芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

ちょっと怖い話

2016年08月21日 | エッセイ

 以前ベトナム大使館に行く用があって、そこに向かっていた。ふと、その道や風景に見覚えがあることに気づいた。
 そうだ、この道の右手側の、一本か二本奥を平行に並ぶ通りに、TTIという会社が入ったマンションがあった。そのマンションは事務所用途として設計された感じで、TTIはその一階に入っていた。事務所の隣はたしかケーキ屋さんだった。私はその事務所に起こった話も思い出した。

 その当時、TTIは汐留スキーステーション(スキーバスの発着場)の企画とプロデュースをしており、私の会社はその企画に絡んでいた。汐留スキーステーションは巨大なパビリオンテントの中に、バス会社のカウンターブースや、インフォメーションブース、飲食ブースが入り、またステージやミニFMサテライトも設けられる。それが開設されるおりに、その運営を依頼されていた。私の会社の担当者はM君である。M君は頻繁にTTIに出向き、打ち合わせを重ねていた。

 ある時、M君からTTIの異変を聞いた。事務所に怪奇現象が起こるというのである。彼はそれを実際に目撃したわけではないが、TTIの社長をはじめスタッフたちから、その度々起こる怪奇現象を聞いたという。
 社員たちが帰り、社長が一人残って仕事をしていると、突然コピー室のコピーが作動する音がしたという。全員帰ったはずなのに?
「誰か残っているの?」と聞いても返事がない。しかしコピー機は回っている。行ってみると誰もおらず、コピー機は白紙を排出していた。彼はこの誤作動を不思議に思いながらも、電源を落とし、その夜は帰った。
 あるとき、社員たちが二、三人で残り、会議室で打ち合わせをしていた。他の部屋にはすでに誰もいないはずであった。するとトイレで水の流れる音がした。実際、水が流れていたそうである。またあるとき、誰もいない給湯室の瞬間湯沸かし器からお湯が流れ始めた。さらにまたコピー室のコピーが勝手に動き始めた。
 コピー機のリースとメンテの会社からサービスマンに来てもらい、調べてもらったがどこも故障していないらしい。しかし基板がおかしくなっているかもしれないので持ち帰って調べるという。その修理期間の代機も持ち込まれた。
 しかしその新品に近い代機もまた、無人のコピー室で作動し、白紙を排出したのである。また無人の給湯室の水道から水が流れ続けていた。
 ある朝、女性の取締役の方が出社すると、彼女のデスクに見知らぬ女性が座っていたという。彼女はぞっとしたものの、気丈に「あなた誰? そこで何をしているの?」と聞くと、その女性は椅子から立ち、無言のまま部屋を出て行こうとする。「待ちなさい! あなた誰なの! どこから入ったの?」…その女性は無言のまま、すっと彼女の横を通り、会社のドアから出て行ったという。

 ここに至って、TTIは阿含宗の行者の方に部屋を霊視してもらったそうである。その方の見立てによると「母子の霊がいる」とのことであった。TTIは阿含宗に浄霊を依頼した。その事務所に頻繁に出入りしている方たちもお祓いをしたほうがいいという。その浄霊は次の土曜日に行われることになったらしい。
 M君が一緒にお祓いを受けようと私に勧めた。私は「TTIには三回ぐらいしか行っていないし、企画書を仕上げなければならないので忙しい」と断った。本当はそんな恐ろしい所に行けるか、と思ったのである。
 浄霊は午前中に終わるらしいので、終わったら一時半か二時頃に出社して報告しますとM君は言った。しかしその日、M君はなかなか帰ってこなかった。彼は夕方になって社に顔を出した。やや顔色も悪く、強張った顔をしている。私は彼からTTIの浄霊の様子を聞いた。

 阿含宗の浄霊を担当される行者さんは三十歳くらいの若い方だったそうである。浄霊師というらしい。浄霊の修法を手伝う方も何名か来られたそうである。彼らは先ず、浄霊の本尊や、修法に必要な道具を運び入れ、祭壇を組み立てた。
 そして集まった社員たちやM君たちのお祓いがあり、社内の浄霊が始まったという。それは予定通り午前中に終了したらしい。
 浄霊師が言った。「霊は向こうの世界にお送りいたしましたので、これで大丈夫だと思います」

