歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

織田信長の軍事作戦を「天下静謐」の為の戦いと言っていいのか。

2020-12-10 | 織田信長
織田信長はたしかに自分の戦いを「天下静謐のため」(てんかせいひつ)と書いています。でもそれを真に受ける必要はないでしょう。アメリカ軍が「世界平和のためのイラク戦争だ」と言うのを「そのままそっくり信じてはいけない」のと同じです。なお天下は畿内、京、日本、世界を指す言葉です。信長は自らの支配領域を天下としており、天下の意味は「柔軟に」捉えるべきものと考えています。

具体的に考えてみましょう。「越前の運命」です。

1570年ぐらい、つまり信長の上洛までは、越前朝倉氏は一向一揆と戦ってはいたものの、それなりに平和でした。「静謐」なわけです。なお「謐」とは「静」です。「静静」です。

さて越前。それなり静謐で「小京都」と言われる賑わいを見せた越前一乗谷の運命は、信長の出現によって変貌します。まず信長がいきなり侵攻してきます。別に悪いことしてないのに「京都に来なかった」と攻め込まれます。信長は若狭攻めの勅命や将軍上意をもっています。越前攻めの大義名分があったかは微妙です。ここは浅井氏の協力で乗り切りました。いわゆる「金ヶ崎の戦い」です。

こっからは信長との消耗戦となります。金ヶ崎の戦いの後には、浅井と組んで姉川の戦いを行います。善戦したが、負け、かなりの死者がでます。

そして志賀の陣、これは叡山にこもって持久戦です。ここまでは対等ぐらいに戦ってはいますが、消耗はひどかったでしょう。さらに越前朝倉滅亡直前に小谷城への援助出兵。このころになると朝倉内部は統一がとれず、ひどい状態で、前波義継などが信長側に寝返ったりします。越前本土は戦乱に巻き込まれませんでしたが、たえず出兵をしているわけです。一向一揆がおさまったわけでもない。そして一気に一乗谷に攻め込まれて朝倉は壊滅します。一乗谷は野原となって、やがて水田となり、二度と復興しませんでした。

「天下静謐を乱している」のは、幕府、信長、朝廷です。

さらに越前の運命は悲惨です。越前を「難治の国」とみた信長は、先の前波吉継を「守護代」にします。「誰だよ」という人物です。滅ぼしてはみたものの、経営は深く考えていなかったようで、越前人の前波に「あとは任せた」となるわけです。朝倉の人間にとっても「あいつかよ」という人物だったようです。
予測に反してうまく治めた、ならいいのですが、案の定、越前を経営できず、前波は一向一揆と越前内部の抗争で殺されます。そして「一揆が持ちたる国」になります。

で、一時平和かというとそうでもない。今度は本願寺から派遣されたエリート僧、地元の僧、地元の民衆の間で「抗争」が始まるのです。

それを見た信長は(忙しくてしばらく放っておいた後)「殲滅作戦」を計画し、自ら出向いて一向一揆を「殲滅」します。先鋒は秀吉と光秀だったようです。1万以上の人間が死にます。2万という説もあります。それが1575年です。たった5年で越前は修羅の地となったわけです。そして柴田勝家による支配がはじまります。すると賤ケ岳の戦いとなってまた修羅場です。ただこの時点では信長は死んでいます。

これを「天下静謐ための戦い」などと名付けいいのかなと思います。呼び方の問題です。一般に使うのも変だと思いますが、特に学術用語として「適当」と言えるでしょうか。信長が「そう言っているだけ」のことです。戦国時代であり、日本統一の大義があったから、侵略戦争とまでは言わないものの、侵略的な平定戦であることは確かです。しかも信長の統治政策の失敗によって、最後は殲滅戦になります。

「天下布武」を使えとはいいません。同時に「天下静謐」も全く現実と合いません。ごく普通に「信長の軍事作戦」「信長の全国平定戦」「信長の越前平定戦」というべきで、「天下静謐」などという美称または政治的思想的な用語は使うべきではないと思われてなりません。

