節子さんが、奥羽の故郷に帰って半月が過ぎた今日この頃、それまで一人身の生活に慣れていたものの、夕闇が迫ると空虚さを無性に感じ、花瓶の花も心なしかうなだれて見える。ポチも囲炉裏端で静かにして、時々、健太郎の顔を上目で覗き見しながら退屈そうだ。
几帳面な彼女らしく、毎日夕刻に電話をかけてくれ、互いの日常生活の連絡を話しあい、知人への挨拶廻りや荷物の整理に追われているが、夜、床に入るや新しい仕事のこと、結婚後の生活設計、それに秋子さんの病状等考えると、思いが纏まらないまま眠れない時が過ぎて行くと話していた。
雪国の春の訪れは遅い。
けれども、連休が終わる頃には、短い春が過ぎて一挙に初夏の香りが漂い20℃前後の温暖な日が続く。 空は毎日青く透き通る様に晴れわたり、長い冬篭りの中での欝屈した様々な想念が、青空に奔放に駆け上がって吸収されてゆく心地よさを覚える。 小川も雪解水が溢れて流れに勢いを増し、山々は急に遠くへ退いて、見渡す田をかすめるように、緑のそよ風が早苗を揺らして吹き渡って行く。
街道脇に並んだ松並木の枝も傾きかかって、天蓋のように道を覆っている様は、まるで、日本画の原風景の様だ。
朝、ポチと散歩に出かけて帰ったあと、二階の廊下から見渡す、青空と松並木の姿のとり合わせが、遠くの飯豊山脈の白銀の稜線と重なり、北越後のどかな春の気分を満喫させてくれる。 この待ちわびた春の景色を楽しみに、雪国の人々は、これまで幾星霜も厳しい冬を耐えてきた。
健太郎は遅い朝食後。 縁側でポチを抱き春の山並みに見とれていると、何時の間にか家の前に姿を見せた秋子さんと理恵ちゃんを、ポチが先に気ずき勢い良く飛び出して行き、理恵ちゃんにジャレついた。 理恵子は急いで家を出てきたために、ポチのオヤツを忘れてきてしまい、慌てて知り慣れた健太郎の台所に行き煮干を持って来てポチに与えていた。やはり、このコンビは相性が抜群に良い。
秋子さんは、家に上がると何時もの様に仏壇を拝んだあと囲炉裏の上にすえられた細長いテーブルを囲んで、健太郎にお茶を入れて差し出し、彼女も美味しそうにお茶を飲みながら
「今日は店も休みで、理恵がピアノの練習をしたいと急に言い出したので、私も久し振りにお家を覗きたくなり、理恵子についてきたの」
と言ったあと立ち上がって、節子さんのアイデアを取り入れた改造したキッチンや部屋や風呂場等を一通り見渡した後
「彼女らしく工夫を凝らし、使い易いお家になったわね。これなら彼女も自分の城で、伸び伸びと過ごせるわ」
と、独り言のように呟きながら安心した様に呟いていた。
健太郎は、そんな彼女を見ていて、何年過ぎても後輩を思いやる、彼女の心の奥深さに改めて感心した。
理恵ちゃんは、ポチと遊んだあとピアノに向かい、月末の新入生の歓迎会で下級生の部員と演奏し、全員が合唱することになっている童謡の「花かげ」の練習を始めた。
その間、秋子さんは、現在の体の具合をこまごまと説明し、食欲のないことや体重が元に戻らないなど愚痴ぽく話しだした。
健太郎は、自分の時のことを回顧する様に彼女の表情を伺いながら
来週には老先生親子が検査結果に基ずき診察してくれるので、外見的にはそんなに心配しないほうが良いと思うが・・
前にも話した通り、癌とゆうとマスコミの影響から素人判断で必要以上に悲観的に考えがちだが、確かに死亡率の高い病気には違いはないが、だからと言って恐れおののいても、この問題から逃れて解決する方策はない病気であることは確かだが・・
自分のOPのとき、当時、貴女にも正直に話した通り、今の貴女以上にステージが悪かったが、同一に比較は出来ないが、少なくても僕の場合、一担は死を覚悟し、痛みから逃れるためにホスピスへの入院を真剣に考えたことがあったよ。
そのとき、自分なりに死生観として、普段は、病気になると生から死を見つめる余り、限りない欲望から心が激しく動揺しおののくのが誰しも当然だなぁ・・・。
ましてや、病状から余命半年と告げられたとき、覚悟を決めて真剣に考えた末、逆に病状を直視し死を潔く受け入れざるをえないと観念したものだよ。
その時、死から生を見つめたら気持ちが落ち着き、なんと表現したらよいか、丁度、月の地平線から静かに昇る青い地球を見るように、病気ならずとも寿命には限度があり、これで全ての欲から開放されて永遠の眠りにつけると腹を決めたら、精神的に楽になり、それが結果的に良かったのか、抗癌剤の副作用も余りなく、現在、見ての通りで、アノマリーと言ってしまえばそれまでだが・・・。
貴女の場合、一流の大学病院で診察を受け、これ以上のない治療を受けているのだから、兎に角、無駄な神経は使わぬことだな。
と、静かな声で現状を正しく認識して必要以上に落ち込まない様に慰めをまじえて話しをして、彼女を落ち着かせた。
秋子さんは、これまでの生活ぶりから、人の意見には色々反論して自己主張の強いところがあったが、このたびは、テーブルの上をなぞらえながら彼の話に反論することもなく黙って聞きながら頷き聞いていた。
彼は、彼女が肩を落とし寂しそうな表情をしているのを見てとり、精神的に大部弱っていることが気になった。
何よりも、薬の副作用と思うが、体重の減少と食欲のなさが、病状が進行していると素人ながら気になった。
彼が話し終えると秋子さんは、幾分なりとも気分が落ち着いたのか、お茶を一口のむと
「ところで先生。もし、節子さんが貴方の前に現れなかったら、ご自分の老い先をどうするつもりだったのですか?」
「今更、こんなことを言ったらおかしいと思われるかもしれませんが」
「わたしは、わたしなりに自分勝手に貴方との暮らしを想像していたんですよ・・フフッ」
「理恵子なんて、貴方を父親の様に思っているみたいで、この間なんて突然、小父さんと一緒に暮らすことにしたら・・。なんて言い出し・・」
「あの子は思いやりから慰めのつもりで言ったのかも知れないが、それにしても、わたし達の雰囲気から自然とそう思って口にしたのでしょうが・・」
と話し出し、健太郎の顔を見つめて苦笑いしながら
「ありえもしない、そんな生活を勝手に思いめぐらして、今迄度々お邪魔して自分の好きなように掃除や片付けなどをしておりましたが」
と、これまでの生活のありようを説明した。
健太郎は、彼女の突然の話に対し答えに窮し、思い浮かぶ侭に気安く我が儘一杯にさせてもらったことに感謝して頭を垂れ、その先のことまで深く考えていなかった旨弱々しく正直に答えた。
彼女は、その先の言葉を心に秘めてか
「人生、縁が薄いと言うことは悲しいことですね」
と、うつむいて小声で呟いていた。
黙って聞いていた健太郎も、彼女の心情を薄々と感じていただけに、お互いに思いもよらぬ切ない思いを心の底に残した。
健太郎は、この先どの様なことがあっても、秋子さん親子は出来うる限り暖かく見守り続けようと心に誓った。 勿論、節子さんの理解と協力を得て・・。それが自分達の幸せにつらなると確信した。