41年前の8月16日父は倒れその2週間後に他界しました。
下記は、8歳だった当時の自分の目線で思いをつづったものです。
その前後も含め88枚の中の一部です。
10年位前に書いたものですが、勇気を出して短期間掲載しようと思います。
編集前の原稿のままです、ご了承ください。
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虫の声
騒々しい音や悲鳴で、ひろみは目をさましました。
真夜中のこと、夏休みの真っただ中でした。まだまだ暑くて蚊もいっぱい出る頃で、ひろみの家では蚊やを吊ってねていました。
家族みんなが入る位大きな蚊やですが、ひろみが目をさました時には、布団一枚分がどうやら入る位の小さな蚊やがひろみの布団だけにかかっていて、いつもの大きな蚊やは半分位取り外されベロンと垂れ下がっていました
。ひろみはねぼけてもいましたし、蚊やの外もみえにくかったのですが、何かあったんだということはすぐにわかりました。
(お母さんは?お父さんは?)
不安でした。
その時です!
「ギャー!ギャー!」
悲鳴をあげて隣のへやからとびはねるように走ってくる人がいます。
よく見てみると、びっくりしたことにお父さんです。
布団の上にドカドカ乗ったり、グルグルまわってあばれたりしては
「ギャー!痛い!痛い!」
と目をつりあげて叫んでいるのです。
ひろみはあまりの驚きで起き上がることも出来ず、横になったまま呆然としていました。
お父さんはそのあともへやじゅう動きまわってあばれ、縁側に行っては“ゲーッ”とおそろしいくらい勢いよく吐いてはぐったりし、またその行動を繰り返しているのです。
少し体を起こしてよく見てみると、静雄にいちゃんが泣きそうな顔をして
「お父ちゃん!…父ちゃん!…」
っと震えながら叫び、どうしたらいいかわからないらしくウロウロとお父さんのうしろを追って歩いていました。
(お父さんが、どうかしちゃった!お父さんが……)
こわくてこわくて心臓がドキドキドキドキとものすごい音をたてていました。
その時です!
“キューッ! ”っと車のブレーキの音が外から聞こえてきました。そしてザワザワと大勢の人が入ってきた気配がします。ひろみは、お母さんもいるに違いないと思ったので、勇気を出して起き上がり入り口のほうまでかけよっていきました。すると、お母さんがくちびるをブルブルふるわせていちばん前のほうにいました。そのうしろに山崎さんという近所のお医者さん、それからすぐ近くで床屋をやっているしんせきのおじさんとおばさん、そして一番うしろからは、なぜかひろみの家とは少し離れた、そしてしんせきでもない電気屋のおじさんが続いて入ってきました。
あいかわらずお父さんは「痛い!痛い!ギャー!」と叫びながら家中を走りまわっています。ひろみはお母さんのそばにすぐに行きたかったのですが、とてもそういうふんいきではありませんでした。お母さんのほうも、ひろみに何か言おうとしているようでしたができないでいました。
とにかくみんなが、お父さんを車に運び込むのに一生懸命になっていました。男の人が中心になってひとりは頭、ひとりは体、ひとりは足、というふうに抱きかかえようとしていました。
「痛い!痛い!頭が割れそうに痛い!ああ! 痛い!痛い!死にそうだ!」
お父さんはそう叫んでおじさん達の手をふりはらってしまうので、みんな押さえつけるのに必死のようでした。それでも悲鳴をあげあばれ続けていましたが、やっとの思いで電気屋さんの家の車に乗せることができました
「ひろちゃん!お父ちゃんね、死にそうだっ
て言うから……床屋のおばさんの家へ行ってなさいね、お兄ちゃんもね!いいね!お父ちゃん死にそうだっていうから!」
お母さんは、目も鼻も口も飛び散りそうな位ピクピク動かしてそう叫ぶと車に乗り込み
“バ~ンッ! ”とドアを閉めました。そして車は大きな音をたてて、いっきに行ってしまいました。
急に静かになりました。ひろみも静雄にいちゃんも動けず、そのままじっとしていました。
生ぬるい風がひろみの顔にあたっていました。
「さあ、おばちゃんの家においで、何にも心配することはないよ」
床屋のおばさんはそう言って、ひろみの体を抱えるようにしてくれました。おばさんはいつもやさしくしてくれ、ひろみには大好きなおばさんでした。でもその時のひろみには、驚きと恐ろしさと不安がいっぱいで、おばさんのことばをちゃんと聞くことすらできませんでした。
三人は真夜中の道を、床屋の家までゆっくり歩いて行きました。静雄にいちゃんを見るとまだ泣きそうな顔のままでした。
床屋の家に着くと、ふたりは二階にねました。ひろみは目をつぶってねようとするのですが「お父さん死にそうだって! 」というお母さんの言葉や、気が狂ったように家じゅうを叫びながら暴れまわるお父さんの姿や声がどうしても頭から離れません。ひろみの知っているお父さんはとてもがまん強いのです。
おっちょこちょいのお母さんが、棚から大きな物を落としてお父さんの頭にぶつかった時も、けして大騒ぎなどしないでじっと痛みをがまんしてましたし、体の具合が悪い時でも、いつでも何があっても変わらないお父さんでした。だから、今夜のことが信じられなくてなおさら恐ろしく感じていたのです。
「こうすると、気持ちが落ちつくからね」
ねむれないでいるひろみにおばさんはそう言いながら、うでをやさしくさすってくれました。すると不思議と気持ちが落ちついて、ウトウトしてきました。
どの位たったでしょうか?