 茶菓が出され、やがて出前の食事も届き供応された。みな興味があって、阿含宗の方たちにいろいろ質問したり、世間話をしていたらしい。
 と、電話が鳴った。休日の会社である。若い男性社員が受話器をとった。
「はい、TTIです。…え? もしもし、TTIですが…あのう、もしもし…」
 誰かが彼に声をかけた。「誰? 間違い電話?」
 彼はやや青ざめながら受話器を置き、言った。
「子どもなんです。…子どもが、『お母さんは? お母さんはどこに行ったの?』と言うんです」
 そこに居合わせた人たちは、それぞれ周囲の目顔を見回した。…
 祭壇が再び組まれ、もう一度社内の浄霊が行われたというのである。

 その後、浄霊の効果があったのか、なかったのか、聞くことはなかったが、やがてTTIは六本木のプリンスホテルの近くに移転したのであった。


                                                              


光陰、馬のごとし 功労馬の話

2016年08月20日 | 競馬エッセイ
           (この一文は2009年の1月に書かれたものです。)

 昨年の11月、アジア競馬会議を記念して、あのオグリキャップが東京競馬場に姿を現した。23歳である。既に種牡馬も引退している。馬体は雪のように真っ白だった。ファンとの事実上のお別れなのだろう。
 オグリキャップは「芦毛の怪物」と呼ばれた。母ホワイトナルビーも、その父シルバーシャークも芦毛である。父のダンシングキャップもその父ネイティヴダンサーも、ダンシングキャップの母の父グレイソブリンも芦毛である。オグリキャップの芦毛はこれらの血によるものである。シルバーシャークやグレイソブリンということは、本質的にマイラー色の強い血統であろう。

 彼は岐阜の地方公営競馬・笠松でデビューした。あまり注目を集めることのない競馬場である。母のホワイトナルビーの所有者だった小栗氏の仔分けの形で、彼の馬として鷲見厩舎に入った。生産者の稲葉牧場には二百五十万円支払われたという。中央競馬に入る馬たちの数千万円や超一流血統馬の数億円に比べれば、格安の馬だったのだ。
 父のダンシングキャップの子どもたちは地方競馬に実績があったが、中央では強い馬を出していない。つまり小回りのダートコース向き血統だったのだ。安馬オグリキャップはこの地方の小さな競馬場で12戦10勝を挙げて注目された。主戦騎手は笠松のリーディングジョッキー安藤勝巳(通称アンカツ)である。二度の敗戦は、笠松が小回り過ぎたためであろう。後に手綱をとった武豊は、オグリはコーナーで手前を変えるのが下手だったと証言している。広く直線の長い競馬場なら、多少コーナーでもたついても彼の瞬発力が補って余りあったことだろう。

 やがてオグリは中央競馬に馬主登録のある佐橋氏に二千万円で売却された。「俺も中央で、オグリに乗り続けたい」とアンカツは痛切に思ったにちがいない。アンカツは二度とオグリの手綱をとることが叶わなかった。
 地方競馬の騎手が中央に移籍することはできなかった。年に数度の騎手や馬の交流レース、招待レースでしか、中央で騎乗することはできなかったのである。しかしアンカツの痛切な思いはやがて徐々に叶っていくのである。あのアンカツを中央で走らせたい…競馬界にも様々な規制緩和が検討され始めた。オグリと彼の笠松時代の主戦騎手アンカツが、その契機となったのだ。

 こうしてオグリは中央競馬の栗東・瀬戸口厩舎に入ったが、四歳クラシック登録がなく、皐月賞にもダービーにも菊花賞にも出走できなかった。オグリを追加登録で出走させよというファンの声も挙がったが、それが認められることはなかった。追加登録が認められるようになったのはその数年後であり、オグリがその契機となったのだ。
 思えばオグリキヤップは、JRA、競馬界における幾つかの規制緩和の契機となったのだ。オグリキャップの功労であろう。
 
 クラシックに出走できないオグリは、関西の皐月賞トライアルに相当する毎日杯に楽勝したが、その時敗ったヤエノムテキが皐月賞に優勝したのである。そしてダービーはサクラチヨノオーが、菊花賞はスーパークリークが優勝し、彼らは強い世代と評された。しかし彼らより強いのはオグリではないかと囁かれていた。
 彼らの本当の勝負の決着は古馬となってからである。そして彼らの一年上の世代に、古馬になって急激に強くなった馬が二頭出現した。一頭は芦毛のタマモクロス、もう一頭は公営大井競馬のイナリワンである。彼らはやがて凄まじいまでの死闘を演じることになる。ここではそれらの激闘を振り返ることはしない。

