芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 「春秋山伏記」と「気違い部落周游紀行」

2015年12月04日 | エッセイ

 数年前、鈴木俊彦氏の「昭和を彩った作家と芸能人」というエッセイ集の編集を担当した。何の衒いも気負いもない、実に読みやすい文体である。これはかなり書き慣れた達意の人の文章であろう。
 鈴木氏は見かけが驚くほど若々しいが、すでに現役からはリタイアされていた。長く家の光協会に勤められ、雑誌「地上」の編集長をされていたという。大ベテランの書き手に対し、素直な文体であるというのも大変失礼な評ではある。
 彼はその記者、編集者時代から数多くの作家と深く交流し、また芸能人、スポーツ選手らに取材やインタビューを通じて、交流されてきたという。作家も芸能人もスポーツ選手も、みな誰もが知っている錚々たる顔ぶれである。彼はそれらの方たちとの思い出などを、ずっと書き綴ってこられたのである。昭和三十年代以降の世相が映し出され、なかなか楽しい。
 ある日、神楽坂の小体な料亭で夕食を御馳走になった。編集者時代からよく作家の先生方と利用された店だという。私には多くの作家たちについてお聞きしたいことがたくさんあった。
…やがて話は作家論、作品論となった。たまたま藤沢周平の、次々に映画化やテレビ番組化されていった作品についての話となった。
「たそがれ清兵衛」「用心棒日月抄」「蝉しぐれ」「隠し剣 鬼の爪」「秘太刀馬の骨」「武士の一分」等、数多くが映画化やTVドラマ化されている。いずれも見事に劇的である。作品集「時雨みち」の中の一遍「山桜」もそのひとつである。ところで藤沢周平は「時雨」が好きなようだ。「時雨みち」「蝉しぐれ」「本所しぐれ町物語」等がある。
 私は藤沢周平の最も地味な作品と思われる「春秋山伏記」が、いちばん好きだと彼に言った。これは1978年の作である。これまでに数度読み返してきたとも言った。すると、みるみるうちに鈴木氏の顔色が変わった。赤味を帯び喜色に溢れたのである。「あれは私が藤沢周平さんにお願いして『家の光』に書いていただいたものです! 私が担当しました。いやあ、嬉しい! 『春秋山伏記』は、本当に良い作品です! あの作品を担当したことは誇りです!」

 彼の作品の多くは故郷・庄内を舞台としているが、この作品もその一つである。無論会話は全て庄内弁である。時は江戸後期、東北地方(庄内)の小さな村に、羽黒山で修行したらしい山伏が住み着く。他の藤沢作品と異なり、少しも劇的でないのだが、ほのぼのとして、繰り返し読んでも飽きない。
 つまりこの作品の素晴らしさは、単なるストーリーではないからである。里山伏の大鷲坊が主人公のようなのだが、本当の主役は、つましく生きる村人たちと、その村コミュニティなのである。
 また里の四季をさりげなく描く藤沢の筆致は素晴らしい。ここに描かれる四季の情景こそ、日本の原風景なのではないか。この美しい抒情とユーモアこそ「春秋山伏記」の特長なのである。
 藤沢作品を文壇デビュー時から読んでいくと、どこか暗いやりきれなさが漂う作風が、「竹光始末」や「用心棒日月抄」あたりから変化を来しはじめる。自然風物の描写がきめ細やかになり、またそこはかとないユーモアも漂うようになる。「春秋山伏記」は、まさにそういった作風の確立期にあたるのではないか。本人が何かで書いていた「北国風のユーモアが目覚めた」のである。
「春秋山伏記」が映画化やTVドラマ化を免れているのは、おそらく少しも劇的ではないからである。しかし、村落の生活や自然を撮るドキュメンタリー的手法や、アンドレイ・タルコフスキー的な感性を持った優れた映画監督なら、感慨深い作品に仕立て上げるだろう。

 この「春秋山伏記」が描き出した村の人々の暮らしは、きだみのるの「気違い周游紀行」や、その続編の「にっぽん」を想起させる。このきだの二著は戦後日本の名著中の名著である。惜しむらくは二著とも絶版に近い状態になっており、おそらく今後増刷や再版されることもないだろう。
 それは題名の「気違い」「」という言葉が、差別用語とされるためなのである。それこそが過剰な差別反応であって、彼が使用したという用語は「被差別」のことではない。単に山奥の集落のことである。しかも舞台は東京からすぐそこの、山奥なのである(現在は八王子市に入っている)。
 登場人物たちの大真面目な生活と意見や村落のしきたりは、人々が大真面目であればあるほど、まさに抱腹絶倒もので、きだはこれを深い愛情と皮肉たっぷりのユーモアに包んで描出した。彼はパリ大学で古代社会学や人類学を学んだ社会学者であり、翻訳者、文学者でもあった。
 彼は奥本大三郎以前のファーブル「昆虫記」の翻訳者(林達夫との共訳)でもある。この「気違い周游紀行」もファーブル的観察眼と、社会学者としての視点で描かれたものである。さすがに社会学者の面目躍如とした優れた日本学であり、また抱腹絶倒、哄笑のエッセイでもある。その各段の小タイトルを見れば、ラブレーの「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」を彷彿させる。つまり優れた哄笑の文学の系譜に連なっている。

「日本敗れたること、並びに国際的閉門に処せられること」「周游など面白からざるべしとの憶説とそれに対する疑い」「物が解るということ或いは解らないということ」「言葉を覚えると内容まで知ったと思う悪癖のこと」「日本人とは何かということについて」「新興財閥シン英雄のこと」「八百屋はいかにして財閥になったかについて」「祖先崇拝ということ、この感情は桜に及びシンさんは二十六代目の祖先が丸顔でありしことを誇ること」「の会話は社交界の会話と同じく多く意味のなきこと」「英雄ギダサン計らずもホッブスの言の真なるを証すること」「にも党派のあること、正義派と正義嫌い派、二音派と三音派」「権力はなくとも支配は出来ること」「の英雄たちは初めて一つの異論なしに一致すること、そして一致が後ろめたきものであることを発見す」「総理、要人は悪口をいわれるものであること並びに友人のなきこと」…。これは各段タイトルのほんの一例である。

「気違い周游紀行」のような、これほどの名エッセイ、名著が、下らない被差別意識・差別用語排除のために絶版に近い状態のままでいるということは、社会の文化的損失以外の何ものでもあるまい。
 藤沢周平の「春秋山伏記」は「気違い周游紀行」ほど抱腹絶倒とはいかないが、かつて日本に存在した風景、日本の村落の人々の暮らしや習俗、里の美しい四季を余すところなく描き出し、ほのぼのとしたユーモアをかもし出している。社会学、民俗学、日本学を学ばんとする者は、ぜひにも読むべきであろう。また、きだみのるの「気違い周游紀行」も読むべきだろう。
 ちなみに、きだの実娘は岩手の教師・三好京三の養女となり、彼はその養女の子育てを小説「子育てごっこ」として直木賞を得た。後にスキャンダルを巻き起こしたが…。それは別の話。


                 


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