芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

怪談 モーレンヤッサ

2016年08月12日 | エッセイ
                                                              

 子どもの頃、銚子に暮らしていた。
 小学生一年生のときである。その日の授業の終わり間近に、空はにわかに曇り、黒く厚い雲に覆われた。風が起こり、やがて大粒の雨が降り出してきた。私の授業は終わったが、しばらく待っても雨はなかなか止みそうもなかった。
 私は傘を持たずに登校したが、たしか五年生の姉は傘を持って出たはずだ。私は姉と一緒に帰ろうと思い、その教室をたずねた。しかし五年生の授業はあと一時間続くのだった。すると姉の担任の先生(確か男性であった)は姉の席の隣に私のために椅子を並べてくれ、一緒に授業を受けるように言った。私はそれに従った。
 授業が始まるとその先生はこう言った。「今日はとっても怖い話をしましょう。銚子に伝わる怪談です…」(ヒェ〜やめてくれ)
 私は幽霊と蛇が大の苦手である(国語でも社会でもなく怪談の時間かよ、そんな授業あるのかよ)。そんな怖い話を聞くはめになるくらいなら、濡れてでも先に帰ればよかったと悔いた。
 その教師は続けた。「モーレンヤッサの話です」(初めて聞く言葉だ〜、なんだそれ〜)

 銚子は漁師町です。河口にはたくさんの漁船が繋いでありますね。漁師さんたちは毎日海に出て魚を獲っています。漁師さんたちは日に焼けて、力強く逞しく、勇気がありますが、そんな漁師さんたちが一番恐れているのがモーレンヤッサです。
 漁をしていると、沖の向こうの空に黒い雲が湧いてきました。ちょうど今日のような雲です。急に冷たい風が吹いてきます。波も高くなってきました。これはいかん。船頭さんが大声で漁師たちに言います。まずいぞ、今日の漁はおしまいだ、引きあげるぞ! 急げ! さあ急いで港に帰ろう。
 しかし黒い分厚い雲は、たちまち船の真上に立ち込め始め、猛烈に強い風が吹き始めました。急げ! モーレンヤッサが出るぞ! 海が沸騰するように荒く波立ち、船を木の葉のように、激しく上下、縦横に揺らして翻弄します。
 やがて海の底のほうから「モーレンヤッサ、モーレンヤッサ…」という男たちの低い声が聞こえてくるではありませんか。漁師さんたちが恐ろしがる声でした。それはこの世の者の声ではありません。モーレンヤッサは、これまでに海で死んだ漁師さんたちの幽霊なのです。
 その声は海の中からどんどん近づいてきました。そして、すでに船はたくさんの、青白いモーレンヤッサたちの船に取り囲まれていました。もう船はもがくだけで、一向に前に進みません。
 モーレンヤッサたちは「モーレンヤッサ、モーレンヤッサ」と呪文のような掛け声を唱えながら、荒波にもがく船に、いっせいに海の水をかけてくるのです。船の中はたちまち海水に満ちてしまいます。みんな必死に海水を汲み出しますが、船はどんどん沈み始めます。
「モーレンヤッサ、モーレンヤッサ」…。とうとう船は荒波の中に沈んでしまいます。こうしてモーレンヤッサは、新しい海の死者の仲間たちを増やしていくのです。

「モーレンヤッサ」とは、げにおどろおどろしい響きの呪文に聞こえたものである。大人になっても、その意味はなかなか分からなかった。あれはどういう意味だろう?
 ある時私は地誌や各地の文化圏の文献などを読み漁るうちに、南紀あたりでは「亡霊」を「モーレン」と読むことがあると知った。南方熊楠なら「モーレン」は「亡霊」のことと、いとも簡単に断定したことだろう。「ヤッサ」とは漁師たちが網を上げたりするときの、労働の掛け声なのであった。
 やはり紀伊半島の海辺の文化圏は伊豆半島や房総半島の文化圏に近いのである。それは海流に乗って、あるいは漂流して伝播したものであろう。
 五年ほど前、京王フローラルガーデン・アンジェでイベントをやったおり、千葉県長南町の長福寿寺のご住職にお世話になった。かつて房総の長南周辺では紅花が栽培されていたというのである。それは平安から鎌倉、室町時代頃であったろう。ご住職はそれを現代に復活させ、紅花と紅花染めなどで町おこしをしていたのである。「べにばなまつり」だ。
 さらに驚いたのは、紅花は房総の長南あたりから海路を北上し、宮城県の寒風沢(さぶさわ)に伝わったという。寒風沢は松島湾の入り口の島である。
 そしてさらに寒風沢から山形に伝えられたというのである。江戸時代に入ってからである。いま、紅花といえば誰もが山形を想起する。おそらく紅花は遠い昔、南紀あたりで栽培され、房総の長南あたりに伝えられ、海路で宮城の寒風沢に、そして寒風沢から陸路で山形に伝播されたに違いない。
 ずいぶん時間はかかったが、私は銚子のモーレンヤッサからいろいろなことを知り、その好奇心を持続させることができたのだった。それにしても、あの頃の教師はずいぶん自由だったのだろう。思えば微笑ましく、またなんと楽しい授業であったことだろう。
 モーレンヤッサ、モーレンヤッサ、モーレンヤッサ…