大漁旗、気まぐれの服従と、その缶詰
「…えぇ、そうです、またサンマが大量です。船籍は西の国です。種類は貨物船です。中型に、ざっと100匹はいますね。今年になってから随分と多いですね、西からのサンマは。…ほう、干ばつですか、それはそれは…」。
密入国者は、サンマという通称で呼ばれていた。すぜけうすでは密入国者の売買は公然のことで、秘密でも公然の秘密でもない。これは政府間での合意事項なのだから。サンマは暗号という名の蔑称だ。人間でありながら単位はサンマと同じく「匹」が使われる。彼らを引き取りに来る船は漁船と呼ばれていた。すぜけうす近海は湯気の影響で魚はいない。漁船など存在しないのだ。
ヴッチは、電話に向かって吐き出される、慇懃かつ無機的で乾いた、父・ヴィトルの声を、彼の背中越しに聞いていた。父へのさげすみをどう処理していいか分からないで自分の時間が止まったようだった。密入国者に関する暗号を聞くたび、不快感に襲われる。自分の目的を見失いそうになる。揺らがない決意だけが彼女を支えていた。
「何か用かね」。
ヴィトルはいつ気付いたのか、一度も振り返らずにヴッチを呼んだ。電話のやとりとりはいつの間にか終わっていた。
「また、密入国者を売るのね」。ヴッチは開けっ放しだったドアからヴィトルのもとへ一直線に向かいながら、しばらく間をおいて、動揺を悟られないように尋ねた。
「そうだが」。ヴィトルは平然と答えた。振り返る気配はない。先ほどの慇懃さは消え、一代で巨万の富を築いた、すぜけうすの名士の傲慢さみたいなものが込められていた。意見を一切聞き入れない強い拒絶が含まれていた。
ヴッチの不充足感や薄気味悪いと思う空気を生み出した元凶は、この男に少なからずある。それはこの男に代表されるものということであって、閉鎖されたこの国に漂い、貫いているものだった。それらに触れるたびにヴッチは息苦しさに襲われ、疎外感が膨らんでいく。目をつぶり、自分の目的を頭の中で反すうした。
尖塔から20㍍下った場所にある大きな屋敷。町から見ると尖塔を遮るほど高く、幅も広い。その脇に寄り添うように、ヴィトルのオフィスがぽつんとあった。
抜けるような白い外壁に、深紅の屋根の四角い平屋の建物。中に入ると、打ちっぱなしのコンクリートの壁に、間仕切りのない、だだっ広い部屋が一つだけ。無駄な照明を排除するように、自然光を最大限取り入れる窓は大きく、びっしりと壁に張り巡らされていた。
入り口の真っ直ぐ奥に大きな味気のない事務用机が1基。引き出しには収納されているものもほとんどない。壁際に書棚があるわけでもなく、応接セットのソファーもガラス製のテーブルもない。絵や写真も、インテリアなどと呼べるものは皆無だ。そんな空虚な空間の中で、机に向かい合った、肘掛もない事務用椅子にヴィトルは腰掛けている。
富を築いた男の城にしては、あまりに無味乾燥だった。だが、これはヴィトルの哲学に基づく、しつらえなのだ。質素、倹約が彼を貫いている。彼の家族と彼の仕事にかかわる全ての人間たちは、そういう美名の十字架を背負わされている。
余剰と言うものを抱えない。必要な書類やデータはすべて、机上にある灰皿と電話に挟まれた、一台のパソコンに収納されている。ヴィトルという男の、脳の一つ一つの皺に内蔵していると言った方がいい。秘書はいない。基本的に人間を信じていないから、秘書を持つという感覚がそもそもない。密入国者の拿(だ)捕は、彼が信じる数少ない契約という方法で、使役の関係を結んだ傭兵たちがやる。側近も右腕もいない。
私生活も同じことだ。屋敷には絵画も彫刻もなく、巨大なシャンデリアも、1階の広間から吹き抜けの2階に通じるらせん階段もない。執事も世話役も抱えず、彼に言わせれば「奴隷として飼っている」密入国者数人が屋敷の雑事をこなしている。着るものも、身に付けるものも、移動する車も、華やかさと全く無縁な代物ばかり。限られたクレーターの国の中で、ひときわ広大な面積を誇る敷地と、異様に大きい屋敷を構えること以外、彼の富を反映しているものはないに等しい。その蓄えがいったいどこに隠されているのか、巷間で噂されるのは仕方のないことだ。
人間を売ると言う非人道的な行為を恥じることなく、それどころか富を築いた自負が虚栄心を生む。彼を羨む者達がいて、嫉妬や嘲笑されていると錯誤する。いるかどうかも分からないそういう種類の人間たちを、逆に無能で、敗北者だとあざけっている。
