1601年関ヶ原の戦いの後、長宗我部に代わり、土佐藩主となった山内一豊は、五藤為浄「ためきよ」という家来がいました。
1573年天正元年8月朝倉との戦いで、一豊は顔に矢傷を、負いながら、敵将三段崎勘右衛門と、
闘い、見事打ち取りました。この戦闘の際、左の目じりから右の奥歯にかけて、矢を射られ、
そばにいた、家来の五藤為浄が矢を抜こうとしたが、なかなか抜けず、山内一豊の顔を草鞋を履いたまま
踏みつけ矢を、抜き取りました。
その抜いた矢じりと、履いていた草鞋を、いまも安芸市の歴史資料館に展示してあるそうです。
五藤家は土佐藩の重鎮として山内家土佐藩とともに、幕末まで存続してました。
1573年天正元年8月朝倉との戦いで、一豊は顔に矢傷を、負いながら、敵将三段崎勘右衛門と、
闘い、見事打ち取りました。この戦闘の際、左の目じりから右の奥歯にかけて、矢を射られ、
そばにいた、家来の五藤為浄が矢を抜こうとしたが、なかなか抜けず、山内一豊の顔を草鞋を履いたまま
踏みつけ矢を、抜き取りました。
その抜いた矢じりと、履いていた草鞋を、いまも安芸市の歴史資料館に展示してあるそうです。
五藤家は土佐藩の重鎮として山内家土佐藩とともに、幕末まで存続してました。