裏・すぜけうすサンマ豊漁記 (外伝および周辺情報)

2006-02-11 07:42:18 | すぜけうすサンマ豊漁記
可否の作法

 すぜけうすより南方に2000里のところにふらしるという国ありける。
 かの国、一面に可否なる草木はえにき。その実るところの葉をもって飲用とせり
遡ること20代、よあひむという異国の者、我がすぜけうすに可否を伝えし。
 さて、この可否を飲用するに作法あり。
可否を飲むに平素なるところで飲むべからず。さだめて可否亭あるいは可否処あるいは可否の間にて飲むが古くよりの慣わしなるべし。
 いわく可否を飲むに南方と同じく周りを整えて飲むに最上となす。
室温40度を常とし、湿度80%を越えるを可否に良く似合いに候。簡なるは室温35度にても可也。しかして湿度を80%より下回るを固く忌む。
もし下回りたればこれ可否の毒気なる「可否印」にあたりて夜も昼も寝られじ。命縮むるの法なる。
 次に器を整えるべし。器は古来すぜけうすにあるイナゴ屋くらふと亭にて扱いしものを最上となす。ゆえは古来よりの慣わしなると。
 略してはするぷれにて求むるも可也しが、可否の味わいはなはだしく損ねる怖れあり。こころあるひとなれば倣うべからず。
 可否はその色墨のごとく黒きものなり。これを詐して墨汁を可否と販売せるものあり。味わいまったく異なりて可否の味知る者なれば瞞ぜられることなかりしも、世の若きもの可否の味しらずんば、かくのごとく墨汁を可否として味わうもの多し。
 これ腎の病のもとなり。決して倣うべからず。
 可否を入れる器に左右に「耳」あり。これ人の耳に同じなり。斜め上を持ちて言うことを聞かぬ子を諭すがごとく摘み上げるものなり。
 このとき飲み手は座布にあぐらに座り、あしの裏を上に向けるものなり。ゆえは「我が心のうちに、貴殿に対し蹴り技を加える意思なし」をあらわす。
 まことにもって美しきすぜけうすの心なるをみる。
 さて、左右の耳を摘み上げたる器を鼻先に速やかに運ぶが善し。なんとなればその香り迅速なるをもってあたりに散ってしまうがゆえに。
 このとき未熟なるは面目に熱き可否をかぶり、火傷はなはだしくなるもあり。気にやむべからず。可否の最初はすべて斯様なるものなれば。
 次に鼻と口をもって勢い良く香りと湯気を楽しむべし。けっして可否の液を吸い込むべからず。さだめてむせる事誤りなし。対する主人に可否と鼻汁を吹き付けるは多くは笑いて許せしことなれど、まれに激怒するもあり。避くるに危うからず。
 湯気と香りを味わいてのち右の第2指をもっておもむろに可否をかき混ぜるべし。このとき三度回転させることができたればこのときこそ可否を飲用するに最適の温度なり。
 この指を持って飲用の可否を試すがゆえにこの飲み物を「可否」となずくとも聞こゆ。あながち間違いにあるまじ。
 時期を誤りては3度まわすを能わず。その熱さ脳を突くに似るも取り乱すべからず。熱さゆえに取り乱すは可否の礼を失するなり。
 熱き可否に指を入れたまま、相手をまっすぐに見、「いまだ熱すぎて候、飲むことかなわず」と笑いかけるべし。決して眉間にしわなど寄せるべからず。
 熱きを熱く振舞わざるがすぜけうすの礼なるがゆえに。これ、船にて体を暖めるの法に似る。
 可否にはニュウを入れるもあり。ニュウとはいかなるか。これ4足の畜類にてすぜけうすの野に住むものなり。呼んでうしとなす。うしより分泌される体液をニュウといいける。
 ニュウは新鮮なるを最上とす。もって草をはむうしより採取したるが古来最上級としてすぜけうすの人の好むところなり。
 されどもこれに修練かならずあり。若輩はけっしてうしに近寄るべからず。糞を踏むこと必定なるがゆえに。うしの糞、これまことくさきものなり。もし踏みつけたれば、人えんがちょまちがいなし。




すぜけうすの伝統音楽「ぺんた」論
「リアルミュージックとサブミュージックたるダンスの相関」


 発祥は定かではない。そもそもすぜけうすに発生したものではないという意見を近年の研究者の多くが持つ。
 内陸のガンジュ岳付近の村にほとんど存在せず、げしゃ海沿岸の小さな集落にぺんたの亜流と見られる音楽が確認されていることから、げしゃ海の向こうより渡来するものとする研究者もいる。

 このすぜけうすに伝わるぺんたが研究者の関心を集めるところは、その独特のリズムによる。
 一般配管放送などでご覧になった方も多いと思うが、体中にTAKE(テイク)とよばれる大小の打楽器をまとい演奏(あるいは演舞)する姿は圧巻である。
 一般に音域の低い打楽器は下半身に取り付けられることが多く、高音域をカバーするものほど頭部へと集中する。
 足元のTAKEが大きく、頭部に近づくほど小型化するのはその発生する音域の構造によるためである。
 これは下肢をほとんど動かすことなく演奏する形態からきわめて合理的といえるものではあるが、なぜ下肢を動かさない演奏スタイルとなっているのかは不明である。
 すぜけうすの沿岸に集落を構える部族(?といっては差し支えるかもしれないが)に、自分達には重大な罪が課せられているという意識が強くみられることが、下肢をほとんど動かさない演奏(ダンス)の一つの理由にもなっているのかもしれない。