むろん私のこの考えに反対する方もいると思います。「結局天下布武が好きなんだろ」「旧権威の力を重く見る静謐論が嫌いなんだろ」などが考えられます。そうかも知れません。否定する気はありません。

織田信長は濃厚に室町人的性質を残しており、武力によってのみ活動したわけではない。そういう信長の古い中世的性質を考えた時、室町幕府と朝廷の伝統である「静謐の論理によって行動した」ことを表現するため「天下静謐」という用語を使うべきだ、、、とでもなるでしょうか。

信長の中世的な面は認めますが、それでは今度は「中世からはみ出した部分」、この越前攻めなどを十全に表現することができなくなります。

いやいや違う。信長はあくまで「幕府軍」として、義昭の委託を受けて行動していたのであり、やはり室町幕府の論理である「天下静謐」を使うべきだ。という反論もあるでしょう。

形式論としてはそうなのですが、そもそもその幕府の天下静謐行動そのものが、信長義昭期においては「主に直接の軍事行動」に「変質」していたのだから、幕府の「使用した用語」をそのまま踏襲することは間違いである。と私の見方ではそうなります。「軍事行動をしている集団の、自己正当化の論理、美辞麗句」を「そのまま」使っていいのか、ということです。

これは「天下静謐の信長」の言い出し人である学者さんへの疑義ではありません。そんな学問論争は私にはできないし、その方の本は素晴らしい。言い方が難しいのですが、純粋に用語の問題です。

ど素人の私の意見などどうでもいい。と当然私には分かっています。でも最近は「天下静謐」を使う人が増えていますから、私の意見など「蟷螂之斧」であっても、反対を表明する意味はあるな、ぐらいに思って書きました。

