芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

人のとなりに 小鳥の話

2015年10月28日 | エッセイ

 部屋のベランダの正面は高校のグランドである。高校は公立で比較的新しい。創立して間もないのであろうか。まだ卒業生はいないのではないかと思われる。昨年買った地図を見れば、この高校はまだ建設中の表示である。むろん、すでに開校している。
 このグランドは周囲にネットが張り巡らされていたものの、未整地で石がごろごろしていたため、全く使用されていなかった。ネットの上辺やネットそのものに雀をはじめとする小鳥たちがとまり、グランドの草むらに舞い降りては餌の雑草の実や虫たちを啄んでいた。
 昨年末からグランド内に建設会社のプレハブ事務所や仮設トイレが設置され、多くの重機やダンプカーが入って整地工事が始まった。工事中の騒音を嫌ったものか、小鳥たちは全く姿を見せなくなった。新たなネットも張り直され、この春やっと工事が終了した。
 今は早朝から野球部の練習が始まり、平日の昼間は体育の授業に使用され、放課後はサッカー部が練習をしている。日曜日はサッカー部と野球部が午前と午後に分かれて交互に練習をし、グランドの奥まった所では、陸上部の生徒たちが練習をしている姿が遠見される。

 徐々に小鳥たちが戻りはじめ、ネットの上辺にとまって何やら鳴き交わしている。
 今朝、そこに全身鮮やかなイエローグリーンの二羽の鳥を見つけ た。つがいであろうか。くちばしと尾の形や、とまり木がわりのネット上辺の横への移動の仕方から、インコやオウムの種であろうと思われた。くちばしから尾の先まで二十センチ余もあろうか、インコとしてはやや大きく、オウムとしてはいささか小さい。どこからか逃げ出したものか。二羽いっしょに逃げ出したとも思えない。あるいは飼い主が故意に放したものであろうか。
 インコやオウムの種は寿命が長い。オウムの種は人間より長命で、百年は生きるという。しかも彼らの種は意外と気性が荒く、時として凶暴である。飼育に困り放鳥される 場合もままあるらしい。
 二羽のそれらは、しばらく首を回しながら私の家のベランダを窺っているかのようであったが、やがてどこかへ飛び去って行った。
 ある日、彼等は四羽になっていた。どこかで営巣し、増えているのかも知れない。

 ベランダのたたきや、その幅広の手すり部分には、ご飯粒が撒かれている。炊飯器の鍋などに付着したご飯粒を、洗って取り置き、雀たちのために撒いたのである。だから私のベランダには毎日、雀たちが遊びにやって来る。
 雀は今や絶滅危惧種に入れられそうである。雀は人間の営みのすぐ近くで暮らす小鳥であった。子ども時代を思い起こせば、確かに最近その姿を見ること少なく、めっきりと数を減らしたように思われる。ひとつは屋根瓦の日本家屋が減ったことによる。また屋根と天井部分の暑気を逃がすために、壁に穿たれた小さな通風格子も見られなくなった。つまり雀たちの営巣場所が無くなったのである。またひとつに、烏などの大型の天敵が増えた。
 燕もすっかり数を減らし、報道によれば、昭和時代の三分の一になったという。これも近年の日本の住宅事情から、彼らの営巣が困難になったことに原因があるらしい。私たちの暮らしのそばから、彼らが姿を消すことは実に寂しいことである。