“キーッ! ”という急ブレーキの音で目がさめました。
(お父さんが死んじゃった!?)
ひろみはドキドキしていました。
車のドアを閉める音がし、何人かの足音とお店のガラス戸のあく音がしました。
ひろみは布団に耳をくっつけて、話し声を聞き逃すまいと一生懸命でした。
「やっぱり尿毒症みたいだねえ、そりゃあびっくりした、おおちゃんがあんなに力があったとは思わんかった…大の男が三人も四人もで押さえつけたってだめさね! 」
電気屋のおじさんの声のようです。
お父さんは名前が雄一郎といい、雄という字が<お>とも読むことから、近所のみんなから「おおちゃん」と呼ばれていました。
ひろみは、おじさんの話しの内容からどうやらお父さんが死んだなどとは言ってなかったので、ひとまずほっとしました。
「一応、注射をうって落ちつかせようとしているらしいんだけどね…とりあえず報告にきたさ、もう一回行ってくるから…」
「悪いねえ本当に…車までかしてくれて、こんな夜中に…面倒かけちゃって」
床屋のおばさんの声です。
「なあに、お互い様だよ」
という電気屋のおじさんの声がかえってきました。そのあと、おばさんとのちょっとしたあいさつみたいな声やガラス戸があく音、そして車の発車する音がすると、あとは何も聞こえなくなりました。
ひろみは、電気屋のおじさんの話しで安心し目をつぶりました。でも、そうはしたものの今度は、病院のベットの上でたくさんの人達に押さえつけられながら、すごい顔で暴れまくっているお父さんの姿が何度も目に浮び、また眠れなくなっていました。
ひろみがうとうとしたり、はっと目がさめたりを何度も繰り返しているとまた、車の音がし、誰かが中に入ってきて話しているようです。
「大丈夫だよ! やっと注射がきいてきたみたいでねたよ!あのおおちゃんがあれだけ暴れて痛がっていたんだから、よっぽど苦しかったんだねえ」
また、電気屋のおじさんの声でした。
おじさんの声はさっきとは違って、少し落ちついているようにひろみには感じました。
(お父さんが…やっとねてくれた、もう痛くないかな?…よかった…)
ひろみは、全身の力がぬけてゆくようなほっとした気持ちで眠くなってゆきました。
目がさめると朝になっていました。いつのまにかお母さも帰ってきていたのでひろみも静雄にいちゃんも自分の家にもどりました。
お母さんが帰ってきたのは、けしてお父さんの状態がよくなったわけではなく、何百羽ものカナリヤにエサをやらなくてはならなかったからです。お母さんには、それを無視することは許されないことでした。
いつもは鼻歌まじりにエサをやるお母さんでしたが、今日は黙ってひたすらせっせとやっていました。ゆうべのあの時と同じようにあいかわらずくちびるをブルブル震わせたままです。とても話しかけられるようなふんいきではありません。
エサをやりおえるとお母さんは、縁側でぼーっとしているひろみと静雄にいちゃんのそばに来て話し始めました。
「昨夜のお父ちゃんね、尿毒症という、じんぞう病の人が起こす症状だったんだよ、オシッコがでなくなって…その毒素が体じゅうまわってしまったんだよ…お父ちゃんがあんなに痛がっていたんだからよっぽど痛かったんだろうねえ…」
お母さんは、少し涙を浮かべています。
「お父ちゃんまだ、暴れてるのか?」
静雄にいちゃんが聞きました。
「もう暴れてないよ、注射してから落ちついてね、普通のお父ちゃんにもどってるよ」
「本当!? 早く病院にいこう! 」
ひろみはうれしくて、早くお父さんに会いたいと思いました。
「うん、三人で行こうね」
お母さんは少しだけ笑い顔で言いました。
病院は自転車で三十分位の場所で、お父さんのいる病棟はその裏側にあり、まるで特別な病人の入る所のようでした。人にうつる病気なのかとお母さんに聞いてみましたがそうではないと言いました。
その病棟の入口でくつをぬいでスリッパにはきかえると、うすぐらくて汚い廊下をペタペタと行きました。
