「人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、譲り渡せる相手を見つけたいという、強い願いだけしか持っていない」とドストエフスキーは「カラマーゾフの兄弟」に書いた。
自民党総裁選告示のかなり前より、自民党員は安倍晋三に雪崩を打った。そのメカニズムは、エーリッヒ・フロムの一連の古典的著作が解明した通りである。「孤独と無力から逃れようとするとき、我々は新しい型の権力に従属したり、あるいは既成の行動様式に順応したりすること」により、「個人的自我から脱出を試みる」のである。あるいはその社会の成員の大多数が向いた方向に、自らを向けるのである。これが「自由からの逃走」とフロムが名付けた現象である。フロムは人々がファシズムへと向かった道を精神分析したのである。
自由から逃走した人々が身を寄せる先は「権威主義」である。権威主義者は破壊性を持つ。他者を支配し自己を強めようとし、その破壊性は破壊性とは意識されず、様々な言葉で糊塗され、合理化されている。例えば「愛、義務、良心、愛国心などが…カムフラージュに利用されてきた」のである。
近ごろでは「美しい国」とカムフラージュされ、さらに「美しい国を守るため、自らの命を捧げることを厭わぬ人々がいない国は、滅びてしまいます」をカムフラージュするため、「私は教育基本法の改正を第一に行いたい」…「公民としての義務を果たす」「愛国心教育は大事です」と安倍は語った。
「美しい国、日本」とは「おとなしい国、日本」の同義であるらしい。政府批判は非国民であり、個人は自分自身であることをやめ、美しい日本の文化的鋳型「和を以て尊し」に身を合わせるべきなのだ。他の圧倒的多くの人々と同様、他の人々から「期待される公民像」の状態、すなわち「おとなしい国民」になることが望まれるのだ。そうすれば「美しい国、日本」の人々は、孤独感や無力感から解放されるだろう。何と美しいのだろう。また日本は秩序正しい「美しい国」として海外からも尊敬され、「美しい国、日本」の「おとなしい」公民は、世界中の政府から羨ましがられるだろう。
「個人的な自己を捨てて自動人形となり、周囲の何百万人というほかの自動人形と同一になった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない」
「ある社会の成員の精神状態を見るときに…大多数の人々が同じ考えや感情を持っているから、この考えや感情は妥当だと決めてしまうことほど、真理から遠いものはない。何百万人の間にも感応的精神病は起こる。全員が同じ誤りを冒したからといって、この誤りが真理になるわけではない」
フロムの「正気の社会」は「狂った社会」が存在することを前提に書かれた。国民の全員が同一意見をもったからといって、それが正しいとは限らない。全員が間違い、全員が狂っているかも知れないからだ。
「お国のために尊い命を捧げた方々を鎮魂するのは当然」と安倍が言い、新閣僚全員が同一意見で、それを圧倒的な国民が支持したからといって、合理的、理性的で正しいとは限らない。それは権威主義者の破壊性をカムフラージュする「もっともらしい言葉」かも知れないからだ。
山口昌男の「歴史・祝祭・神話」の一節を思い出そう。「…鎮魂こそ政治権力の権威の源泉にほかならず、そのための演劇的装置が、裁判、処刑、戦争なのである。民衆を納得させるために、なんらかの『はたもの』(スケープ・ゴート)を作り出さなければならない」 無論、靖国神社は鎮魂の演劇的装置に他ならず、新たに生まれるであろう英霊たちのために必要な、政治権力の宗教装置なのである。
(この一文は2006年9月29日に書かれたものです。)
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