芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

エッセイ散歩 旅窓の夢 ~遙かなるコミューン~(五)

2016年02月10日 | エッセイ

 福沢諭吉が開設した三田演説館は、自由民権の理論家を輩出した。馬場辰猪、小野梓、植木枝盛らである。植木枝盛は板垣退助にとって最高のスピーチライターだった。土佐立志社の中心的理論家であり、やがて板垣を遙かに超えた。彼は「民権自由論」を著し、また優れた私擬憲法「東洋大日本国国憲案」を起草したのである。
 福沢の三田演説館は実業界、言論界にも多くの人材を送り出した。また俊秀たちが大隈重信の下に政官界で枢要の地位を占めるに至っていた。政官界は伊藤博文・井上馨派と、黒田清隆率いる薩派と、この大隈派の三派の対立と連衡と陰謀の場であった。大隈・三菱・福沢を伊藤・井上は警戒していた。

 明治十二年にもなると、旧士族中心の政治結社は力を弱め、豪農、名士たちの信望と指導による政治結社に広がりはじめた。その結社は政治のみを目的としていなかったのである。厚木の相愛社は農事研究と学習活動から出発し、やがて政治運動に強い関心を寄せるようになった。政府の弾圧が強まると、この農事研究・学習結社を隠れ蓑に政治活動が続けられた。後年、政府の弾圧や懐柔策、政変によって自由民権運動が挫折・衰退すると、彼らは再び農事研究・養蚕改良協会に戻っていった。同様な例としては、静岡扶桑社の製茶・養蚕研究結社、山形特振社の紅花振興結社などがあった。五日市の「五日市学芸講談会」は、表向きは学習結社なのである。

 明治十二年七月、千葉県の一村会議員で民権運動家の桜井静が、「国会開設懇請議案」を朝野新聞に発表した。これは全国の各新聞にも転載されて大きな与えた。沼間守一、馬場辰猪、小野梓、植木枝盛、杉田定一、河野広中、関沢忠教、佐野広乃ら論客、指導者たちは、国会開設請願運動を全国的な規模へと発展させていった。先に記したように、南多摩小川村(現町田市小川)の細野喜代四郎も村民から署名を集め、小川村を代表して国会開設要望の建白書と上願書を提出した。野津田村(現町田市鶴川)の石坂昌孝も、五日市の内山安兵衛や深沢名生(なおまる)も署名を集めた。明治十三年三月には、全国十万人の請願委託人の代表者たちが大阪に参集し、第四回愛国社大会を開催し、「国会期成同盟」を結成した。実際の運動参加・署名数は全国で二十四万名に達していたという。
 この大会の開催中に、政府は「集会条例」を太政官布告で公布した。これは強力な弾圧法で、「モシ一旦発布セバ、口アル者ハコノ法網ヲ脱スルアタハズ」と元老院の中にも危ぶむ者も出たほどの、プロシアの法規を真似た政治活動制限法であった。
 第一回国会期成同盟は秋に第二回大会の開催を決め、「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書」を起草し、片岡健吉、河野広中が捧呈委員に選出された。彼らは太政官に出頭し会見を求めたが、「管轄外」であり「人民に(請願の)権利無し」として受取を拒否した。次ぎに元老院に赴き、これを提出し受理を求めたが、ここでも「政体の変革」であり、「請願受理の先例がない」としてこれを拒否した。全国の請願者有志は激怒した。独自に上京し有栖川宮や三条、岩倉らに直接上願書を渡そうと試みた者も出たが、狂人扱いされたそうである。このような政府の対応に、近衛歩兵伍長の小原惣八や、新潟の赤沢常容らは憤怒の切腹で抗議した。

