歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

鎌倉殿の13人の内容を少し予想する。大河「草燃える」の思い出。

2020-12-15 | 鎌倉殿の13人
大河「鎌倉殿の13人」は「麒麟がくる」と同じ「リメイク大河」です。「草燃える」のリメイクですね。こう書いても三谷幸喜さんは「怒らない」と思います。三谷さんは大河好きで、「草燃える」は名作中の名作だからです。なおこの文章は2020年の12月に書いています。

「鎌倉13人」の主人公は北条義時、小栗旬さんです。「真の武士の世を開いた人」と言われます。承久の乱で、後鳥羽上皇と戦って破り、鎌倉幕府を「確立」させた人です。初めて朝廷から政治の主導権を奪った。彼と彼の与党がやってのけたことは空前絶後のことですが、教科書上も世論上も、そういう評価は受けていません。その理由は何なのか。放送までに考えていきたいと思っています。今のところは皇国史観が描いた逆臣義時像の影響が、未だに残っているからと思ってますが、まだまだ理由はありそうな気がします。

「草燃える」では松平健さん(13人では平清盛役)が演じました。純粋な青年からスタートして、最後は親友(伊東十郎)の目をつぶすほどの悪人に変化していきます。この人が主人公だと私は思いますが、正式な主人公は源頼朝、北条政子です。滝田栄さん演じる伊東十郎は極悪人となったが、最後は琵琶法師になっていく。北条義時は好青年からスタートして、悪人になっていく。正確には「悪人でないといけない」と自分を追い詰めていく。この二人のクロスは子供心にも「深いなー」と思ったものです。

さて「鎌倉殿の13人」の内容です。時代考証も決まっていて、なかなかにNHKは考えたなと思います。うるさい人を取り込んだ形です。(その後呉座氏は炎上騒動で降板)

源頼朝は大泉洋さんで、最初は「へたれのスケドノ」でしょうね。でもすぐに「源頼朝」になる。まあなっても小池栄子さんの北条政子にはいろいろ支えてもらうのでしょう。

誰が鎌倉幕府を作るのだろうと考えました。大泉洋さんのブレーンですね。最初はたぶん北条宗時、片岡愛之助さん。次に三浦義村、山本耕史さん。俳優からみての話です。さらに当然大江広元、栗原英雄さん、阿野全成、新納慎也さんかと。

史実で言えば大江広元、三善康信がブレーンですが、俳優からみると最初の知恵者は北条宗時のような気がします。「草燃える」でもそうでした。大泉洋さんは最初は「へたれ」で、平清盛に殺されると言ってアタフタし、杉本哲太さんの源行家に励まされ、小池栄子に励まされ、そして北条宗時が立てた計画通りに「まつり上げ」られる。大泉洋「勝てるの?本当に勝てるのね。えっ、北条って50名ぐらいしか兵いないじゃん」「やっぱ一回戦、大負けじゃん。死ぬかと思った。おれ、逃げるから。奥州藤原に逃げるから」とか言いそうです。(その後、北条宗時は結構ポンコツキャラだと判明。)

頼朝は、徐々に「鎌倉殿としての凄さ」を発揮していくのだろうと予想します。

主人公の北条義時は最初は「きままな次男坊」の「江間小四郎義時」でしょう。父と兄に従ってなんとなく生きている。妹の阿波局とキャッキャとやっている。それが色々あって北条の嫡男になってしまって、和田とか三浦とか比企との「父親の喧嘩」に巻き込まれる。「メンドーだな、おやじたち、仲良くしようよ」となる。このあたりは、真田丸の真田昌幸と信繁の関係なのかなと思います。

もっとも「13人の抗争」が始まるまでは時間があります。挙兵から始めるようです。すると平家との戦い、そして義経ですね。義経は菅田将暉さんです。比企の佐藤二朗さんも見ものです。