 オグリキャップは小さな地方競馬からやってきて、中央のエリートたちを敗り、国民的なアイドルホースとなった。オグリは縫いぐるみとなって、車に飾られ、家の窓辺に置かれ、子どもたちに抱かれた。彼は第二のハイセイコーと呼ばれた。
 この間にオグリは佐橋氏から近藤氏に数億円で売却された。佐橋氏が脱税で馬主資格を剥奪されることになったからである。この所有の変更は名義貸しだったとも囁かれているが、無論オグリには馬耳東風のことであったろう。
 私はオグリを見続け、つくづく馬が精神的動物だと教えられたものである。オグリは一時全く不振に陥ったのだ。素晴らしい調教タイムを叩き出し、見事に馬体が絞られ、芦毛に連銭が美しく浮き出、毛艶が良くても、全く精彩を欠くレースを繰り返したのである。彼は全く闘志を失っていたのだ。闘志が蘇ったのが、彼の最後のレース、有馬記念であった。

 オグリキャップは種牡馬として全く不振だった。唯一の後継種牡馬となったノーザンキャップは47戦3勝の二流馬で、ろくな機会のないまま廃用となった。ロマンや可能性より、競争原理と市場原理のみが支配するようになった競走馬の生産界には、あの吉田権三郎や一太郎のような頑固な信念のロマンチストはいなくなったのである。
 可能性というのは、オグリキャップの祖父ネイティヴダンサーは、その能力が隔世遺伝する傾向があると言われてきたからだ。オグリの父ダンシングキャップは二流だが、オグリは一流だった。そのオグリの子は二流三流でも、次の世代に一流馬が出る可能性はあったと言うのだ。これは妄説である。その可能性は全くなかっただろう。
 ネイティヴダンサーの直仔でも、ダンサーズイメージやレイズアネイティヴのような超一流馬も出ている。特にマジェスティックプリンス、アリダー、イクスクルシヴネイティヴ、ミスタープロスペクターを輩出したレイズアネイティヴの種牡馬としての実績は凄まじい。
 オグリは凡庸な能力しか持たなかった父ダンシングキャップの仔として生まれ(※)、地味な地方競馬場でデビューし、その類い希な能力で中央へと駆け上り、エリート馬たちに互して全く引けを取らず、彼らを敗り、ファンの胸を高鳴らせた。彼は奇蹟の馬だったのだ。実に競馬界の素晴らしき功労馬である。なぜなら、彼の子どもたちは未勝利馬でも短歌を詠ませ、エッセイを書かせるのだ。
 かつて安倍晋三が「美しい日本」を連呼していたおり、私は「美しい日本に」と題したエッセイを書いた。かの「オダギリ馬」の一頭であるウツクシイニホンニを、寺井淳の「聖なるものへ」という歌集の中に見出したのだ。未勝利のまま死んだ彼女は、オグリキャップの娘だった。

    ウツクシイニホンニ死せり日の丸の 翩翻と予後不良の通知

※ 母ホワイトナルビーはオグリローマン(父ブレイヴェストローマン)を出し、名牝の仲間入りをした。この半妹も笠松競馬場でデビューして7戦6勝(主戦騎手はアンカツである)、中央に移籍し桜花賞を勝った。


                                                               

兆民を再読す

2016年08月19日 | エッセイ
                                                              

 中江兆民は公布された大日本帝國憲法(明治憲法)を一読し、鼻先でせせら嗤ったという。

 兆民に関する本を何冊か読み直している。幸徳秋水の「兆民先生 兆民先生行状記」、井田進也編の「兆民をひらく」、そして「一年有半」。彼は癌を病み、医者からもって一年有半と言われたが、もっと短く宣告から九ヶ月で没した。
 それにしても、改めてすごい人だったと思うのだ。

「三酔人経綸問答」は、三人の男たちの政治鼎談である。哲学者で、西洋近代思想を理想主義的に語る紳士は洋学紳士である。
 国権主義的な国家の拡大と外への伸張を説く、絣の和服を着た壮士風の男は豪傑君である。
 この二人の客人に酒を出し、彼らを大いに語らせ、問われれば自らも語りながら彼らの話をまとめるのは南海先生である。
 この三人の中に、それぞれ兆民自身の、理路整然とした「西洋近代思想」や、領土拡大と国利のための政治学を披瀝する「国士的気分」や、「現実主義的な思考」が含まれていたと思われる。
 洋学紳士は小国主義が日本の取るべき道だと言い、豪傑君は大国主義をかざす。