 「人民に請願権無し」という政府の対応に、卓三郎も悲憤慷慨の手紙を深沢名生に書き送っている。こうなったら我々はますます団結、人民の手で人民の権理、公正、自由、栄福を全備ならしむるよう、市民の憲法を学習、討究しようではないかと言うのである。五日市の学芸講談会こそその場であり、自分たちの手で憲法草案をつくり、来るべき時代に備えようと、深沢名生と権八親子に肺肝相照らし心志相投じ、情緒互いに吐露し合うことを懇請した。
 当時の町長だった馬場勘左衛門や県会議員だった土屋勘兵衛らも卓三郎に協力した。東京嚶鳴社が起草した憲法草案を嚶鳴社の野村本之助から入手して卓三郎に手渡したのは土勘であった。
 先に記した五日市学芸講談会の「討論題集」の六十三のテーマの中に、憲法に関係するものは十五題あり、他に法律に関するものが九題、人権に関するものが六題ある。約半分は憲法、法律、人権である。「死刑廃スベキカ」「独立国ハ外国ノ犯罪人ヲ引渡スノ義務アルヤ否」など、この時代に五日市で論じられていることが驚きである。
 市の立つ日は月に三回ある。幹事四人は選挙で選ばれる。馬勘、大福清兵衛、大上田彦左衛門、深沢権八の名がある。議長も毎回選挙で選ばれる。深沢名生や勧能学校の校長だった永沼織之丞、田島新太郎らの名がある。討論会は会員以外の傍聴はできない規則になっていた。論題の発議者が先ず十五分の持ち時間で演説する。次ぎに賛成者が一人十分で意見を述べる。その後討論に移る。討論が一段落すると、提議された問題点、疑問点に対して発議者が答弁する。次に議長が要点を整理すると、当日の論題に対して賛成か反対か起立で決をとった。当日の発議者は相当な下準備をしたことは当然だが、他の参加者全員もかなりの知識を必要としたと思われる。他国の憲法や法律の知識の他、その背景となる思想哲学やその国の歴史を知らなければ、単に聞きかじりの常識論に終わってしまう。彼らは書物の表紙の角が丸くなるほど読み込んで市の立つ五の日を迎えていたのである。
 卓三郎の呻吟と共に、五日市憲法は完成に近づいていた。土佐の植木枝盛も憲法草案に着手していた。盛岡でも、仙台でも、福島でも、出雲でも、熊本でも私擬憲法が作られていた。

 勘能学校校長の永沼織之丞も、深沢名生、内山安兵衛、土屋勘平衛、常七、町長の馬場勘左衛門、学務委員の内野小兵衛も、卓三郎に全幅の信頼と尊敬の念を持っていたようである。彼らは助教の卓三郎をかなり自由にさせている(※)。彼が読みたい本は入手し、共に各地の演説会に参加し、卓三郎を高知まで出張させ土佐の演説会に参加させた。さらに山梨に出張して土地の政治結社の人々と語り、その結社の社則を入手したりしている。旅費は深沢家がみたようである。こうして「自由県下不羈郡浩然ノ気村ノ住人、ジャパン国法学大博士タクロン・チーバー氏」は、呻吟しつつ全精神を注ぎ込んで、憲法草案に取り組むのである。おそらく、明治十四年の五月か六月頃には、五日市憲法は完成したと考えられている。植木枝盛案や内藤魯一案ができあがったのは八月である。

 (※)卓三郎が去った後の勧能学校(ちなみに永沼もすでにいなかった)の助教となった利光鶴松の手記によれば、勧能学校は自由民権活動家・壮士の巣窟、梁山泊で、皆談論風発、出入り自由、もう滅茶苦茶な状態であったらしいが、町の人の苦情は全くなく、子どもたちも彼らの教育を目一杯吸収していたのだ。まさに「自由県下不羈郡浩然ノ気村」である。

 さて、政府は教員の政治活動を封殺するため、小学校教員心得の布達で、小学校教員を准官吏とし、校長や教師の資格を厳しくし、さらにその政治集会への参加を禁止した。さらに学校教員品行検定規則を追加布達した。永沼の資格には全く問題がない。卓三郎はこの六月の布達に強く反発し、七月に勧能学校を退職している。卓三郎は「自由県下不羈郡浩然ノ気村」の五日市コミューンを去った。狭山村に移ったらしい。この頃、永沼と卓三郎の間に溝が広がっていったようである。やがて永沼が他に栄転することになって、勧能学校を離れると、五日市の人々は再び卓三郎を勧能学校の助教として呼んでいる。