(何てうすきみの悪いところなんだろう…)
くねくねと曲がった廊下を通ってお父さんのいるへやの前に着きました。
「さあ、入りなさい」
お母さんがドアをあけてくれました。
何だか恐ろしいような気がして、おどおどしながら少しずつ足をふみいれました。
入ってみるとへやの中は以外と広く、ベッドがふたつおいてありました。でもそのベッドには床屋のおじさんと、それから栄町というところに住んでいるしんせきのおじさんのふたりが腰をかけているだけで誰もいません。
「ひろちゃん…何をキョロキョロしてる?こっちへ来な…静雄もな」
びっくりしたことに、お父さんのいつものやさしい声がしました。
お父さんは、ベッドの隣のゆかに敷いてある布団にねていました。あとで聞いたのですがゆうべのお父さんは暴れて落ちてしまいとてもベッドに寝かせられる状況ではなかったのだそうです。
お父さんはお母さんが言った通り、普通のお父さんにもどっていました。元気なはなしかたではありませんでしたが、いつものようにムクムク笑っているようにひろみには見え、ゆうべの姿なんてまるでうそのようでした。
でもひろみには、病院にいるお父さんに近づくのが照れくさくてたまりませんでした。
「お父さん、頭が痛くてなあ」
お父さんが小さな声で言うと、お母さんがそばに行って頭をもんであげました。
“ギュッギュッ”ともむたびに、頭の下の水枕から“チャプチャプ”と水の音が聞こえてきました。
お母さんが言いました。
「お父ちゃんねえ、頭が痛くてたまらんって さ……ひろちゃんももんでやって」
ひろみは照れくさくてとてもそんな気にはなれませんでした。
今度は静雄にいちゃんに言いました。
「静坊…やってやんな」
「おお…」
静雄にいちゃんはまじめな顔をしてそう言うと、頭をもみ始めました。
「わたしも……もむ」
ひろみは虫のなくような声で言いました。
「うん、やってやんな」
「ひろみがやってやれば、お父さんの頭、すぐによくなるよ」
床屋のおじさんと栄町のおじさんが言いました。
ひろみはお父さんの頭をもみながら、みんなの顔をじっと見まわしました。ひとりひとりが、まじめな顔をしていました。
「水枕変えてこようか?」
お母さんが聞くと
「ああ頼む」
っと、目をつぶったままお父さんは答えました。
その日からお母さんは、ほとんど病院に泊り込みになりました。たまに、ひろみや静雄にいちゃんの世話とカナリヤのエサをやりに帰ってきてはいましたが、それでもどうしても帰れない時は、ひろみや静雄にいちゃんが床屋の家に住む高校生のいとこのみきこちゃんと一緒にエサあげをしたりしました。そんなわけで、ひろみはその日から床屋の家でねることになりました。静雄にいちゃんはもう六年生で大きいし、自分でもいやだというのでひとりで家でねることになりました。
それから一週間位たった夜、いつものように二階でねていると、何やら笑い声でひろみは目をさましました。
よく聞いてみると、お母さんと床屋のおじさんとおばさんの声です。
「そりゃあ、みごとなもんだ! 」
おじさんの声です。
「本当に飲ませてみてよかった! こんなに早くきくとは思ってなかったけどね」
っとお母さんの声です。
「とにかくなあ、片手でひょいひょいっと起き上がって、しょんべんをしびんにな、誰の力もかりずにいれるんだぜ」
「ほお! そりゃあよかった! 」
おばさんの声です。
どうやら、おじさんとお母さんがおばさんに、お父さんの具合の説明をしているようでした。
「頭の痛みを何とかしてとる方法はないものかと思って…あんなに聞くもんかねえ…」
「本当によかったねえ」
「わたしがしびんをもってやったって、自分ひとりでやるって聞かないんだよ」
お母さんはそう言いながら笑ってるようでした。
ひろみは、お父さんの具合いのいい話しをもっともっと聞きたかったのですがどうしても眠けには勝てず、そこまで聞いて眠ってしまいました。
次の日お母さんに聞いてみると、スグテンとかいう薬を飲ませたら見違えるほどよくなったというのです。
