(この一文は2009年の1月に書かれたものです。)
昨年の11月、アジア競馬会議を記念して、あのオグリキャップが東京競馬場に姿を現した。23歳である。既に種牡馬も引退している。馬体は雪のように真っ白だった。ファンとの事実上のお別れなのだろう。
オグリキャップは「芦毛の怪物」と呼ばれた。母ホワイトナルビーも、その父シルバーシャークも芦毛である。父のダンシングキャップもその父ネイティヴダンサーも、ダンシングキャップの母の父グレイソブリンも芦毛である。オグリキャップの芦毛はこれらの血によるものである。シルバーシャークやグレイソブリンということは、本質的にマイラー色の強い血統であろう。
彼は岐阜の地方公営競馬・笠松でデビューした。あまり注目を集めることのない競馬場である。母のホワイトナルビーの所有者だった小栗氏の仔分けの形で、彼の馬として鷲見厩舎に入った。生産者の稲葉牧場には二百五十万円支払われたという。中央競馬に入る馬たちの数千万円や超一流血統馬の数億円に比べれば、格安の馬だったのだ。
父のダンシングキャップの子どもたちは地方競馬に実績があったが、中央では強い馬を出していない。つまり小回りのダートコース向き血統だったのだ。安馬オグリキャップはこの地方の小さな競馬場で12戦10勝を挙げて注目された。主戦騎手は笠松のリーディングジョッキー安藤勝巳(通称アンカツ)である。二度の敗戦は、笠松が小回り過ぎたためであろう。後に手綱をとった武豊は、オグリはコーナーで手前を変えるのが下手だったと証言している。広く直線の長い競馬場なら、多少コーナーでもたついても彼の瞬発力が補って余りあったことだろう。
やがてオグリは中央競馬に馬主登録のある佐橋氏に二千万円で売却された。「俺も中央で、オグリに乗り続けたい」とアンカツは痛切に思ったにちがいない。アンカツは二度とオグリの手綱をとることが叶わなかった。
地方競馬の騎手が中央に移籍することはできなかった。年に数度の騎手や馬の交流レース、招待レースでしか、中央で騎乗することはできなかったのである。しかしアンカツの痛切な思いはやがて徐々に叶っていくのである。あのアンカツを中央で走らせたい…競馬界にも様々な規制緩和が検討され始めた。オグリと彼の笠松時代の主戦騎手アンカツが、その契機となったのだ。
こうしてオグリは中央競馬の栗東・瀬戸口厩舎に入ったが、四歳クラシック登録がなく、皐月賞にもダービーにも菊花賞にも出走できなかった。オグリを追加登録で出走させよというファンの声も挙がったが、それが認められることはなかった。追加登録が認められるようになったのはその数年後であり、オグリがその契機となったのだ。
思えばオグリキヤップは、JRA、競馬界における幾つかの規制緩和の契機となったのだ。オグリキャップの功労であろう。
クラシックに出走できないオグリは、関西の皐月賞トライアルに相当する毎日杯に楽勝したが、その時敗ったヤエノムテキが皐月賞に優勝したのである。そしてダービーはサクラチヨノオーが、菊花賞はスーパークリークが優勝し、彼らは強い世代と評された。しかし彼らより強いのはオグリではないかと囁かれていた。
彼らの本当の勝負の決着は古馬となってからである。そして彼らの一年上の世代に、古馬になって急激に強くなった馬が二頭出現した。一頭は芦毛のタマモクロス、もう一頭は公営大井競馬のイナリワンである。彼らはやがて凄まじいまでの死闘を演じることになる。ここではそれらの激闘を振り返ることはしない。
オグリキャップは小さな地方競馬からやってきて、中央のエリートたちを敗り、国民的なアイドルホースとなった。オグリは縫いぐるみとなって、車に飾られ、家の窓辺に置かれ、子どもたちに抱かれた。彼は第二のハイセイコーと呼ばれた。
この間にオグリは佐橋氏から近藤氏に数億円で売却された。佐橋氏が脱税で馬主資格を剥奪されることになったからである。この所有の変更は名義貸しだったとも囁かれているが、無論オグリには馬耳東風のことであったろう。
私はオグリを見続け、つくづく馬が精神的動物だと教えられたものである。オグリは一時全く不振に陥ったのだ。素晴らしい調教タイムを叩き出し、見事に馬体が絞られ、芦毛に連銭が美しく浮き出、毛艶が良くても、全く精彩を欠くレースを繰り返したのである。彼は全く闘志を失っていたのだ。闘志が蘇ったのが、彼の最後のレース、有馬記念であった。