密入国者を捕らえ、他国の政府と取引をして財をなす。築いた富で自分の自由を守るため、多額の納税をする。その繰り返しだ。彼が夢を見る自由を、市民は感じることができない。
「それで、何か用かな」。
ヴィトルは背中を向けていた体をくるりとヴッチのに向け、どこかに置き忘れた感情の全くない視線を彼女の体に這わせた。少しねっとりとして気味が悪い。
「用がなければ、来てはいけないのかしら」。
ヴッチは父親に屈せず、それでいて相手の神経を必要以上にさかなでしないよう言葉を返した。そのつもりだったが、自信はなかった。押さえ切れない対抗心、反発が言葉の端々や言い回しに出てしまったように感じた。
「そんなことはないがね」。爬虫類が妙な口の動かし方で、人間から見るとそれが笑っているように見える。ヴィトルはそんな笑いを口元にたたえていた。「お前がここに来ることは珍しいからね。私にはお前が何か用でもあるとしか考えられないかったものでね」。
「さすが、お父様ね」。
ヴッチは、真意を見抜かれずに父親から、目的のために知りたい情報をどう聞き出そうか思案しながら、次の言葉を早く告げなくてはと思った。胸の鼓動が早くなるのを静めたいが、うまくいかない。
密入国者が拿捕された話は、傭兵が屋敷に入ってきたことで察知した。知りたいのは、買主である西の国の船がいつ到着するかだった。
「私、今まで口に出したことはなかったけど、お父様のお仕事は立派だと思っているのよ」。
ヴィトルは相変わらずの無表情で話の続きを待っていた。
「もちろん町では我が家のお金のことで、いろいろ噂をする人がいるわ。だけど質素、倹約の我が家で、お父様お一人で仕事の一切をやっているんですもの。お仕事に打ち込むお父様の姿を見れば、町の人の誤解だって解けると思うし。傭兵の皆さんの町での振る舞いが誤解を与えていることもあるんでしょうけど。私にはそれはどうでもいいことよ。ただ、私がお父様のために何かできることがないか、そう思っているの」。
ヴッチは芝居染みないよう細心の注意と、無理をして父に敬意を払った。
ヴィトルは娘の言葉に感動したわけでも、意外だったと驚くでもない。隠された意図を読み取ろうと、爬虫類の視線を彼女の内側にまでしゅるしゅると潜りこませて探っているようだった。ヴッチは鼓動が早くなるのを見咎められないよう精一杯の笑みを父に向け続けた。
ややあって、ヴィトルは「ふんっ」とせせら笑い、椅子の背もたれに体を寄りかからせた。
「お前の気持ちには感謝しよう。しかし私のやり方には何の問題もない。お前に手伝ってもらうことは残念ながら存在しないんだよ」。
面倒くさそうで、心にもないことをと言いたげな父の表情に、ヴッチはある種予想通りだという思いと、そこまで父が自分を信用していないのだという失望とを抱き、それは自分が培ってきた父との関係によるものなので仕方がないことだと納得させた。しかし粘り強く目的のための善後策について頭をフル回転させた。
「それはそうと」。ヴィトルは何かを待っていたとでもいうように、娘に話し掛けた。
「お前、幾つになった」。
「25よ」。いきなり何を聞くのか。ヴッチは眉間に皺を寄せた。
「この国の娘なら、とっくに結婚している年齢だな」。ヴィトルはパソコンの画面に目を向けながら、ややおどけた表情を浮かべていたようだった。ヴッチは今までに見たこともない父親の顔に狡猾さを見てとらえ、とっさに身構えた。
「父さんがお前のためにとせっかく紹介した殿方との縁談をもう何度も断り続けているお前から、そんな言葉を聞くとは思ってもいなかったよ」。
ヴィトルは、娘とパソコン画面を見比べて彼女を弄んでいるようだった。
「お前について、最近妙な話を聞いているぞ」。
ヴッチはどきりとした。
「船の洗浄工たちと付き合いがあるそうじゃないか」。
虚を衝かれた。ヴィトルは間髪入れずに続けた。
「一人はユジャとか言ったな。確かお前と幼な馴染みだ。もう一人は山越えしてきた男らしい。名前は知らないが、ゲシャ海を渡るとか嘘を吹いて回っているそうじゃないか」。
「よくご存知ね、二人のことは知ってるわ。でも、それが何かあるのかしら」。会話の主導権は完璧にヴィトルのものだった。それでもヴッチは自分が何か言わなくては、敗北を認めたことになる気がした。無駄な抵抗だとしても、それだけは避けたかった。
