上総介広常は「草燃える」では、小松方正さんが演じて、とにかくガラの悪いおっさんでした。「おい武衛ふざけんじゃねえぞ。佐竹が先だろ」とか言ってました。「おい武衛、パン買ってこい」とか言いそうな勢いだったのを覚えています。
私は歴史のシロウトの上に、「大先生の本でも一旦は根底から疑う、基本的に信じない」という「癖」があるので、頭の中はいつも疑問で一杯です。上総介広常は「上総の介で、上総全土をほぼ勢力下においていた」(上総は介が最上位)と言われても、
1,上総介という「世襲でもない官職名」が「そのまんま本名」なの?千葉氏は千葉介とも「名乗る」けど、千葉〇〇で、介はつかないじゃん。
2,勢力下においていたって「具体的にどういうこと」。
3,それほどの権力を持った人間が、源義朝(頼朝のおやじ)の「郎党」だったの?「郎党」って何なの?子分なの。協力者なの。友達なの。「おい、義朝親分、パン買ってこい」って感じだったの。
「義朝をまとめ役として紛争を仲裁してもらった」の。それとも「仲裁させていた」の。あっ。義朝は国司しかも守だったっけ。国司に郎党がいるわけだ。
4、本当にたくさんの兵を持っていたの。平治の乱に参加して負けてるけど、兵は連れていかなかったの。なにより暗殺後、その兵なり家人なりにはどうしたの?梶原景時に「あだうち」しないの?
5,在庁官人なの?在庁官人って具体的に何をしていたの。たとえ在庁官人じゃなくても、「親分」として政治をしていたの。じゃあ「字の読み書き」できるよね。「上総介」なら国司なんだから、字は当然読めるし書けるよね。
とかまー色々です。
頼朝に2万騎で駆け付けたとか言われてますが、当時の生産力からして2万騎なんて絶対ありえません。かなりの大勢力でも「数百騎がいいところ」と言われます。とにかく「兵の数」は盛りに盛られています。
仮説
上総を「実効支配」していたのかなと思います。「上総介」も「金で買った」か「勝手に名乗った」のかなと(仮説です)。つまり都ともまあうまく(年貢を少し上納)やりながら、大部分の年貢は自分の家のものにしていたのかと。
別に「源氏の恩」とかなかったでしょう。源義朝を「利用はしただろうけど」、子分に収まるとかそんな殊勝なおっさんとは思えません。平治の乱も、とりあえず参加したけど、源義朝、義平が不利と見るや、さっさと引き上げたのでしょう。ロマン的武士像という色眼鏡をはずせば、ドライで利にさとい地元の親分の顔が見えてきます。義朝に仲裁してもらったのではなく、仲裁させていた。そこはドライに互いに利用しあっていた。「恩だ、忠だ、義だ」というのは、江戸時代の話で、江戸時代さえ本当にそういう雰囲気だったかは疑問です。
ここは全く自信がない仮説ですが、どうも私には恩義的武士集団が理解できない。だから当面この仮説で考えてみて、「だめだ」と思ったら放棄します。
平家や平清盛と戦っています。途中までは、平家の力を利用してましたが、最後は仲たがいです。本質的に上総を実力で支配したおっさんで、年貢なども「みやこに送る分」は自分たちの裁量で「これぐらいでいいだろう」と決めていたのでしょう。ところが平家が力をつけて、中央集権化してきた。生意気にもきちんと年貢を取ろうとした。それで「仲たがい」だと思います。
関東独立の志向が強かったことは頼朝が言っていて、それはその通りでしょう。でも特別強いわけじゃなく、他の御家人も同じだった。暗殺の理由は、ちょっと分かりません。
以上は仮説です。間違っていることも多いでしょう。でもこういう仮説を組み立てて、自分の頭で考えることが楽しいのです。自分の仮説を自分で潰す。結構勉強になります。
私は歴史のシロウトの上に、「大先生の本でも一旦は根底から疑う、基本的に信じない」という「癖」があるので、頭の中はいつも疑問で一杯です。上総介広常は「上総の介で、上総全土をほぼ勢力下においていた」(上総は介が最上位)と言われても、
1,上総介という「世襲でもない官職名」が「そのまんま本名」なの?千葉氏は千葉介とも「名乗る」けど、千葉〇〇で、介はつかないじゃん。
2,勢力下においていたって「具体的にどういうこと」。
3,それほどの権力を持った人間が、源義朝(頼朝のおやじ)の「郎党」だったの?「郎党」って何なの?子分なの。協力者なの。友達なの。「おい、義朝親分、パン買ってこい」って感じだったの。
「義朝をまとめ役として紛争を仲裁してもらった」の。それとも「仲裁させていた」の。あっ。義朝は国司しかも守だったっけ。国司に郎党がいるわけだ。
4、本当にたくさんの兵を持っていたの。平治の乱に参加して負けてるけど、兵は連れていかなかったの。なにより暗殺後、その兵なり家人なりにはどうしたの?梶原景時に「あだうち」しないの?
5,在庁官人なの?在庁官人って具体的に何をしていたの。たとえ在庁官人じゃなくても、「親分」として政治をしていたの。じゃあ「字の読み書き」できるよね。「上総介」なら国司なんだから、字は当然読めるし書けるよね。
とかまー色々です。
頼朝に2万騎で駆け付けたとか言われてますが、当時の生産力からして2万騎なんて絶対ありえません。かなりの大勢力でも「数百騎がいいところ」と言われます。とにかく「兵の数」は盛りに盛られています。
仮説
上総を「実効支配」していたのかなと思います。「上総介」も「金で買った」か「勝手に名乗った」のかなと(仮説です)。つまり都ともまあうまく(年貢を少し上納)やりながら、大部分の年貢は自分の家のものにしていたのかと。
別に「源氏の恩」とかなかったでしょう。源義朝を「利用はしただろうけど」、子分に収まるとかそんな殊勝なおっさんとは思えません。平治の乱も、とりあえず参加したけど、源義朝、義平が不利と見るや、さっさと引き上げたのでしょう。ロマン的武士像という色眼鏡をはずせば、ドライで利にさとい地元の親分の顔が見えてきます。義朝に仲裁してもらったのではなく、仲裁させていた。そこはドライに互いに利用しあっていた。「恩だ、忠だ、義だ」というのは、江戸時代の話で、江戸時代さえ本当にそういう雰囲気だったかは疑問です。
ここは全く自信がない仮説ですが、どうも私には恩義的武士集団が理解できない。だから当面この仮説で考えてみて、「だめだ」と思ったら放棄します。
平家や平清盛と戦っています。途中までは、平家の力を利用してましたが、最後は仲たがいです。本質的に上総を実力で支配したおっさんで、年貢なども「みやこに送る分」は自分たちの裁量で「これぐらいでいいだろう」と決めていたのでしょう。ところが平家が力をつけて、中央集権化してきた。生意気にもきちんと年貢を取ろうとした。それで「仲たがい」だと思います。
関東独立の志向が強かったことは頼朝が言っていて、それはその通りでしょう。でも特別強いわけじゃなく、他の御家人も同じだった。暗殺の理由は、ちょっと分かりません。
以上は仮説です。間違っていることも多いでしょう。でもこういう仮説を組み立てて、自分の頭で考えることが楽しいのです。自分の仮説を自分で潰す。結構勉強になります。
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