オグリキャップは種牡馬として全く不振だった。唯一の後継種牡馬となったノーザンキャップは47戦3勝の二流馬で、ろくな機会のないまま廃用となった。ロマンや可能性より、競争原理と市場原理のみが支配するようになった競走馬の生産界には、あの吉田権三郎や一太郎のような頑固な信念のロマンチストはいなくなったのである。
可能性というのは、オグリキャップの祖父ネイティヴダンサーは、その能力が隔世遺伝する傾向があると言われてきたからだ。オグリの父ダンシングキャップは二流だが、オグリは一流だった。そのオグリの子は二流三流でも、次の世代に一流馬が出る可能性はあったと言うのだ。これは妄説である。その可能性は全くなかっただろう。
ネイティヴダンサーの直仔でも、ダンサーズイメージやレイズアネイティヴのような超一流馬も出ている。特にマジェスティックプリンス、アリダー、イクスクルシヴネイティヴ、ミスタープロスペクターを輩出したレイズアネイティヴの種牡馬としての実績は凄まじい。
オグリは凡庸な能力しか持たなかった父ダンシングキャップの仔として生まれ(※)、地味な地方競馬場でデビューし、その類い希な能力で中央へと駆け上り、エリート馬たちに互して全く引けを取らず、彼らを敗り、ファンの胸を高鳴らせた。彼は奇蹟の馬だったのだ。実に競馬界の素晴らしき功労馬である。なぜなら、彼の子どもたちは未勝利馬でも短歌を詠ませ、エッセイを書かせるのだ。
かつて安倍晋三が「美しい日本」を連呼していたおり、私は「美しい日本に」と題したエッセイを書いた。かの「オダギリ馬」の一頭であるウツクシイニホンニを、寺井淳の「聖なるものへ」という歌集の中に見出したのだ。未勝利のまま死んだ彼女は、オグリキャップの娘だった。
ウツクシイニホンニ死せり日の丸の 翩翻と予後不良の通知
※ 母ホワイトナルビーはオグリローマン(父ブレイヴェストローマン)を出し、名牝の仲間入りをした。この半妹も笠松競馬場でデビューして7戦6勝(主戦騎手はアンカツである)、中央に移籍し桜花賞を勝った。
昨年の11月、アジア競馬会議を記念して、あのオグリキャップが東京競馬場に姿を現した。23歳である。既に種牡馬も引退している。馬体は雪のように真っ白だった。ファンとの事実上のお別れなのだろう。
オグリキャップは「芦毛の怪物」と呼ばれた。母ホワイトナルビーも、その父シルバーシャークも芦毛である。父のダンシングキャップもその父ネイティヴダンサーも、ダンシングキャップの母の父グレイソブリンも芦毛である。オグリキャップの芦毛はこれらの血によるものである。シルバーシャークやグレイソブリンということは、本質的にマイラー色の強い血統であろう。
彼は岐阜の地方公営競馬・笠松でデビューした。あまり注目を集めることのない競馬場である。母のホワイトナルビーの所有者だった小栗氏の仔分けの形で、彼の馬として鷲見厩舎に入った。生産者の稲葉牧場には二百五十万円支払われたという。中央競馬に入る馬たちの数千万円や超一流血統馬の数億円に比べれば、格安の馬だったのだ。
父のダンシングキャップの子どもたちは地方競馬に実績があったが、中央では強い馬を出していない。つまり小回りのダートコース向き血統だったのだ。安馬オグリキャップはこの地方の小さな競馬場で12戦10勝を挙げて注目された。主戦騎手は笠松のリーディングジョッキー安藤勝巳(通称アンカツ)である。二度の敗戦は、笠松が小回り過ぎたためであろう。後に手綱をとった武豊は、オグリはコーナーで手前を変えるのが下手だったと証言している。広く直線の長い競馬場なら、多少コーナーでもたついても彼の瞬発力が補って余りあったことだろう。
やがてオグリは中央競馬に馬主登録のある佐橋氏に二千万円で売却された。「俺も中央で、オグリに乗り続けたい」とアンカツは痛切に思ったにちがいない。アンカツは二度とオグリの手綱をとることが叶わなかった。
地方競馬の騎手が中央に移籍することはできなかった。年に数度の騎手や馬の交流レース、招待レースでしか、中央で騎乗することはできなかったのである。しかしアンカツの痛切な思いはやがて徐々に叶っていくのである。あのアンカツを中央で走らせたい…競馬界にも様々な規制緩和が検討され始めた。オグリと彼の笠松時代の主戦騎手アンカツが、その契機となったのだ。
