままに感じたままを綴ってみましょう。

無知と言う罪

2009-04-27 11:28:57 | 学問

 「知らなかった。」ということで何らかの罪を逃れようとしている人たちがいる。本当に知らなかったのだろうか。知りえる立場にいたはずであるが、どうなっているのだろうか。多くの法律、例えば道路交通法においてすら「知らなかった。」は通らないはずである。

若い頃、仕事で車を動かさなければならず何回か違反切符を切られた。以前進入禁止ではない道路だったので何の疑いも無く入ってしまったこともある。「いつから進入禁止になったのですか。」と聞くとつい一週間前にそのようになったらしい。後で確認すると確かにその標識はあった。見落としてしまっていたということであるが、罪は罪である。

また、地元のスーパ―に商品を納品する際、解かっていて反対駐車をしたことがある。そこは非常に狭い道でそのまま駐車をしてしまうと他の車の往来を極端に妨げてしまうので、反対駐車、進路方向の逆に駐車することで往来がスムースに行くことになる。

婦人警官に道路交通法違反で切符を切られそうになった。「本当に交通違反ですか。」と聞いた。「如何しても反対駐車だと言い張る。」「違反切符を切っても違反金は払いませんょ。」というと怪訝な顔をし始めた。「違反は違反だ。」と言い張るので「この状態であなただったらどのように駐車しますか。」ときいてみた。「如何しても、進路方向に止めてください。」というので、車を動かして見せることにした。そしてそのように止めたら「あ、」といっただけで黙ってしまった。都合よく、他の車が来た。道路をふさいでしまって通行できない状態になってしまうということがようやく理解できたらしい。「道路交通法の前文になんと記載されていますか。」と聞いてみた。

条文にだけ囚われていて大切な事を見落としていると言える。(前文にはこの法律の趣旨と目的が記載されているはずである。この法律は、交通が円滑に行く為の云々ということである。)この場合ですら、知らなかったでは通らないのである。たまたま、私がその事を知っていたので、違反切符を切られずに済んだということである。

「か。」といって、人間が生活している全部を知りえる環境にはない。全知全能の神はそこまで人間に知恵を付与してはくれなかったのである。生活の多くの分野で知らなかったでは済まされないことがある。ところが、平然と、「私は知らなかった。」と言ってはばからない人たちがいる。裁判などでは「人に強要されたのでそのように言ってしまいました。」と言って前言を簡単に翻してみせる。なんという世の中になってしまったのだろう。戦前の拷問による自白ならいざ知らず、権利が認められている時代にあって尚、このようなことが簡単に起こってしまう。

捜査する側にも問題があるらしい。長時間の取調べや権力を行使する側の自重を期待するしかなさそうであるが、権利という考え方がそのようにさせているのだろうか。知らなければならないことは聞く事で解決が付く、努力するという対価を払わなければならないが、・・・・。

特許においては知らなくて出願してしまえば出願費用が無駄になる。権利化されていることを知らなくて作って売ってしまえば特許侵害になってしまう。出願する前に先行技術調査を確りしなければならないことになるのと同じではなかろうか。


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