 かつて北原白秋と江口章子夫妻が、小岩の「紫烟草舎」と名付けた家に暮らしていた頃のことである。
 二人は窮乏生活を送っていた。貧しい白秋を慰めたのは、毎日庭に遊びに来る雀たちである。彼は釜やお櫃を洗った際に出るご飯粒を、雀たちにあげていたのである。
「もしあなたが、立ち行く事も出来ず、もう餓死するばかりだという場合が来たら、この雀たちが一粒ずつお米を銜えて来て、きっとあなたをお助けすると思いますわ」
 と章子は笑った。
 やがて白秋夫妻は小田原に家を紹介する人がおり、そこに移った。白州はその家を木菟(みみずく)の家と名付けた。まことに小さな山荘風の家である。
 やがて章子の予言どおり、白秋が紫烟草舎で書いた「雀の卵」「雀の生活」は本になって良く売れ、白秋に大いに米粒をもたらした。暮らしぶりが良くなった白秋は、木菟山荘の隣に洋館を新築した。
 どうせなら雀のお宿、雀山荘などと名付ければ、白秋は雀と遊んだあの極貧生活を思い出し、西行や芭蕉に憧れた清貧な暮らしぶりを続けたにちがいない。しかし白秋は新築祝いに多くの友人知人を招き、小田原じゅうの芸者を総揚げして、飲めや歌えのドンチャン騒ぎをやらかした。彼は酒好きで豪快で、陽気なトンカジョン(大店の大きな坊ちゃん)だったのである。これが章子との離婚の原因となったことは、以前「掌説うためいろ」の「火宅と清貧」に書いた。
 私は別に白秋の顰みにならって雀にご飯粒をあげているわけではない。また雀たちが将来、私にご飯粒を銜えて助けてくれるとも思えない。私には白秋のように雀の本を書く才能もない。しかし、ベランダに遊びに来る雀たちは実に愛くるしい。私は彼らを脅かさぬよう、レースのカーテン越しにそっと眺めて楽しむばかりである。雀たちが私にくれるものは米粒ではなく、素晴らしい癒やしのひとときなのである。

 いつもの年より早く、桜がちらほらと開花した。一羽のムクドリが咲いたばかりの花を食べていた。ムクドリは桜の花や蕾が大好物なのだ。その樹にカラスがやってくるとムクドリは鋭い声を立てて逃げた。カラスも花を食べるのかと見ていると、一二輪の花の付いた小枝を器用に折り、それを咥えると電線に移動した。カラスはその桜の小枝を咥え直すと、どこかへ飛び去っていった。巣作りをしているのだろう。巣に桜の花を飾るとは、なんと風流な烏(やつ)だろう。

 ベランダにお釜を洗った際に出る米粒を撒いていると、最初は二、三羽の雀が、近頃は十数羽、時に二十羽を超えてやってくる。おそらく「雀の噂」が広まったのだろう。二羽のムクドリもやってくる。時々ムクドリがスズメを虐める。近づき過ぎたスズメの頭や背を突いたりするのだ。虐められたスズメは驚くほどの大きな声で鳴き喚いて逃げ去る。
 ある朝、スズメの群れの中に羽根の色が異なる小鳥を見つけた。スズメと共に夢中で米粒を啄んでいる。スズメより一回り小さく、動きも俊敏である。羽根の色はくすんだ黄緑色である。おそらくヒワだろう。
「くすんだ黄緑色」はその小鳥に失礼であろうか。「鶸(ひわ)色」は鎌倉時代からの日本の伝統色なのだ。武士が礼服としてまとう狩衣に用いられた、実に日本的な渋い色で、特に鶸茶は男の色とされた。また女性の好む「鶯(うぐいす)色」という伝統色もある。
 先に挙げた北原白秋は、「雨は降る降る城ヶ島の磯に 利休鼠(りきゅうねず)の雨が降る」と詩ったが、「利休鼠」は鶸色より緑色が薄く灰色に近い。これも日本伝統の色である。
 ヒワは羽根色も姿もウグイスに似ている。私には容易に区別がつかない。強いて挙げれば、ウグイスはヒワより一回り大きいと覚えた。
 私の子どもの頃、小さな田舎町でも、一、二軒の「小鳥屋さん」があった。決してペットショップではない。小鳥の専門店なのだ。学校帰りによく立ち寄って、小鳥を眺めて飽くことがなかった。十姉妹、文鳥、錦華鳥、セキセイインコ、九官鳥、カナリアなどが目当てである。小鳥屋のオジサンやオバサンから、小鳥の飼い方や性質などを教えてもらった。店には、メジロやウグイス、ヒワもいた。ヒワはウグイスに似ているが、カナリアの仲間なのだとも教えてもらった。ヒワとカナリアはあまり似ていない。
 古くから日本人はメジロやウグイスを愛玩したが、ヒワもずいぶん飼われていたらしい。…ちなみに私はその小鳥屋さんから十姉妹を買った。文鳥や錦華鳥に比し、丈夫で子育ても上手いという理由だった。私は手乗り文鳥ならぬ、手乗り十姉妹に飼い慣らしたものである。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