こうしてオグリは中央競馬の栗東・瀬戸口厩舎に入ったが、四歳クラシック登録がなく、皐月賞にもダービーにも菊花賞にも出走できなかった。オグリを追加登録で出走させよというファンの声も挙がったが、それが認められることはなかった。追加登録が認められるようになったのはその数年後であり、オグリがその契機となったのだ。
思えばオグリキヤップは、JRA、競馬界における幾つかの規制緩和の契機となったのだ。オグリキャップの功労であろう。
クラシックに出走できないオグリは、関西の皐月賞トライアルに相当する毎日杯に楽勝したが、その時敗ったヤエノムテキが皐月賞に優勝したのである。そしてダービーはサクラチヨノオーが、菊花賞はスーパークリークが優勝し、彼らは強い世代と評された。しかし彼らより強いのはオグリではないかと囁かれていた。
彼らの本当の勝負の決着は古馬となってからである。そして彼らの一年上の世代に、古馬になって急激に強くなった馬が二頭出現した。一頭は芦毛のタマモクロス、もう一頭は公営大井競馬のイナリワンである。彼らはやがて凄まじいまでの死闘を演じることになる。ここではそれらの激闘を振り返ることはしない。
オグリキャップは小さな地方競馬からやってきて、中央のエリートたちを敗り、国民的なアイドルホースとなった。オグリは縫いぐるみとなって、車に飾られ、家の窓辺に置かれ、子どもたちに抱かれた。彼は第二のハイセイコーと呼ばれた。
この間にオグリは佐橋氏から近藤氏に数億円で売却された。佐橋氏が脱税で馬主資格を剥奪されることになったからである。この所有の変更は名義貸しだったとも囁かれているが、無論オグリには馬耳東風のことであったろう。
私はオグリを見続け、つくづく馬が精神的動物だと教えられたものである。オグリは一時全く不振に陥ったのだ。素晴らしい調教タイムを叩き出し、見事に馬体が絞られ、芦毛に連銭が美しく浮き出、毛艶が良くても、全く精彩を欠くレースを繰り返したのである。彼は全く闘志を失っていたのだ。闘志が蘇ったのが、彼の最後のレース、有馬記念であった。
オグリキャップは種牡馬として全く不振だった。唯一の後継種牡馬となったノーザンキャップは47戦3勝の二流馬で、ろくな機会のないまま廃用となった。ロマンや可能性より、競争原理と市場原理のみが支配するようになった競走馬の生産界には、あの吉田権三郎や一太郎のような頑固な信念のロマンチストはいなくなったのである。
可能性というのは、オグリキャップの祖父ネイティヴダンサーは、その能力が隔世遺伝する傾向があると言われてきたからだ。オグリの父ダンシングキャップは二流だが、オグリは一流だった。そのオグリの子は二流三流でも、次の世代に一流馬が出る可能性はあったと言うのだ。これは妄説である。その可能性は全くなかっただろう。
ネイティヴダンサーの直仔でも、ダンサーズイメージやレイズアネイティヴのような超一流馬も出ている。特にマジェスティックプリンス、アリダー、イクスクルシヴネイティヴ、ミスタープロスペクターを輩出したレイズアネイティヴの種牡馬としての実績は凄まじい。
オグリは凡庸な能力しか持たなかった父ダンシングキャップの仔として生まれ(※)、地味な地方競馬場でデビューし、その類い希な能力で中央へと駆け上り、エリート馬たちに互して全く引けを取らず、彼らを敗り、ファンの胸を高鳴らせた。彼は奇蹟の馬だったのだ。実に競馬界の素晴らしき功労馬である。なぜなら、彼の子どもたちは未勝利馬でも短歌を詠ませ、エッセイを書かせるのだ。
かつて安倍晋三が「美しい日本」を連呼していたおり、私は「美しい日本に」と題したエッセイを書いた。かの「オダギリ馬」の一頭であるウツクシイニホンニを、寺井淳の「聖なるものへ」という歌集の中に見出したのだ。未勝利のまま死んだ彼女は、オグリキャップの娘だった。
ウツクシイニホンニ死せり日の丸の 翩翻と予後不良の通知
※ 母ホワイトナルビーはオグリローマン(父ブレイヴェストローマン)を出し、名牝の仲間入りをした。この半妹も笠松競馬場でデビューして7戦6勝(主戦騎手はアンカツである)、中央に移籍し桜花賞を勝った。
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