そして最終局面では後鳥羽上皇が出てくる。後白河は源頼朝が対抗したけど、後鳥羽には自分が対抗しないといけない。承久の乱。その頃にどうなっているのかは分かりません。悪になっていく「草燃える路線」か。主人公が小栗旬さんですから、基本は青年時代と変わらない「信長協奏曲路線」か。私は後者のような気がしています。

蘭奢待(らんじゃたい)と信長と三条西実澄・信長と正親町天皇の関係は「対立」なのか「協調」なのか。

2020-12-15 | 麒麟がくる
蘭奢待(らんじゃたい)というのは、東大寺正倉院に伝わる香木です。正式には「黄熟香」です。植物名は沈香です。ジンチョウゲ科。156センチあるそうです。

1574年、天正2年3月28日、織田信長の要請によって「切り取られ」ます。信長の前に切り取ったのは8代将軍足利義政です。信長の切り取りは110年ぶりぐらいのことです。

切り取るには「手続き」がいります。東大寺の別当(長官)に天皇が勅命を出すのです。しかし、東大寺別当は空席でした。それやこれやで色々混乱が起きます。この時「聖武天皇の憤りが思われ、天道に照らして恐ろしきこと」という文章を正親町天皇が書いたとされ、信長と天皇に「対立があった」ことの「一つの例」とされてきました。聖武天皇は正倉院の御物を残した、大仏で有名な人です。

信長と天皇が対立していたという説は、一見すると信長の優位性を示すように受け取られるかも知れません。しかしこの説が力点を置くのは「対立していたが正親町帝が勝った」「正親町凄いぞ」ということ(が多いの)です。朝廷には信長と「対立可能な」十分な実力(権威や文化の力・天皇の力)があるというわけです。それに対して「協調していた」という説は、朝廷や天皇の力を過大評価しません。むろん「論者によって様々」で「この法則に当てはまらない方もいます」が、基本的には「協調していた」の方が「朝廷、天皇は弱かった」という説になっていく「場合が多い」のです。この文章の最後の部分にちょっと図式化して「注」を載せておきます。

しかし上記の文章は確かに存在するのです。それを正親町帝が「案」を書いたとすると、「少なくとも不快に思っていた」とは言えるわけです。しかし東大の金子拓さんは「これは正親町が案を書いた文章ではなく、三条西実澄が案を書いた文章だ」とし、その見解は支持を得ているようです。なお金子さんの説を引用する時は「織田信長天下人の実像」2014年を参照しています。三条西さんは、麒麟がくるの「おじいちゃん公家」です。

どうして誰が「案を」書いた分からないかというと、宛先がないからです。文章の性格としては「内奏状案」です。わかりにくい。ずっと正親町帝が案を書いたと思われてきたが、よくよく検討すると、三条西さんが案を書いたとしか思えないとなったわけです。

では正親町帝もしくは三条西さんは何と言っているのか。問題の文章の現代語訳を少し書きます。訳は金子さんの訳を私が「意訳」したものです。金子さんの「原文」ではありません。
長いので写すのが大変なんです。だから「あらすじ」を書きます。内奏状案の原文そのものも読みましたが、ひらがなばかりで、活字でも読みにくいこと限りありません。

1、蘭奢待の開封は、長者宣のはからいに属するものではありません。(藤原の長者、二条晴良の判断に任せていいものではない)
2,女房奉書も思いもしない文言である。(こんな文章では駄目だ)
3,信長の申し出は前例がないことであるが、もうちょっと勅許の出し方を考えたほうがいい。
4,(ご意思表明につき)ご談合もなかったから、どのようにも沙汰ありたいようになさったらどうか(相談なしなのだから、好きにすればいいけどね)
5,公家一統がはじまったのに、先が思いやられる(院政が実現しそうなのに、または朝廷がやっとまとまったのに、困ったもんだ)
6,あきれて言葉もでない。
7,勅命と勅使が必要なのに、藤原氏の氏寺である興福寺の扱いとしているでしょ
8,天皇家の寺に対してなさったことは、聖武天皇の憤りが思われ、天道恐ろしきことです。(聖武天皇の憤り、天道恐ろしきこと)