「…えぇ、そうです、またサンマが大量です。船籍は西の国です。種類は貨物船です。中型に、ざっと100匹はいますね。今年になってから随分と多いですね、西からのサンマは。…ほう、干ばつですか、それはそれは…」。
密入国者は、サンマという通称で呼ばれていた。すぜけうすでは密入国者の売買は公然のことで、秘密でも公然の秘密でもない。これは政府間での合意事項なのだから。サンマは暗号という名の蔑称だ。人間でありながら単位はサンマと同じく「匹」が使われる。彼らを引き取りに来る船は漁船と呼ばれていた。すぜけうす近海は湯気の影響で魚はいない。漁船など存在しないのだ。
ヴッチは、電話に向かって吐き出される、慇懃かつ無機的で乾いた、父・ヴィトルの声を、彼の背中越しに聞いていた。父へのさげすみをどう処理していいか分からないで自分の時間が止まったようだった。密入国者に関する暗号を聞くたび、不快感に襲われる。自分の目的を見失いそうになる。揺らがない決意だけが彼女を支えていた。
「何か用かね」。
ヴィトルはいつ気付いたのか、一度も振り返らずにヴッチを呼んだ。電話のやとりとりはいつの間にか終わっていた。
「また、密入国者を売るのね」。ヴッチは開けっ放しだったドアからヴィトルのもとへ一直線に向かいながら、しばらく間をおいて、動揺を悟られないように尋ねた。
「そうだが」。ヴィトルは平然と答えた。振り返る気配はない。先ほどの慇懃さは消え、一代で巨万の富を築いた、すぜけうすの名士の傲慢さみたいなものが込められていた。意見を一切聞き入れない強い拒絶が含まれていた。
ヴッチの不充足感や薄気味悪いと思う空気を生み出した元凶は、この男に少なからずある。それはこの男に代表されるものということであって、閉鎖されたこの国に漂い、貫いているものだった。それらに触れるたびにヴッチは息苦しさに襲われ、疎外感が膨らんでいく。目をつぶり、自分の目的を頭の中で反すうした。
尖塔から20㍍下った場所にある大きな屋敷。町から見ると尖塔を遮るほど高く、幅も広い。その脇に寄り添うように、ヴィトルのオフィスがぽつんとあった。
抜けるような白い外壁に、深紅の屋根の四角い平屋の建物。中に入ると、打ちっぱなしのコンクリートの壁に、間仕切りのない、だだっ広い部屋が一つだけ。無駄な照明を排除するように、自然光を最大限取り入れる窓は大きく、びっしりと壁に張り巡らされていた。
入り口の真っ直ぐ奥に大きな味気のない事務用机が1基。引き出しには収納されているものもほとんどない。壁際に書棚があるわけでもなく、応接セットのソファーもガラス製のテーブルもない。絵や写真も、インテリアなどと呼べるものは皆無だ。そんな空虚な空間の中で、机に向かい合った、肘掛もない事務用椅子にヴィトルは腰掛けている。
富を築いた男の城にしては、あまりに無味乾燥だった。だが、これはヴィトルの哲学に基づく、しつらえなのだ。質素、倹約が彼を貫いている。彼の家族と彼の仕事にかかわる全ての人間たちは、そういう美名の十字架を背負わされている。
余剰と言うものを抱えない。必要な書類やデータはすべて、机上にある灰皿と電話に挟まれた、一台のパソコンに収納されている。ヴィトルという男の、脳の一つ一つの皺に内蔵していると言った方がいい。秘書はいない。基本的に人間を信じていないから、秘書を持つという感覚がそもそもない。密入国者の拿(だ)捕は、彼が信じる数少ない契約という方法で、使役の関係を結んだ傭兵たちがやる。側近も右腕もいない。
私生活も同じことだ。屋敷には絵画も彫刻もなく、巨大なシャンデリアも、1階の広間から吹き抜けの2階に通じるらせん階段もない。執事も世話役も抱えず、彼に言わせれば「奴隷として飼っている」密入国者数人が屋敷の雑事をこなしている。着るものも、身に付けるものも、移動する車も、華やかさと全く無縁な代物ばかり。限られたクレーターの国の中で、ひときわ広大な面積を誇る敷地と、異様に大きい屋敷を構えること以外、彼の富を反映しているものはないに等しい。その蓄えがいったいどこに隠されているのか、巷間で噂されるのは仕方のないことだ。
人間を売ると言う非人道的な行為を恥じることなく、それどころか富を築いた自負が虚栄心を生む。彼を羨む者達がいて、嫉妬や嘲笑されていると錯誤する。いるかどうかも分からないそういう種類の人間たちを、逆に無能で、敗北者だとあざけっている。