「麒麟がくる」「光秀のスマホ」外伝・「信玄がやってくる」

2020-12-10 | 麒麟がくる
好き勝手な文章で、実際の「麒麟がくる」とは関係ありません。

1572年10月、信玄は本格的に西に向かう。徳川家康と衝突する「三方ヶ原の戦い」は目前であった。驚いた十兵衛は急遽岐阜にいる信長を訪ねるのであった。

十兵衛が部屋にはいると、信長はだらしなく口を開いて寝ている。十兵衛はその枕を蹴飛ばした。

信長「わっ、なんだ」
十兵衛「殿、寝相が悪いですな、枕が飛んでいきましたぞ」
信長「蹴っただろ」
十兵衛「蹴ってません。じっちゃんの名にかけて蹴ってません」
信長「誰だよ、明智のじっちゃんって。それより何だよ」
十兵衛「いや、信玄が西に向かったと聞いたので、殿が泣いているんじゃないかと」
信長「なんで泣くのだよ。西に向かったって、せいぜい三河だろ。それ以上は西に来ないよ」
十兵衛「まあそうでしょうな。兵站が続きませんしね」
信長「上洛するならもっと事前準備が必要なんだよ。俺が上洛した時は一年前から、伊勢をいじったり、六角を説得したり、そりゃ下準備が大変だったんだぜ」
十兵衛「でもなにが起きるか分からないのが乱世ですぞ」
信長「そりゃそうなんだけどね。あっ。三河くんが援軍よこせっていうから、佐久間たち3000人を派遣したよ」
十兵衛「3000人なんて、何の足しになるんです。人が悪いなー。自分は助けてもらうくせに徳川は助けない。極悪非道だな。」
信長「いいんだよ。三河決戦なんかする気はないから。万が一信玄が馬鹿で三河から織田領に入ったとするよね。その時に備えて織田兵は失えないわけよ。だから適当に逃げて来いと言っておいた。8000人の家康君が裏切らない程度に見張っていればいいのだよ。家康君は籠城すればいい。三方ヶ原に打ってでたりしないよう願っているよ」
十兵衛「家康君は本気で戦うと言ってましたよ。」
信長「それは三河くんの勝手だよ。織田とは関係ない話。三河くんと信玄の国境争いだから。籠城すればいいけど、あいついきなりキレるから平野決戦とかやりそうだな。そしたら織田3000人は逃げる。8000の徳川は2万5千の武田の前に鎧袖一触だろうな」
十兵衛「がいしゅういっしょく。言葉が難しいぞ。でも信長大包囲網がひかれたと言ってる人もいますよ」
信長「マジか。だったらどうして10月なんだよ。冬になるぜ。冬になったら朝倉は越前に引き上げるぜ。本気で包囲する気なら10月に動いたりしないでしょ」
十兵衛「でも三方ヶ原あたりで信玄が大勝利して、美濃尾張に迫ったらどうするんですか」
信長「来ないよ。でも来たら徹底的な防御戦だよ。籠城嫌いだから、柵の中からとか、徹底的に鉄砲を撃ちかける。で、逃げる。それを繰り返す。兵站は伸びているわ。兵は疲れているわ。和睦を申し出れば簡単に甲斐にもどるでしょ。兵が疲れ果て、食料も続かないのだよ。どうやって戦うのだ?」
十兵衛「そりゃそうですね。岐阜城に籠城したらコメは豊富で兵力は3万。それを2万5千の武田軍で一気に壊滅させるなんて、現実的にはありえませんしね。でも武田に寝返る国衆が増えたらちょっと問題ですね」
信長「それでも浅井包囲の秀吉軍は残せるよ。浅井くんは頑張るだろうけど、朝倉は越前に引き上げる。冬なんだから当然そうなる。信玄はポーズで怒るだろうけど、むしろほっとすると思うね。ほっとして帰るよ。」
十兵衛「そもそも包囲網と言っても、確固たる中心人物がいないのだからバラバラですしね」
信長「そうなんだよ。日本最強の武田軍とか言ってるけど、盛りすぎでしょ。それより不安なのは畿内の信玄祭りだよ」
十兵衛「信玄がやってくると騒いで、挙兵する」
信長「そうだよ。そういう人の代表が義昭くんだね。」
十兵衛「どうするんです」
信長「外聞があるから、最後の最後まで和睦を申し出るよ。信長は幕府を大切にしたという形だけ残せればいいんだ。でも義昭くんは受けないでしょ。そしたら叩くよ。追放するだけ。殺さないから安心してね」
十兵衛「松永さんも立つと思いますよ」
信長「あいつは何がしたいんだよ。でもね、あいつも一回目は許すよ。二回やったらアウトだよ。」


信玄西上は「信玄の言っていること、手紙を簡単に信じていいのか」という難点があります。論理的に考えてもよくわからない点が多いので、こういう適当な文章を書いて、頭を整理してみようと思った次第です。

長篠の戦いの本当の凄さ

2020-12-10 | 織田信長
長篠の戦い、3段打ちについては、つまり3隊に分けた一斉射撃については「ほぼ否定」されています。

鉄砲の数は最低1000丁です。3000丁だった可能性もあります。

信長の本当の凄さは「それだけの鉄砲を調達した」「なまり玉を調達した」「火薬も調達した」点です。海外貿易を抑えたことによってそれが可能となりました。鉄砲は国産できましたが、「なまり」「火薬」は主に輸入であったからです。

終わり、、、、でもいいのですが、せっかくなので蛇足を書きます。

長篠の戦いの場合「3段打ち技法で、絶え間なく撃ったなんてことはない。そもそも防衛陣形であった。勝頼が突っ込んだのは偶然で、防御陣形をとっていたら、たまたま突撃してくれて、予想もしなかった成果が得られただけだ。信長の意図ではない。偶然だ。」

とこんな風に信長を捉える意見もあります。

「ちょっと待てください」です。

防御陣形は間違いありません。柵の中に閉じこもっていたわけです。しかし「たまたま突撃してくれた」にしても「多くの鉄砲と、なにより鉛玉、火薬がなければ」、この作戦は成功しないわけです。武田軍にも鉄砲はありましたが、玉と火薬を調達できないから、すぐ撃ち尽くしてしまったわけです。

「それだけの鉄砲を調達した」「なまり玉を調達した」「火薬も調達した」

堺を抑えることでそれは可能になりました。その点はきちんと評価すべきだと思うのです。信長を過大評価すべきではないけど、経済への着目はきちんと評価しないといけないと思います。