私の「意訳」です。私が間違っている可能性はありますが、故意に改変はしていません。カッコ内は完全に私の読み方です。

「なるほど」です。「天皇に対して言っている」ように見えます。金子さんの見解では、三条西さんが正親町帝に怒っているらしいのです。中頃の「好きにすればいい」とかかなり強烈です。このお二人、たしかばあちゃんが姉妹です。朝廷内の「手順の問題」ということになるのでしょうか。

ただ私がもう一人、よく参照させていただく、公武結合王権論の堀新さんは、「現代思想」2020年1月で「正親町天皇の怒りの対象は信長ではなく、関白二条晴良だった」と書いています。すると文章の主はあくまで正親町帝となるのか。「ああそうもとれるな」と思います。成立するようにも思います。ただ困るのはこれを金子さんの説として紹介していることです。金子氏が2015年の学者さん向けの書物で見解を変えたのかも知れませんが、また調べて加筆します。ということで、2015年の金子拓さんの「織田信長権力論」を見ましたが、論は変えていません。「筆跡」も三条西さんということです。

いずれにせよ信長への怒りではないということは変わりません。

こんな風に「筋を通せ」と言っている(可能性がある)三条西さんですが、堀新さんによると(信長徹底解読、2020年)、この後、勅命は東大寺別当に下すものだ、東大寺別当は今いない、だったら私の子供(小さい子みたいです)を東大寺別当にしろと言っていて、実際そうなります。「お手盛り人事」と指摘しています。

さて信長から離れました。信長はこの時、慎重に手順を踏んでいる、らしいのです。奈良で切り取ったのですが、3000人の兵を連れて、治安も守り、強制、強要のたぐいはないそうです。対立はないというのが、私がよく参照させていただく学者さんの見解です。

蛇足、私見
でもどうなんでしょう。そもそも「見たい、切りたい、かいでみたい」という要請が「当時の朝廷の意識では前例なきこと」なわけです。手順を踏めば何やってもいいということではないでしょう。
しかも当日でしょうか。3000人も兵を連れています。「治安維持名目の示威的軍隊出動」って、今でもよくあることで、いくらお行儀が良くても、示威行動と感じる人もいるでしょう。
そして正親町帝がそれを不満に思っても。その不満を外に示すことはできないでしょう。ただし、奈良ですから、松永久秀の本拠で、実際治安はよくなかったとは思われます。
この時期の信長は「将軍追放直後」で、将軍並の威光が必要でした。足利義政のやった蘭奢待開封をやることに意義を感じたのかも知れません。晩年にはない官位上昇志向もあったようです。官位上昇志向は、義昭を「ちょっと追い抜いた」時点で止まるようです。

私は「無理やり対立構造を作ろう」としているわけでもなく、まして「対立があって正親町帝が、または信長が勝った」と言いたいわけでもないのです。
ただ「対立はなかった。あっても本質的ではなかった」という考えが、すんなりと心に入ってこないのです。何十年も「そこそこ対立だろ」と思っていたのです。
堀新さんの公武結合王権論はとても魅力的だと思っています。読んでいて気持ちがいい。金子さんの篤実な実証も尊敬すべきものです。感嘆すべきと言ってもいい。ホント、死ぬほど大変な作業だと思います。私なんぞ「参考にしまくり」です。でもだからと言って「はい、そうですか」とはなりません。「考え中」です。素人なので「考え中」の方が楽しいのです。

注 単純に図式化すると
1,協調していた、朝廷の力は弱かった
2,協調していた、朝廷の力は強かった
3,対立していた、正親町、朝廷が最後は勝った
4,対立していた、信長が勝っていた、ただし信長は朝廷を尊重していた
5,対立していた、信長が勝っていた、信長は朝廷を軽んじ、朝廷は途絶える可能性があった