 歴史的背景はさておき、この「ぺんた」はすぜけうすの多くの人々に愛されていることには間違いが無い。
 毎年、くじら座の頭部に水王星が差し掛かるころになると、すぜけうすの中央を流れるゼンリュウ川の流木地帯に巨大なやぐらが作られる。
 やぐらは流木を編んで作られるために遠目には巨大な廃木のごとくにも見えるが、近寄ってみるとその網目の美しさに圧倒される。
 網目のところどころに人が一人立てるほどのステジとよばれるイス様の場所が作られる。
 この場所がぺんたの演奏者の定位置となる。
 今から10代ほど前、すぜけうすの人口が最も多かったころにはやぐらに立つぺんた演奏者が100人を越えることもあったというから驚く。

 このやぐらはぺんた演奏者の多くすむゲシャ海の部族によってではなく、山岳部の集落にすむ多数のやぐら職人によって作られる。かれらはその作業をむしろ喜んで行っているようであり、またそれを誇りにしている様子もある。(中略)

 さて、その独特のリズムに迫ってみよう。
 多くは下肢につながれるもっとも大きなTAKEを震わせるように打撃することから演奏は始まる。これはぺんた1点から18点まですべての演奏に共通する決まりとなっている…。 (続く)



「ぺんた」発祥の諸説

 元々は遥か遠い山間部に住む少数民族の音楽とされている。険しい山間部に暮らす彼らには国境の概念そのものがなく、これは現代まで続いている。

 標高2千を微かに越える地にて、彼らは遊牧で生計を立てている。切り立った岩を越えることは、当たり前とは言えないほど当然のことであり、家畜(おもに羊)が越えることが出来る程度の障害であれば、当然これを越えて牧草を探さなければならない。

 したがって、脛(すね)に深刻な生傷を抱える日々を彼らは過ごしていた。それを克服すべく一人の若者が考案した護脛用の防具が「TAKE(テイク)」である。軽快さを維持するためこれには軽く堅い木材を用いられた。使用後の感想として「itakunaikke」(痛くないっけ)と言うのが多く挙げられ、これを省略し「take(TAKE)」(テイク)と呼ばれるようになったと伝えられている。 これが近隣に住む他の地域の部族に瞬く間に広まったことは想像に難しくない。山岳民族といえど、当時は人口爆発の予兆が迫り、生活領域が重なることを余儀なくされていた。

 その後、TAKE(テイク)を叩き響かせることで個体識別が可能ということが分かり、それらの民族これを利用することとなった。原初当時は、始めに一音を響かせ次に表拍を打てば「男」、裏拍を打てば「女」であるとされた。(男と男が出くわした場合は牧草の所有権が物理的力の優劣で争われることになり、片方が女の場合所有権はその場に限り!女に譲られた)その後、これを発展させ「句」「節」なるリズムパターンが生み出される。その後、帽子に高音域を出すTAKE(テイク)を縫い付ける者が現れ、次第に音階を分割し、胸部、腹部、大腿部にもTAKE(テイク)が広まった。因みに、5音階で構成されている為、音楽(会話?)そのものを、ふらりと訪れた外国人旅行者がサクッと「ぺんた」(注:5の意)と名付けた。

 話が逸れてしまったが、その結果TAKE(テイク)は性別に留まらず、部族名、ウザい奴の名前、当人の趣味嗜好、今朝の便の色、好きな韓流スター、オービスの位置、温泉の効能、コウテイペンギンに関する最新の研究報告、冷凍イカの安い店、相撲と大相撲の違い、パンチとキックのコンビネーション・パターン、よく効く育毛剤の名前、冠婚葬祭のマナー、好きな庭木、今年の流行、細木数子の是非、合否、YES、NO、YES!、NO!、…YES、…NO、「食べてやせる!」ダイエット方、ロシアン・フックのかわし方、天下り先の斡旋、知らない国の次の大統領の名前etc...などのバライティーに溢れる表現を次々と生み出した。

 驚くべきことに、保護具として発明されたTAKE(テイク)は部族間または個人個人の通信手段となった。副産物として古来からの住み分けの中に「自由恋愛」を生み出し、それが同時にインセストを回避したことは、もはや音楽の話を超えて奇跡としか言いようがない。

 伝達経路、伝達速度は未だに不明だが ゲシャ海に面する町々でも「ぺんた」が定着しつつある昨今、これが元来「領有権の主張行為」および「愛の賛歌」と知る者は少ない。


*演奏方法が特殊にて更に過激な為、「ぺんた」発祥の理由として精神病者の自傷行為に重ねる説もあるが、著者はこれに同意しない。「愛の賛歌」であったと確信する。

 


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