 この明治十四年の十月、政変が起こるのである。その夏頃から政府は窮地に陥っていた。北海道開拓使官有物を政商・五代友厚へただ同然で払い下げた事件が政治問題化したからである。そして駄民権論者どもの全国的なヒステリー的高まりである。全国二十四万人が騒ぎ、奴らは勝手に私擬憲法を作っている。これらを何とかしなければならない。政敵・大隈を何とかしなければならない。…伏線がある。伊藤博文・井上馨・大隈重信の間には、密かに交わされていた国会開設、欽定憲法を作るという大まかな約束事があったのだが、大隈が伊藤・井上を出し抜き、有栖川宮に憲法意見を密奏した。その時大隈は藩閥政治を批判し、明治十六年に国会を開設するとし、憲法案も伊藤にすれば「意外の急進論」だったのである。「まるで駄民権論者どもに阿っているようではないか」
 大隈の後ろに福沢らの三田派がいるに違いない。また大隈は政商・三菱と結びつき、北海道開拓使払い下げ事件を猛烈批判して、黒田薩派と政商・五代を攻撃している。三菱の岩崎兄弟は前年、北海道官有物の払い下げを出願して断られた恨みがある。彼らが大隈の背後にいるのは間違いない。駄民権論者どもの第二回国会期成同盟大会は一月後に迫っている。大隈追放、北海道開拓使官有物払い下げ中止、そして駄民権論者どもの大会前に天皇による国会開設の方針を宣布し、政府を大改造する…。
 伊藤・井上派は黒田清隆の責任糾弾の先頭に立っていた伊藤の政敵・大隈を追放することにした。クーデターである。先ず、大隈=三菱=福沢一門が政権を獲る陰謀を企てたという噂を流した。そして大隈罷免、国会開設大詔、内閣・元老院の章程改正、参事院開設、開拓使払い下げ中止が決行された。さらに福沢派の官吏もいっせいに罷免した。助けられた形の黒田・薩派はもはや伊藤・井上派にものが言えない。

 この時の詔勅で「明治二十三年に国会を開設する」とし、「それまでの間、勝手に私擬憲法などを作ったりしてはならない」とした。
 また政府は、讒謗(ざんぼう)律と新聞紙条例の運用を強化し、十六年には集会条例と新聞紙条例を改正して言論統制をより強化した。
 この詔勅が民権運動の挫折を招いた。詔勅は運動の力を吸収したのである。そして弾圧は運動の力を押し潰したのである。
 反体制勢力に対して、権力には常に二つの方策がある。ひとつは弾圧であり、もうひとつは吸収である。吸収とは、彼らの主張の一部を換骨奪胎して取り入れ、懐柔し馴致しつつ彼らの主体を変質させ、やがて分裂、解体に至らしめるものなのである。