密入国者を捕らえ、他国の政府と取引をして財をなす。築いた富で自分の自由を守るため、多額の納税をする。その繰り返しだ。彼が夢を見る自由を、市民は感じることができない。
「それで、何か用かな」。
ヴィトルは背中を向けていた体をくるりとヴッチのに向け、どこかに置き忘れた感情の全くない視線を彼女の体に這わせた。少しねっとりとして気味が悪い。
「用がなければ、来てはいけないのかしら」。
ヴッチは父親に屈せず、それでいて相手の神経を必要以上にさかなでしないよう言葉を返した。そのつもりだったが、自信はなかった。押さえ切れない対抗心、反発が言葉の端々や言い回しに出てしまったように感じた。
「そんなことはないがね」。爬虫類が妙な口の動かし方で、人間から見るとそれが笑っているように見える。ヴィトルはそんな笑いを口元にたたえていた。「お前がここに来ることは珍しいからね。私にはお前が何か用でもあるとしか考えられないかったものでね」。
「さすが、お父様ね」。
ヴッチは、真意を見抜かれずに父親から、目的のために知りたい情報をどう聞き出そうか思案しながら、次の言葉を早く告げなくてはと思った。胸の鼓動が早くなるのを静めたいが、うまくいかない。
密入国者が拿捕された話は、傭兵が屋敷に入ってきたことで察知した。知りたいのは、買主である西の国の船がいつ到着するかだった。
「私、今まで口に出したことはなかったけど、お父様のお仕事は立派だと思っているのよ」。
ヴィトルは相変わらずの無表情で話の続きを待っていた。
「もちろん町では我が家のお金のことで、いろいろ噂をする人がいるわ。だけど質素、倹約の我が家で、お父様お一人で仕事の一切をやっているんですもの。お仕事に打ち込むお父様の姿を見れば、町の人の誤解だって解けると思うし。傭兵の皆さんの町での振る舞いが誤解を与えていることもあるんでしょうけど。私にはそれはどうでもいいことよ。ただ、私がお父様のために何かできることがないか、そう思っているの」。
ヴッチは芝居染みないよう細心の注意と、無理をして父に敬意を払った。
ヴィトルは娘の言葉に感動したわけでも、意外だったと驚くでもない。隠された意図を読み取ろうと、爬虫類の視線を彼女の内側にまでしゅるしゅると潜りこませて探っているようだった。ヴッチは鼓動が早くなるのを見咎められないよう精一杯の笑みを父に向け続けた。
ややあって、ヴィトルは「ふんっ」とせせら笑い、椅子の背もたれに体を寄りかからせた。
「お前の気持ちには感謝しよう。しかし私のやり方には何の問題もない。お前に手伝ってもらうことは残念ながら存在しないんだよ」。
面倒くさそうで、心にもないことをと言いたげな父の表情に、ヴッチはある種予想通りだという思いと、そこまで父が自分を信用していないのだという失望とを抱き、それは自分が培ってきた父との関係によるものなので仕方がないことだと納得させた。しかし粘り強く目的のための善後策について頭をフル回転させた。
「それはそうと」。ヴィトルは何かを待っていたとでもいうように、娘に話し掛けた。
「お前、幾つになった」。
「25よ」。いきなり何を聞くのか。ヴッチは眉間に皺を寄せた。
「この国の娘なら、とっくに結婚している年齢だな」。ヴィトルはパソコンの画面に目を向けながら、ややおどけた表情を浮かべていたようだった。ヴッチは今までに見たこともない父親の顔に狡猾さを見てとらえ、とっさに身構えた。
「父さんがお前のためにとせっかく紹介した殿方との縁談をもう何度も断り続けているお前から、そんな言葉を聞くとは思ってもいなかったよ」。
ヴィトルは、娘とパソコン画面を見比べて彼女を弄んでいるようだった。
「お前について、最近妙な話を聞いているぞ」。
ヴッチはどきりとした。
「船の洗浄工たちと付き合いがあるそうじゃないか」。
虚を衝かれた。ヴィトルは間髪入れずに続けた。
「一人はユジャとか言ったな。確かお前と幼な馴染みだ。もう一人は山越えしてきた男らしい。名前は知らないが、ゲシャ海を渡るとか嘘を吹いて回っているそうじゃないか」。
「よくご存知ね、二人のことは知ってるわ。でも、それが何かあるのかしら」。会話の主導権は完璧にヴィトルのものだった。それでもヴッチは自分が何か言わなくては、敗北を認めたことになる気がした。無駄な抵抗だとしても、それだけは避けたかった。
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