2006年7月7日に書いた競馬コラム
見えざる神の手ラムタラが、イギリスに帰ることになった。先月の中旬、ラムタラを所有するシンジケートが、イギリスへの売却を決議したという。売却額は24万ドル、約2750万円だそうである。
ラムタラほどの馬にしては、ずいぶん破格の安値である。しかしそれも仕方あるまい。欧州の歴史的名馬ラムタラは、日本で10年という時間を全く無駄に過ごしてしまった。彼が種牡馬として活躍できる年数は、あと5、6年に過ぎないからだ。世界のホースメンたちはやがて、この日本時代のラムタラを「失われた十年」と言うかも知れない。
だいぶ以前から欧米では、日本は「血統の墓場」であると称されてきた。これに強く反発する日本の競馬人やファンは多いことだろう。
しかし、日本に種牡馬として一流馬が入ってきても、その父系は一二代、もって三代で途絶えてしまうのは事実ではないか。
古くはフランスの至宝と呼ばれたシカンブル系の父系は残っているか、いないではないか。シーフュリュー(アサデンコウ)、ムーティエ(タニノムーティエ)、ファラモンド(カブラヤオー)。オリオール系セントクレスピン(タイテイム、エリモジョージ)の父系は残っているか、いないではないか。パーソロンの父系は残せるのか、残せないではないか。ミルリーフ系のミルジョージ、マグニチュードの血は残せたか、残せないではないか。日本は血統の墓場だったのである。ラムタラはこの墓場から抜け出せたのだ。
ラムタラは欧州の歴史的名馬、神の馬と呼ばれた。日本人が33億円を超す値で購入し、44億円2800万円のシンジケートが組まれた。その競走能力の高さは、日本に輸入された種牡馬としては、ダンシングブレーブに匹敵する。血統も超一流である。
当初は90頭を超える花嫁を集めたが、その産駒は全く振るわなかった。これまでの産駒で重賞を勝ったのは、GIIIを一つ取ったメイショウラムセスのみである。徐々に花嫁の数は減り、今年は30頭に過ぎなかったという。受胎率が6割とすると、2008年には18頭が生まれ、競走馬としてデビューできるのは10頭前後だろう。最後に底力のある超大物を輩出して欲しいものである。
彼はコンスタントに優秀な産駒を出すタイプではないのだろう。またヨーロッパの深い力のいる草原のような馬場に向いた重厚な血は、日本の軽い高速馬場には向かなかったのであろう。
さらに日本の馬産界は父系がノーザンダンサー系の繁殖牝馬が多く、特に優秀な繁殖牝馬にノーザンダンサー系が集中している。またノーザンダンサー系でない場合でも、その母系の二三代前にノーザンダンサー系の血が入っていることが多い。これではノーザンダンサー系のラムタラがいかに優れていても、和合性の高い優秀な繁殖牝馬を集めることは困難だったろう。
アウトブリードを重視する欧州には、異系、異端の血脈が脈々と受け継がれている。特にドイツやイタリア、フランスにその傾向が強い。おそらく欧州で、その後のサラブレッドの歴史を書き替えるような、超大物を出す可能性もあるだろう。ラムタラにはそんなドラマが似合うのだ。
ラムタラは数奇な馬である。馬主のアラブ首長国連邦のマクトゥム家は、石油、金融、IT、建設土木、運輸、医療・福祉まで、今やイスラムばかりでなく世界を動かす一族である。彼等はイスラムの政治・経済のリーダー家なのである。ちなみに国際Gレース、ドバイカップは、このマクトゥム家がスポンサードしている。
最初にラムタラを調教したアレックス・スコット調教師は、ラムタラのデビュー戦勝利の後、元厩務員によって射殺された。その事件のためラムタラは、アラブ人のサイード・ビン・スゥロア調教師のもとに転厩した。私は読んでいないが、このような事件があったためか、伴野朗は「ラムタラは死の香り」というサスペンス小説を書いている。
ラムタラが日本を後にするのは9月だそうである。ラムタラのイギリスへの帰郷は、彼にとっても、世界の競馬界にとっても、喜ばしいことと思いたい。
※ 帰郷後のラムタラは種牡馬として供用されなかった。おそらくマクトゥム家は、この数奇な、そして奇跡の競走成績を残したラムタラに、のんびりとした余生を送らせたかったのだろう。自分の手元において、欧州の歴史的名馬、神の馬ラムタラにふさわしい余生をプレゼントしたのだろう。
彼の帰郷後、マンハッタンカフェの産駒ヒルノダムールが春の天皇賞を勝った。母の父はラムタラである。
2014年夏、ラムタラの死が伝えられた。22歳であった。
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