洋学紳士「政治的進化の理法をおしすすめて考えると、自由というもの一つだけでは、まだ制度が完全にできあがったとは言えないので、そのうえさらに平等が得られて、はじめて大成することができるのです。なぜなら、人々がみないっさい各種の権利を欠けることなく持っており、またその権利の分量についても人によって多い少ないの差別がない、というのでないかぎり、権利の量の多いものは、自由の量もまた多く、権利の量が少ないものは、自由の量もまた少ない、ということになるのは、避けることのできない傾向だからである。それゆえ、平等にして自由、これが制度の最高法則です。…
 とるにたらぬちっぽけな国の国民が、今ごろになって、わずか十万ばかりの軍勢を出し、わずか十隻、百隻の軍艦を送って、はるか国外の土地を侵略し、本国経済の流通をたかめようなどというのは、バカでなければ気狂いです。もっぱらみずからを守り、自給自足するように努力する以外にないとすれば、そのための政策をなぜ考えようとしないのでしょう。
 民主、平等の制度を確立して、人々の身体を人々に返し、要塞をつぶし、軍備を撤廃して、他国に対して殺人を犯す意志がないことを示し、また、他国もそのような意志を持つものでないと信じることを示し、国全体を道徳の花園とし、学問の畑とするのです。…
 道徳の花園は、だれもが愛し、したう。破壊するに忍びないのです。学問の畑は、だれもが利用し、おかげをこうむる。破壊しようとするものはありません。…試みにこのアジアの小国を、民主、平等、道徳、学問の実験室としたいものです。ひょっとすると、私たちは世界でもっとも尊い、もっとも愛すべき、天下泰平、万民幸福という化合物を蒸留することができるかもしれないのです。」

南海先生「多くの場合、国と国とが恨みを結ぶのは、実情からからではなくてデマから生ずるものです。実情を見破りさえすれば、少しも疑う必要がないのに、デマで憶測すると、実にただごとならぬように思えてくる。各国たがいに疑うのは、各国のノイローゼです。青眼鏡をかけて物を見れば、見る物すべて青色でないものはない。外交家の眼鏡が無色透明でないことを、私はいつも憐れに思っています。
 こういうわけで二つの国が戦争を始めるのは、どちらも戦争が好きだからではなくて、実は戦争を恐れているために、そうなるのです。こちらが相手を恐れて、あわてて軍備をととのえる。すると相手もまたこちらを恐れて、あわてて軍備をととのえる。双方のノイローゼは、月日とともに激しくなり、そこへまた新聞というものまであって、各国の実情とデマとを無差別にならべて報道する。はなはだしい場合には、自分自身ノイローゼ的な文章を書き、なにか異常な色をつけて世間に広めてしまう。そうなると、おたがいに恐れあっている二国の神経は、いよいよ混乱してきて、先んずれば人を制す、いっそこちらから口火をきるにしかず、と思うようになる。そうなると、戦争を恐れるこの二国の気持ちは、急激に頂点に達し、おのずと開戦となってしまうのです。今も昔も、どこの国も、これが交戦の実情です。もし片一方の国が、ノイローゼにかかっていないときは、たいていの場合、戦争にまでならず、たとえ戦争になっても、その国の戦略はかならず防衛を主とし、ゆとりがあり、また正義という名分を持つことができるので、文明史のうちに否定的評価を記入をされることは、けっしてないのです。」

 いまの日本国憲法の起草者は、中江兆民ではなかったか? と錯覚しそうになってしまう。おそらく自由民権運動のさなかに数多く起草された私擬憲法草案や、兆民の思想、また後年の治安維持法で虐められながら憲法の研究を続けた鈴木安蔵、高野岩三郎たちの苗床があって、今の憲法が生まれ、受け入れられたのであろう。
 また、兆民を読むと、まるで現政権の対外政策、安保法制、9条をはじめとする壊憲への動き、自衛隊を超える目的を持った軍隊の創設、軍拡、場合によっては核武装も、という動きの愚かさを、叱り、諭しているかのように思われるのである。

モンテーニュの慧眼

2016年08月18日 | 言葉
                                                                


 16世紀ルネサンス期、「随想録(エセー)」で知られるフランスの哲学者ミシェル・ド・モンテーニュ。



  防備は攻撃への欲望と理由を与える。
              あらゆる防備は戦争の相貌を帯びる。

正義の政府はあり得るか

2016年08月17日 | 言葉
                                                        

 山田風太郎は私の大好きな作家の一人である。
 その彼の言葉。


 正義の政府はあり得るか 


 どうやら、正義の政府、正義の国家というものは「ない」のである。