長いご無沙汰をしてしまいましたが、また書き始めます。
そしてそれが何処かの戦争の真最中にです。
思い出したくもない戦争がロシアとウクライナの間で行われていて、目の前の茶の間のテレビで体を固くして毎日眺めているのです。
私が小学校3年生の頃に第二次世界大戦が勃発し、女学校(現中学)1年生の8月まで続きました。終戦を迎えてそれは10年も続いていたように感じていましたが、3年8か月の期間でした。
在学中は、藁人形を作って竹やりで突く練習をしたり、敵は鬼畜米英であると嘘まみれの脅しを授業で教わったり、その上、主食のお米をはじめ食べるものはなく国民のすべてが栄養失調があたり前になり、最終的には鉄の鍋窯まで武器を作るために供出を強制される始末。
警戒警報、空襲警報が鳴り響くなか、私たちは自分たちで掘った防空壕での出入りが日常化する日々が続いた後で、終戦になったのです。
これは熊本県八代市の田舎での様子なのです。
熊本の大空襲の時は、八代から眺める暗い夜の空が真っ赤に染まり、空一杯に斜めの線のように流れて見えたあれは、焼夷弾の流れであったと後で理解しました。現在のようにネオンはなく灯火管制で夜は真っ暗闇だし、いま思い出しても恐怖を忘れるほどに美しかったのを記憶しています。
それによって、熊本は焼け野原になったのです。
どういう状況であれ戦争は、人間の命も含め大事な諸々を跡形もなく消し去るのです。
どんな理由であれ人間の英知は、みんなが手をつなぎ合って笑顔の絶えない方向に向けなければならないと思うことしきりです。