 近年まで、明治十三年から十四年に全国で作られたとされる私擬憲法草案の数は、およそ四十を超えるとされていた。その中でよく知られ、研究されているものは植木枝盛の「東洋大日本国憲按」を筆頭に、わずか十六ばかりであった。「五日市憲法」草案は色川大吉らが深沢家の土蔵から発掘するまで埋もれたままであった。この深沢家の蔵開けの時、嚶鳴社の「憲法草案」も同時に発掘されている(起草されたことは早くから知れ渡っていたが、それまで実物は発見されておらず、幻の憲法草案と言われていたのである)。これが契機となって、再び全国で当時の憲法草案発掘が進められ、現在六十本の草案や草稿が発見されている。
 私擬憲法草案の主なものは以下のものがある。嚶鳴社「憲法草案」、植木枝盛「東洋大日本帝国憲按」、土佐立志社「日本憲法見込案」、愛知の内藤魯一「日本憲法見込案」、交詢社「私擬憲法案」、熊本相愛社「相愛社員私擬憲法案」、、愛知の村松愛蔵「憲法草案」、京都府民有志「大日本国憲法」、筑前共愛会「大日本国憲法大略見込書」、静岡の東海暁鐘新報「各国対照国憲案」、岡山の山陽新報記者「私擬憲法」、矢野文雄「大隈参議国会開設奏議」、共存同衆・小野梓「憲法私擬」、壬午協会・小野梓「壬午協会案」、福地源一郎「国憲思案」、菊地虎太郎他「大日本帝国憲法」等である。菊地を除けば国約、民約憲法である。この他、政府官僚が起草したものでは、青木周蔵「大日本政規」「帝号大日本国政典」、山田顕義「憲法草案」、井上毅「憲法思案」、元老院「日本国憲按」がある。これらは天皇から人民に下しおかれる欽定憲法であった。ちなみに青木周蔵は、主権在民を唱えた希有な官僚であった。

 私擬憲法の中で最も早く起草されたのは、沼間守一を指導者とする東京嚶鳴社の「憲法草案」である。それだけ全国の憲法草案に影響を与えたとされている。この草案を嚶鳴社の野村本之助から入手して卓三郎に手渡したのは、県会議員だった土屋勘兵衛こと土勘であったことはすでに触れた。卓三郎はこれを五日市草案の参考にしたが、ほとんどその影響を受けていない。
 これら私擬憲法草案の中で最も突出した優れたものは、植木の二百二十条を持つ「東洋大日本帝国憲按」と、千葉卓三郎の筆になる二百四条の五日市「日本帝国憲法」であろう。この二つの憲法案には「国民の権利」条項として、明確な人権保障規定が徹底して設けられていた。

 植木枝盛案は国民主権と三十五条にわたる人権保障を規定し、大胆な地方自治を確立し、一院制と国会に強い権限を与え、参政権を大幅に拡大したものだった。中でも出色は不服従権・抵抗権・革命権である。「第五条 日本ノ国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺滅スル規則ヲ作リ之ヲ行フヲ得ス」「第六条 日本ノ国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコトヲ施スヲ得ス」、「第七十条 政府国憲ニ違背スルトキハ 日本人民之従ハザルコトヲ得」(国民の不服従の権利)、「第七十一条 政府官吏圧政ヲ為ストキハ 日本人民ハ之ヲ排斥スルヲ得」(圧政の排斥権、抵抗権)、「第七十二条 政府恣ニ国憲ニ背キ擅(ほしいまま)ニ人民ノ自由権利ヲ残害シ 建国ノ旨趣ヲ妨クルトキハ 日本国民ハ之ヲ覆滅シテ新政府ヲ建設スルコトヲ得」(革命権)…。無論、憲法制定権は国民の集合体である国家にあるとした(国約)。天皇が定める欽定ではない。

 五日市憲法に於ける憲法制定権は国民にあるとしている(民約)。天皇が定める欽定憲法ではない。
 五日市憲法草案の半分の条項は、民主主義理念を謳った第二編公法(国民の権利)と第三篇立法権で占められている。「第二編 公法 第一章 日本国民ハ各自ノ権利自由ヲ達ス可シ 他ヨリ妨害ス可ラス 且国法之保護ス可シ」(国民の基本的人権の不可侵性と、国法による保護)という条文を基に、身体・生命・財産・名誉を保護する権利、思想・言論・出版・討論演説の自由、信書の秘密保護、教授・学問の自由、奏呈請願・上書・建白の自由を規定した。
教授・学問の自由とは、児童・学生に何を教授するか、どんな教科書を使用するかは、学校・教師が自由に選択でき、国はそれに口出しすることができないとしている。無論、教育を受ける権利と教育を受けさせる義務を規定した。
 また皇族も貴族も旧士族も平民も薩長土肥も会津も仙台も庄内も長岡も、法の下にみな平等であるべきで、出身や門閥による特権は認めないとした。「凡ソ日本国民ハ日本全国ニ於テ同一ノ法典ヲ準用シ同一ノ保護ヲ受ク可シ 地方及門閥若クハ一人一族ニ与フルノ特権アルコトナシ」。