ひろみと静雄にいちゃんは、その元気になったというお父さんの姿を見にすぐ病院に急ぎました。病室の前までくると、中から笑い声が聞こえてきました。そっとあけてみると、みんなに囲まれたお父さんが、布団の上に座ってひろみ達を笑って迎えてくれています。みんなうれしそうに笑っていました。ひろみはお父さんのそばにそっと近づきました。
「もう頭、痛くないの?」
「痛くないよ、お父さんはもう元気になったからね」
お父さんはむっくり笑って、静かにそう答えました。
お父さんの具合が急によくなったという話しは本当だったのです。
(これでお父さんはもう大丈夫なんだ…)
病院から出るとひろみは、前からお母さんに言われていた歯医者さんに、明日から通うことにしようと考えていました。
お父さんがよくなってきてからお母さんは、今まで以上にがんばっているように見えました。病院と家の、自転車で三十分はかかる距離を一日に何往復もしていたようでした。
そんな日が何日か過ぎたある夕方、ひろみが歯医者さんからまっすぐ家に帰ってくると珍しくお母さんがいました。
「あんたを捜していた…歯医者にも行ったけどいないし……」
お母さんはとてもぐったりしていました。
「お父さんがあんたに会いたがってる……連れてきてくれって言うからお母さん……学校行ったり…歯医者行ったり……」
お母さんは力が抜けてしまったような言い方で続けました。
「お父さんねえ…右半分がきかなくなった…ねがえりもできない…言葉もしゃべれない……お母さんね、あいうえお、かきくけこって紙に書いてね、言いたいことある時はお父さん一生懸命その文字を左指でさしてるんだよ」
「え?! 」
(……どうして?……あんなによくなっていたのに右半分きかなくてしゃべれないなんて……信じられない……)
すぐにひろみはお母さんと病院に向かいました。
病室に入ると、このあいだとは全然違ってシーンと静まりきっています。ひろみがそばに
行くとお父さんはうれしそうにうなづきました。
こおろぎや鈴虫の声が、とてもうるさく聞こえていました。
「本当にうるさい虫達だ…ねえお父さん…頭が余計に痛くなっちまうねえ…わたしが今おっぱらってくるからね」
お母さんはそんなふうに言いながら、外に出て、窓の下の草むらに入ってゆきました。
お母さんがガサガサ音をたてると虫達はすぐに静かになり、病室も静かになりました。
突然、床屋のおじさんがひろみに文字版を渡してきました。
ひろみは黙ってそれをお父さんに近づけてあげました。
『こ・も・り・う・た』
っとお父さんは左指だけで、ひともじひともじ一生懸命にさしました。
「おおちゃん、ひろちゃんにうたってもらいたいかい?そういうことかい?」
床屋のおじさんがそう聞くとお父さんは、目をつぶって大きくうなづきました。 (恥ずかしい……)
ひろみはモジモジしていました。
「うたってやれ…お父ちゃんはひろみにうたってもらいたいだって……」
床屋のおじさんが、無理に笑ったように言いました。
まわりのおばさんやおじさん達みんなも、ひろみを見てほほえんでくれていました。
ひろみはしかたなくゆっくりと子守歌をうたい始めました。いつも途中で寝てしまう例のお父さんの子守歌です。
♪ねんねん・・・
蚊のなくような小さな声しかでません。
恥ずかしさで、何度も途中で照れ笑いになってしまいます。ですがお父さんは、満足そうな顔で目をつぶって聞いていました。
ひろみはうたいながらみんなを順番にながめてゆきました。
床屋のおじさんは腕をくんで、自分のスリッパばかり見つめていました。栄町のおじさんは窓の外をじっと見つめていましたし、おばさんは蛍光灯を見上げ、目をパチパチさせていました。窓の外からは、ボ―ッとしているお母さんの影も見えています。
病室は、ひろみの唄声だけがかすかに響いていました。
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