歴史とドラマをめぐる冒険

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麒麟がくる・正親町帝の譲位問題は本能寺の変の「原因」となりうるか。

2021-01-31 | 麒麟がくる
ドラマ「麒麟がくる」、ここにきてドラマで提示された数ある要因の中でも「帝の譲位問題」が突出して「要因」となってきた感があります。
正親町帝の譲位問題は「本能寺の変の要因」となりうるでしょうか。

まず端的に結論から書きます。

ドラマ的には「かろうじてなり得る」
史実的には「なり得ない。」なぜなら「譲位を望む」という正親町帝自身の宸筆(自筆の手紙)が東山御文庫に残っているから。

ということになります。ドラマ的に「なりうる」のは当然で、ドラマだから基本的にはどう描いてもよいのです。でも上記の宸筆という「動かぬ証拠」があるので、「かろうじて」だと思います。譲位という重要問題で天皇がリップサービスをした、という小説的解釈をすればなりたつ。だからドラマ的には成り立つのかな、と思います。

とはいえ「手紙があるから」は実は決定的証拠にはなりません。天正2年ごろの気持ちに過ぎないからです。「譲位を迫った」という学者さんはいます。そしてその学者さんがこの手紙を知らないわけはありません。そこ(学会論争)は私の手に余るのでスルーさせてください。

さて

そもそも天皇が譲位して上皇になるのは「あるべき姿」でした。正親町帝が譲位できなかったのは「費用の問題」です。その費用を出すのは幕府ですが、義昭は出しませんでした。「出せなかった」のかも知れません。信長は義昭を追放して「天下人」になるや「費用は出すから譲位なさっては。」と申し入れるわけです。天皇は喜びました。これが天正元年1573年の「年末」です。本能寺の約8年前です。

しかしこれは実現しませんでした。その理由はよくわかりません。戦の状況がそれを許さなかったこと。戦に費用を回すのが先決となって信長にしても費用を出せなかったことなどが指摘されています。

正親町帝がどう喜んだかというとこうなります。帝自身の宸筆の要約です。
「譲位につき内々の申し入れがありました。譲位は(上皇になることは)御土御門院以来の望みでありましたが、実現できずにいました。そなたから申し入れがあったことは奇特(特に優れていること)であり、朝家再興の時がきたと頼もしく思っています」

天正元年から2年の譲位問題が流れてから、しばらく動きはなかったようですが、朝廷では「儀式用の衣装の虫干し」などをして「いつ譲位、即位があっても大丈夫」なような用意をしていました。

天正9年になって朝廷は、信長に官についてくれ、左大臣になってくれと申し入れます。これに対して信長は「譲位の件が片付いてから」と回答します。しかし陰陽道から見て譲位には不吉な年とされたようで、延期されます。信長の左大臣就任もなくなりました。次の年が本能寺の変です。

信長にとって譲位を実現することは朝廷を「あるべき姿に戻す」ことであったという指摘が存在します。「あるべき姿」ですから天皇も喜んだわけです。史実的には「強要」とか「不敬」とか「僭越」とかいうことはないと思われます。信長が莫大な費用を出すのです。信長から申し入れがなければ、朝廷としても動きようがありません。正親町帝が「やっと譲位できた」のは天正14年、1586年です。本能寺の変の4年後、秀吉の時代です。ただし本能寺の2年後にはすでに譲位は決定し、仙洞御所などの造営が始まっています。ここからも帝が譲位したかったのは明らかなような気もします。

私のこの文章の元ネタは金子拓氏の「織田信長、天下人の実像」です。上記のことにつき詳細に叙述されています。私のまとめは拙いので、あとはこの本をご覧ください。


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