 司法権では罪刑法定主義をとり、裁判官の専断を防止する人権保護を打ち出している。また行政が、国民の権利として保障した自由権を侵そうとした場合は、国会が拒否権を発動できるようにしている。
「凡ソ日本国民ハ法律ニ掲クル場合ヲ除ク外之ヲ拿捕スルヲ得ス 又拿捕スル場合ニ於イテハ裁判官自ラ署名シタル文書ヲ以テ其ノ理由ト劾告者ト証人ノ名ヲ被告者ニ告知ス可シ」「法律ニ定メタル場合ヲ除クノ外ハ何人モ論セス拿捕ノ理由ヲ掲示スル判事ノ命令ニ由ルニ非ザレバ囚捕ス可ラス」「国事犯ノ為ニ死刑ヲ宣告ス可ラス 又其罪ノ事実ハ陪審官之ヲ定ム可シ」…。卓三郎等は日本の裁判に陪審員制度を採り入れていた。いま始められる裁判員制度は刑事事件である。卓三郎等は思想や政治活動に対する裁判にも、一般市民の陪審員を入れようとしたのである。

 卓三郎の五日市憲法草案は、君民共治主義を採っている。君民共治とは、天皇と国民が相互に信頼し合い、共に治めていこうというものである。しかしあくまで主権在民なのである。この憲法草案は国帝(天皇)の大権を認めている。天皇に外交権、条約締結権、戦争と平和を決める権利、議会を招集権、内閣組織権と、与えすぎの感すらある。しかしその天皇の大権は全て全国民の福祉に奉仕され、全国民の幸福のために行使されなければならない。しかし天皇が悪い大臣や軍人に唆され、天皇の議案が国民の福祉・幸福に矛盾し、間違った方向に進む危険が明らかな場合、国会(民選議院)はこれを「改竄」できるとした。天皇は民選の国会より下位にあると規定しているのだ。「モシ人民ノ権利ト人君ノ権利ト競合スルトキハ人民ノ権利ヲ勝レリトス」である。
 また突出しているのは地方自治の独立である。「府県令ハ特別ノ国法ヲ以テ其綱領ヲ制定セラル可シ 府県ノ自治ハ各地ノ風俗習例ニ因ル者ナルカ故ニ必ス之ニ干渉妨害ス可ラス 其権威或ハ国会シ雖モ之ス侵ス可ラサル者トス」。
千葉卓三郎は五日市に自分の場、自分の座を見出し、この憲法草案を彼の心血を注いで完成させた。しかし全国の自由民権運動と国会開設請願・私擬憲法制定の熱は、急速に冷め始めた。運動自体が変質し、挫折していくのである。それは追いつめられた政府、伊藤・井上の大博打による。

 明治十四年の政変(クーデター)である。大隈罷免、「明治二十三年に国会を開設する」という大詔、私擬憲法の禁止、讒謗(ざんぼう)律と新聞紙条例の運用強化、集会条例と新聞紙条例改正による言論統制強化は、自由民権運動の挫折を招いた。土佐立志社と東京嚶鳴社が分裂し、自由民権運動は崩壊に向かった。彼らの思想は 国権派と民権派に分かれていった。国権派は国家に馴致され、やがてその走狗となり、日清、日露戦争の積極派となった。民権派は社会主義に向かうが、やがて国家の弾圧によって潰されていく。その象徴は明治末の大逆事件である。
 自由民権運動の壮士たちは「弁士演説中止!」のため、その演説にデタラメな節をつけて喚くように歌い始めた。彼らも国権派と民権派に分かれ、金で雇われて選挙運動に血道をあげた。演説歌は、やがて大道に出て芸能化していった。選挙運動はおよそ政治ではない。社会的メッセージをなくした演歌もまた、およそ政治とは懸け離れる。

                         

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